第5話
夕食の後片付けを終えて、沙都子はランニングウエアに着替えた。
息子の
「ちょっと、走ってくるね」
沙都子は家を出るとガーデニング用品などを入れている物置から、例の切り抜きが入っているスーパーの袋を取り出した。
そして、誰もいない夜道を走り始める。
これは反撃の始まりだ。
卑怯な悪戯を繰り返している犯人は分かっていると、美香に思い知らせたかった。
——自分だって、同じ仕事をしていたくせに!
しかもあの容姿だ。
沙都子より汚い仕事をしていたに違いない。
侮蔑と憎悪で頭に血をのぼらせながら、沙都子は走った。
美香のマンションは知っている。
以前しつこくお茶に誘われたことがあったから。
周囲に人影はない。沙都子は辛抱強く美香のマンションを見張った。
午前零時近くになって、ようやく一人サラリーマン風の中年がマンションに入った。
沙都子は素早く動き、男と一緒にオートロックのエントランスに入る。
集合ポストの中に『302号 小山』の文字を見つけた。
ドキドキしながら、そのポストの中にあのスーパーの袋を入れる。
入れた途端、胸がすっとした。
あれは自分に来たものじゃない。もう無関係だ。
そんな思いから、急に力が抜けた。
ところが倦怠感と共に振り返ると、そこに美香が立っていた。
「水谷さん?」
美香は小さな目で上から下まで沙都子をじろじろ見る。
美香が連れているチワワが沙都子の足にまとわりつく。
沙都子は喉がカラカラになり、声が出なかった。
「ジョギング?」
美香に訊かれて、沙都子はやっと声を振り絞った。
「……小山さんの家……この辺だったかなって、思って……来て、みたの……」
「へーっ、やっぱりね」美香は妙に納得した顔でうなずく。「そういうことか」
美香にまっすぐに見つめられて沙都子の動悸がさらに速まった。めまいを起こしそうだ。
「上手い人って、努力してるもんなんだね。私、絶対こんな時間に走ろうなんて思わないもん」
すーっと、力が抜けた。
沙都子は崩れるようにしゃがみ込み、誤魔化すようにチワワの頭をなでる。
「——私さ、言うの恥ずかしいんだけど、水谷さんに憧れちゃってんの」
美香は自分の部屋のポストを開けた。
沙都子の動悸がまた速くなる。
「ずっと、友達とかいなくってさ、でも、私、自分の何が悪いのか、わかんないんだよね」
美香はポストの中から沙都子が入れたビニール袋を取り出すと、中をちらりと見て、他のチラシやダイレクトメールと一緒にゴミ箱に捨てた。
「色々、陰で言われてるかもしんないけど——私、直したいんだ」
美香は、沙都子に頭を下げた。
「リスペクトしてる人から言われたら、きくからさ。私のムカつくとこあったら、言ってね」
沙都子は美香の言葉を聞いていなかった。
呆然と、美香がチラシを捨てたゴミ箱を見つめる。
「あれ、いるの?」
美香はゴミ箱をあさり、自分が捨てたダイレクトメールを取り出した。
「けっこう使ってるから、優待券くるけどさ、どこにしまったかすぐ忘れるんだ。探すのストレスだから、ポストに入ってたらすぐ捨てることにしてんの。親が取っといてくれとかいうけど、それも忘れるし」
美香が寄越した封筒は、沙都子の夫が結婚記念日に予約した、この辺では有名なレストランからのものだった。
「……さっき……捨てた、袋」
「袋?」
「……駅前のスーパーの……」
「ゴミだよ。ここ犬飼っちゃダメだから、たまに正義感バカがネクラなことすんの。こっちは気ぃ使って、深夜に散歩させてんのにさ。この子保護犬でさ、ブリーダー放棄だから正確な年もわかんないんだけど、吠えないように声帯とられてるんだって、マジで可哀想だよね。言いたいこといっぱいあんだろうにさ」
「……」
沙都子は小さく「もう帰るね」と頭を下げた。
「大会、頑張ろう!」
元気な美香の声に振り返る気力もなく、沙都子はマンションを後にした。
疲れ切った沙都子が家に着いたのは午前一時を過ぎていた。
何も考えがまとまらない。
シューズを脱ぐのも億劫だった。
「おかえり」
リビングからの夫の声にハッとなった。
まだ起きていたのか……。
沙都子は気を取り直して、明るく「ただいま」と声を上げた。
平常を保とうと下駄箱横の鏡で、髪を整える。
穏やかに笑みをたたえて、リビングに入った。
ソファーに座る夫が、ゆっくり振り向いた。
「遅かったね」
笑顔の夫は、スポーツ新聞を広げている。
そこには沙都子の写真が、大写しで載っていた。
暴露 こばゆん @kobayun
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