10 Interlude 乙女の影



 夏休みの間、何度か図書室を訪れた。部活の練習の始まる前だったり、練習の後だったり、ついで・・・だったが、彼女が二巻を読み終えたかどうかが気になっていた。


 本の貸し出し記録から、田中映有という名前であることを知った。しかし、下の名前は読めなかった。あの男が名前を呼んでいた気はするが、記憶に残らなかった。バスケ部の誰かに訊ねれば、彼女を知っている人はいるだろうが、わざわざ女の話を出せば、仲間たちに余計な詮索をされかねない。訊ねる気は起きなかった。


 同じ体育館を使う部活の中には、彼女の姿は見当たらない。今まで、注意も払わなかった女生徒の群れに目をやり、確認した。

 次に、夏休み中に登校してくる吹奏楽部、柔道部、剣道部、美術部などの体育館を使わない部活の群れにも、注目したがやはりいない。


 日に灼けていないのだから、室内の部活だと思っていたが、もしかしたら、屋外の部活なのかもしれない。そう思って、クラブハウス棟に出入りする女生徒の中も探したが、皆一様に日灼けしていた。日傘を差すサッカー部やラグビー部のマネージャーたちの中にもいなかった。



 夏休みも終わろうとする週、練習後に図書室に寄った。

 その頃には、彼女はやはり、休み明けまでプルーストにかかりっきりで、学校には来ないのだ、と結論づけていた。


 閉館間際の図書室は人も疎らだ。自習席も空席の方が目立ち、帰り支度の物音と楽しげな会話の声が聞こえてくる。

 手早く目当ての本を書棚から抜き取り、返却する本と共にカウンターで手続きしていると、パタパタと部屋に駆け込んでくる足音がする。



 田中映有だった。



 彼女は幾分、歩みを緩めてカウンター横をすり抜け、書棚に向かう。夏らしい白いワンピースの裾がシュウを掠めそうだと思った時、ふわりといい香りがした。その香りに誘われて振り返ると、一つに束ねられた髪と、形のよい耳と白い首筋が目に入った。


 事務員から手渡された本を緩慢にリュックに詰めながら、彼女がカウンターに戻ってくるのを待とうとした。

 しかし、本を詰め込んだリュックから汗の香りが立ち上るのを感じ、肩先に鼻を近づける。シャワーは取り合いになるため、今日はシャワーを浴びてない。


 逡巡しつつも、リュックを肩に掛け、シュウは図書室を後にした。




   §




 二学期が始まり、文化祭の準備が始まると、授業後に居残る生徒が増え、夕方まで校舎が賑わう。普段交流のない別のクラスの生徒にも知り合いが増えた。


 田中映有は同じ一年生ではあるが、階上のクラスだということも何となく知った。テニス部や野球部の男子生徒と親しそうに話しながら歩いているのを見かけたが、図書室で会った時の落ち着いた雰囲気とは違い、彼らと話す様子はとても快活で別人かと疑った。

 そして、時折、あの男と待ち合わせて下校していることにも気づいた。

 とは言え、田中映有への興味は静かに続いていった。




 彼女が、友人たちから「エーユー」と呼ばれていること、それが本名ではないことを知る頃には、冬に差し掛かっていた。

 暫く前から、廊下ですれ違う彼女の耳にピアスが煌めくようになった。夏休みに見た陶器のような首筋の印象が鮮やか過ぎて、銀色の耳飾りの異質感に気づいた。



 バスケ部の仲間を通じて、彼女が親しくしている大谷泰とも顔馴染みになり、泰から「エーユー」の話を聞く機会もできた。泰たちは、泰の幼馴染を含めた数人のクラスメイトで仲良くしており、田中映有はその一人だという。


 泰によると、ハンドボール部の山下、シュウが図書室で見かけた声の大きな男、が田中映有にアプローチし、誘い出すのを繰り返したあげく、唐突に山下が他校生と付き合い始め、あっさりと彼女から離れて行ったという。


 夏休み前、教室に押しかけてくる山下を田中映有があしらうのは毎日のことで、クラスメイトたちは苦々しく見ていた。助け舟のつもりで泰らは山下を茶化し続けたが、彼はめげることがなかった。次第に、山下が不憫だと言う声さえ上がり、彼女は強引な男の誘いに応じるようになっていった。


「まあ、エーユーはああ見えて、優しすぎるんだよな… 山下に女どもの同情票が集まったせいで、世論に負けたって見立てだよ。優等生気質もほどほどにしないと」


「へえ」

 シュウが図書室で見かけたのは、その押し負けている一場面だったわけだ。


「いいヤツなんだよ〜、友達思いでさ。しかも賢い。山下じゃエーユーは勿体なかったし、他に目移りしてくれて、万々歳だ」

「なるほど」

 プルーストを読む彼女の姿を想像する。そういう嗜好なのだ。知的な人だろうとは感じていた。


「エーユーが振られたみたいに言うヤツがいたら、否定してやって」

「え?」

 泰に思わず聞き返す。厄介払いできて良かったという話だと思って聞いていた。


「なんか、山下、意外と女の味方が多いのか、そんな風に言われてエーユー、気にしてんだよ」

 泰が首を傾げる。それは、本人も不本意に違いない。不本意を通り越して、不名誉ですらあるかもしれない。


「覚えとく」

 こうした噂話をシュウにするのは泰ぐらいだ。きっと役には立たないだろう。それに、噂話に介入するほど暇ではない。

 もし、田中映有と話す機会があれば、肩の力を抜け、譲歩するところを間違えるな、と伝えようと考えた。




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言葉の狭間に生まれる恋 細波ゆらり @yurarisazanami

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