08 Interlude スワンの道
夏休みの図書室の雰囲気は普段とは違う。
授業後の図書室は、受験を控えた三年生たちが静かに自習机に向かっていて、本の好きな図書室の常連である一年、二年生は邪魔をしないよう、目当ての本を手に取ってすぐに退室していく。
それが、夏休みともなると、休暇中にクラスメイトと会うことを目的に図書室にやってくる輩がいる。彼ら、彼女らは受験生への配慮もなく、話し声、笑い声で静謐を乱す。
春に高校に入学して、図書室の常連の一人となったシュウはそういった夏休みの闖入者に眉を顰めながら、書架の本に手を伸ばす。
大版のそれを手に収めた時、ちょうど目の前に現れた隙間から、隣の通路の人影が目に入った。
「はるさん、これ、読んだことある?」
地下鉄で見かけたことのある同じ一年生の男子生徒だ。休み中は制服の着用が義務付けられていないため、一瞬誰だかわからなかったが、整髪剤で整えられた短髪には見覚えがあった。
シュウの考える基準よりも、大きな声だった。
「… うん… … けど」
本と本の隙間の視界には入らない誰かが、その声に答える。常識的な小声で答えていて、シュウにはほとんど聞き取れなかった。
その小声が聞き取れなかったのか、男の方が背を屈めて話を続ける。
「ごめん、もう一回言って?」
二度目は、一段と張った声で問い直している。
気に障る声だと思いながら、シュウは手元の本に目を落とす。
「… から … たよ」
途切れ途切れの返事が耳に入る。
「え?」
上履きの底のゴムがカーペットを擦る音がする。
目をやると、男の方が小声の彼女にさらに近寄り、それを避けるように女の方が後退って書架にぶつかった。
シュウの目の前の棚にもわずかな振動が伝わってくる。
隙間から、明るい髪色の後頭部が見えた。
ゴホン
シュウは小さく咳払いをし、近くに人がいることを隣の通路に知らせる。
「ごめん、先に本返してくる」
シュウの存在に気づいたのか、彼女は小さく呟くと通路から立ち去っていく。
デートするなら、学校の図書室じゃなくとも… そんなことが頭を過ぎり、手元の本に目を落とそうとした時、視線を感じ、再び隙間に目をやる。
男がこちらを見ていた。
わざと覗き見していたわけではない。気づかぬフリをして、本の頁をめくった。
§
それから数日後。借りた本を返しに図書室に行くと、同じ栗毛色の髪を見つけた。声の大きなあの男と話していた女生徒だと直感した。
カウンター横のパソコンで蔵書を検索し、事務員に分類番号を伝えている。カウンターの上にあるのは、彼女が返そうとしている本だろうが、それはシュウがこの休暇中に読もうと思っていた本だった。
思わず、カウンターの手前で立ち止まる。
彼女はシュウが順番待ちをしていると思ったのか、無言で場所を譲った。今、カウンターに用があるわけではなかったが、立ち去るのも不自然でそのままそこに留まった。彼女が去った後、返却されるその本を借りていけばいい。
目元のはっきりした、綺麗な顔立ちだ。同じ学年だろうか、と考えるが、もともと人付き合いの少ないシュウには思い起こせるほどのデータベースはなかった。
あの日の男は、彼女に言い寄りたかったのだな、とその横顔を見て思う。夏休みにプルーストを読む彼女と、ガサツそうなあの男はやけに不釣り合いな感じがした。
真夏であるのに、日焼けもしていないその白い肌から、屋外の部活ではないとわかる。背は高く、身体つきも悪くない。運動部に入っていても良さそうなのに、とぼんやり考えていると、彼女がこちらを振り返る。
「ごめんなさい。本を探して貰っていて、時間、かかります」
周囲を気を遣い、口元に手を添え、シュウをまっすぐ見上げてそう言った。
「大丈夫」
不躾な視線への警告かと思い、見上げてくる視線から真意を探ろうとしたが他意はないようだった。
彼女はシュウの答えに軽く頷くと、視線をパソコンに戻す。
彼女のすぐ傍にある、「失われた時を求めて」の一巻を見ながら、読み終わったのか、訊ねてみたい衝動に駆られる。
シュウは、中学生の頃に読み始めたが、一巻の途中で読むのをやめた。細切れの時間で読むには不向きだと思い、長期休暇でなければ無理だと思ったのだ。
声を掛けるか逡巡するうちに、事務員が戻ってきた。
「田中さん、お待たせ。最近、誰も借りないから、書庫に下げちゃったのよね。ここ、開架の数が限られるから… 」
彼女に手渡されたのは、「失われた時を求めて」の二巻だった。
質問するまでもなく、シュウの疑問は解消された。
「ありがとうございます。借りていきます」
貸し出し手続きをする彼女をちらりと見る。
「学校なら、貸し出し期間長いから?」
一般の図書館は二週間が貸し出し期間だが、夏休み中の学校の図書室は夏休み明けまで借りられる。思いついたことをそのまま、口にしていた。
不意に話しかけたせいか、彼女は驚いたように振り向き、苦笑いする。
「うん。二週間で、読み終わる気がしないから」
シュウがくだけた口調で話しかけたからか、彼女も同じように答える。同意を示すと、彼女はにこりと微笑んで、カウンターから離れていった。
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