06 導かれた新たな道



 それから一週間はあっという間だった。

 実力考査の結果が戻って来たのだ。

 熱を出した直前の実力考査は、その時は気づかなかったが、やはり集中力に欠けていた。二日目の数学は酷かった。文系クラスの平均点に比べれば良かったが、大いに自信を喪失させた。


 塾には英語のために通っていたが、数学を補強すべきだ。

 大手塾、マンツーマン、通信教育、家庭教師、片っ端からインターネットで調べ始めた。しかし、映有の悩みに合いそうなカリキュラムは見当たらないし、家庭教師は当たりよりも外れが大きそうだった。



 晴れない気持ちで自転車を駐輪場に止めると、後ろからリュックを叩かれた。


「おす! 朝からしけた顔してんなよ!」

 振り返ると楢崎だった。

「おはよ。顔見る前から言わないでくれる?」


「… なんか元気じゃん。昨日、休みだったくせに… 」

 口に出して気づいた。


「あ、面接、もしかして昨日だった?!」

 晴れやかな表情の楢崎を見ると、返事を待たなくともそうだとわかる。


「まあ、俺様の魅力・実力・知性・意欲はしっかり伝わったって感じ」

 胸を張って答えられる楢崎が羨ましい。


「ちょっと… いきなり中二に戻ってる。キャラ崩壊してるよ」

 クールな学年一のイケメン、秀才のセリフではない。


「いいだろ、俺とお前の仲じゃん。で、なんでそんなツラなの?」

 気が大きくなっている時の楢崎は面倒くさい。映有のリュックに手を回し、何でも聞いてやる感を出してくる。


「楢崎、実力考査、数学何点だった?」

「ん? 88点」

 平均点は55点。映有は65点だ。面接が上手くいっていれば、受験生活から解放される身で、その高得点は無駄遣いだ。


「それが何だよ」


「共通テストの数学、だいたい何割取れるの?」

「面接官かよ、お前は。95%ぐらいじゃね?満点の時もあるけど」

 予想通りの答えだ。


「あっそ」

「で、何なんだよ!」

 こそこそと会話しながら、中庭を横切る。


「点、取れなくて落ち込んでる? らしくなっ!元気出せよッ」

「… 割と真剣に悩んでるの… 」

 楢崎がリュックをバンバン叩きながら励まそうとするが、今欲しいのは気合いではない。


 土間に入ると、シュウが靴を履き替えているところだった。

 テンションの高い楢崎がシュウに声を掛ける。


「うす!」

「おう 田中さん、おはよう」


「おはよう」

 リュックに置かれている楢崎の手を振るい落とし、気の晴れないまま二人から離れることにした。何か言いたげなシュウの視線に気づかないわけではなかったが、これ以上、弱っている姿を晒すのも嫌であるし、要らぬ気合いだけを注入されるのは御免だった。







 シュウと前後の席になったものの、映有から振り向いて話し掛けたことはない。田中さん、と呼ばれて振り向くことはあっても、何かモノを落としているとか、後ろから提出書類を回すとか、そんな類の会話だ。



「ねえ… ちょっと相談してもいい?」

 休み時間、シュウは席で参考書を読んでいることが多い。そこに座っていると思い込んで、振り返りざま、いきなり話し始めた。


 振り返ってみると、そこには誰もいなかった。

 机の上に、擦り切れた文庫本がぽつん置かれている。


「あれ? 居なかったか… 」

 誰に言い訳したのかわからないが、照れ隠しに独り言を言う。

 カバーもなく、剥き出しで擦り切れているその本を指でくるりと回転させ、背表紙を覗く。

 モンテ・クリスト伯の三巻だった。

 

「どうしたの?」

 映有が前を向き直ると、目の前にシュウが立っていた。

 本を盗み見ていた罪悪感で、用件がうまく出てこない。


「えっと… 相談したいことがあったんだけど… ごめん、何の本か気になって、タイトル見ちゃった… 」

 話すペースが崩れて、言葉が上手く出てこない。


「ああ、別に… 」

「モンテ・クリスト伯、好き?」


「気晴らし。長編の内の一冊だと、読み終わりたいっていう欲が出ないから、丁度いい。初めて読むわけでもないから、パッと開いたページから読んで、時間になったらやめられる」

 わかるようなわからない話だ。


「復讐の最中にやめられる?」

 開いたページから始めて、適当なところで止め易い話ではない。

「やめられるよ」

 映有の言いたいことがわかったのか、シュウが笑う。


「私の指輪物語みたいなもんだね」

「やめられる?」

 訝しむ顔だ。


「やめられる」

 即答した。

「無理だね。本を閉じてる間にアイツらが何をやらかすか、心配で無理」

 アイツら、とはホビットたちのことだろう。

 

「結末知ってても?」

「無理」

 シュウは頑なだ。

 指輪物語とモンテ・クリスト伯の違いを考えながら、少し間を置く。まあ、人それぞれあるか、と話を変えようと思う。


「復讐し始めたダンテスは無敵だから、安心して読める」

 シュウが答えを付け足した。


「あぁ… 」

 主人公の安定感の問題か、と納得する。

「じゃあ、ディヴィッド・カッパフィールドもダメ?」


「ダメ」

 やっぱりダメか、彼の言いたいことを理解した。

 映有が例えに出した本は、彼も読んでいるのかと思うと、少し可笑しかった。ここにも、長編マニアがいる。

 心配になって読むのをやめられないほど、頼りない主人公たちに没入して読書しているのだ。男の子らしい気がする。



「まあ、座って… 」

 本題を思い出し、背後の席を勧めると、僕の席だけど、と苦笑しながら、シュウは腰掛けた。


「数学、ちょっと自信なくしてて… 大した自信があったかと言われるとわからないけど、焦ってる。数学使うでしょ? 今から、私、どうしたらいいと思う?」

 改まって切り出してみると、相談する仲だったのか、という疑問や、相談の前提になるような映有についての情報を彼は持ち得てないのでは、と気づいて、支離滅裂になってしまう。


「数学… 実力考査の結果?」

 問いに頷くと、シュウら腕を組んで、天井を見上げる。


「点数見て、震えてたもんね… 」

「え… 」

 震えるほどだったとは、気づかなかった。


「後ろからだと、わなわなしてるのが、よくわかったよ」

 隠したかっただろうけど残念ながら、とその顔が物語っている。


「それで… 解決したいのは… 共通テスト? 個別試験でも数学使うの?」

「共通… 元々、数学得意だと思ってて… 滑り止めは、基本的に共通テスト利用で受けるつもりしてたんだ… 」

 映有は両親から国立大なら、県外に出ていい、と言われていた。しかし、映有の学びたいこと、カリキュラムで考えると私立の方が魅力的だった。だから、東京の本命大であれば、私立でも良いと交渉して今に至る。それを許してもらった交渉条件は、国立大も受けること。集中と選択だと両親に訴えたが、それなら、国立大対策に専念しろと諭された。

 その経緯から、共通テストを無視出来ないのである。


 映有の志望大で個別試験に数学は使えず、世界史探求で行くつもりだ。基本、英語と国語は得意であるし、何とかなると楽観視して夏休みを迎えたことが敗因だったのかもしれない。



 私大志望なのに、共通テストにこだわる映有をシュウは理解できないのだろう。暫くの間の後、シュウが言う。

「… 実力考査、クラスで五番?ぐらいじゃなかった?」

 回答用紙の返却順でクラス内の順位はわかる。

 学内の実力考査は、理系文系共通であるし、校外の模試に比べても相当難易度が高い。理科系科目はともかく、数学は文系クラスでも理系クラスとほぼ同じ進度、難易度で授業が行われている。だから、心配するほどじゃない、と言いたいのだろう。


「共通テストに特化して、効率よく点数を上げる… というか、点数を安定させる方法… だよね」

 シュウの呟きに頷く。


「朝、楢崎と話してたのはそれ?」

 小さく、うんと答えると、シュウは、頭の後ろに手を組み、背もたれに寄りかかって天井を仰ぐ。映有の左右にシュウの足が伸びる。


「田中さんが、僕に期待してることは何?」

 上を向いたまま、シュウが言う。


「… え… あ… ごめん、甘ったれた相談だった。忘れて!」

 そんな友達じゃないんだから、期待するなと言っているように聞こえる。弱音を吐いたとき、親身になってくれる関係性になっていると勘違いしていた。恥ずかしくなり、慌てて、前に向き直る。


「あ、待って待って! 甘ったれなんて思ってない」

 シュウの手が映有の椅子の背もたれに掛けられる。ちらりと振り向くと、前のめりになって近づいたシュウがいる。

「漠然とした不安のままじゃ、対策できないから。回答用紙、出して。何したらいいか、考える」

 

「え… えー!! 回答用紙!!」

 思わず、大きい声が出る。

 

「それは、マジで恥ずかしいヤツじゃん!! 字汚いし、欄外に汚い計算とかいっぱい書いてるし!!」

 採点者以外に見せられる代物ではない。


「だからでしょ。それから、今まで受けた模試の成績もまとめて貸して」

「そんなに曝け出すの? さすがに恥ずかしいよ!」

 恥ずかしいにも程がある。

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ? 僕は力になれるよ」

 その言葉と表情は、圧倒的な説得力だった。



「僕は、木曜と土曜以外は、南大通り沿いの図書館の自習室にいる」

「うん… 見かけたことあるよ、私もたまに行くから」


「今日もいる。自習室いくつかあるけど… だいたい三階にいる」

「うん」

 それはつまり… と質問する前にシュウが続けた。


「いるから」

 念を押すようにシュウが言う。じっと映有の目を見つめて、頷く。


 いるから、"来て"という意味に聞こえる。

 シュウが、来て、までは言わないのは、映有が断らないようにだろうか。映有の意思で来たかったら、来たらいい、という意味だろうか。頼りたい、と思うなら、頼りにしてくれていい、と。


「わかった… ありがと… 」

 

 来て、の答えではないから、行く、とは答えにくかった。来て、とまで言われていないのに、行くと答えて、勘違いしているように思われるのは嫌だった。


 しかし、シュウの気遣いを受け止めたことは示していいと思った。



 彼の視線に応えて頷くと、満足げにシュウは微笑んだ。


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