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 最近は履修もしてないのに面白そうな講義に勝手に顔を出すのが趣味になっていて。条件としては講義が面白そうなことと、厳格に出席とかリアペとか集めてないことが必須ではあるんだけど。

 水曜日の五限目には東洋思想の講義があって、それは最近のわたしのお気に入りだった。講義の前半は、教授が世界各地で集めているという曼荼羅のコレクションを解説してくれて。つまり解脱とは何かとか、密教における曼荼羅の意義がどうかとか、この図柄が、宇宙が何故こんなにも美しいのかみたいな話を滔々と語ってくれる。それはまるでビートルズがインド音楽に傾倒したりザ・フーのピート・タウンゼンドがメハー・ババの思想に入れ込んだようなもので。わたしもそういう思想を聞いているのはなかなか面白かった。

 講義の後半戦が始まると、徐々に試験対策とかそういう話もし始めるので、トイレに行くフリをしながら撤退。顔を覚えられるとイヤなので、コッソリと抜け出している。まあでも、ギターを背負った女なんて、きっとものすごい目につくと思うけれど。


 そうして大学を出たのがもう日が暮れかけるころで。わたしがキャンパスを出て、イヤホンを耳に挿し、中央線に飛び乗って家に帰る。とちゅう秋葉原で京浜東北線に乗り込んで、埼玉方面へ。荒川を抜けたらもうそこからは東京ではない。

 自宅、というかマンションは駅から自転車で一〇分少々走った先だ。部屋のなかは死んだように暗く、誰も居なかった。わたしと父親の二人暮らしだけど、去年から父は単身赴任で、すっかり帰ってこれなくなっていた。仙台の現場にしばらく住み込みと言っていたから、帰ってこれるのははやくても今年の冬だろう。まだ半年も先の話だ。

 だから、

「ただいま」

 なんて言っても誰の声も帰ってくるわけじゃなくって。ブーツを脱いだり、ギターをおろしたり。ガサゴソとわたしが出す物音がするだけだった。

 この家は死んでいる。

 わたしが帰ってくるまでは、父が帰ってくるまでは。


 帰って一番に何をするかと言えば、ふつうは手を洗って夕飯の支度でもするんだろうけど。でも、わたしの場合は少し違っていて。わたしは一目散に机に向かうと、パソコンの電源を入れ、ベッドサイドにあるギターラックから相棒を引っ張りあげた。フェンダー・ジャパンのジャガー。キャンディ・アップル・レッドのボディを太ももの上に置き、シールドをPCへと繋ぐ。ヘッドフォンをつけると、徐々にギターの音が響いてきた。

 立ち上がったPCで、わたしはすぐにCUBASEでも起動しようと思う。頭の中にある音像を何がしかのカタチにしないと、という強迫観念に常にわたしは駆られてる――そんな気がするからだ。

 だがそれがうまく行くとは言えないわけで。

 楽曲制作ソフトが立ち上がる前、自動的に立ち上がったDiscordが一件ポップアップしてわたしに通知してきた。



 From : Sally.S48LA

 『水無月、帰ってきた?』


 宛先はわたしだ。

 サリーのアイコンはネコみたいなクマみたいなキャラクターだ。知らない人が見たらインチキ臭いキャラクターに見えるけど、わたしはそれがレディオヘッドのアングリー・ベアだと知っていた。

『いまさっき着いた』

 わたしはテキストを返す。

 すぐに返事が戻ってきた。

『そう、いま話せる?』

『通話ってこと?』

『うん、』

『いいけど』

 起動していたCUBASEを止め、代わりにDiscordのボイスチャンネルに入る。すぐに

サリーが入ってきた。

「やあ、水無月」

 女、っていうような甘ったるい声。わたしにとってはここ数日ずっと聞き慣れた声だった。

 水無月というのはわたしのハンドルネームのこと。本名が純(June)だから、六月という意味でつけた。ただそれだけの名前だった。

「なに、急に」

 ヘッドフォンをつけ直し、インターフェースに繋いだコンデンサマイクに向けて話しかける。サリーはいつになく甲高い声で答えてくれた。彼女の声の背景からは、信号機や電車がレールを軋む音、あるいは第三者の話し声がひっきりなしに聞こえてきていた。

「別に用事はないけど、暇つぶし」

「そう。サリー、あんたいま外?」

「うん。"今日の家"に向かってる」

「今日は誰の家?」

「水無月の知らない男」

「それは誰だってそう。ねえ、ヘンなオッサンに絡まれないように気をつけなよ」

「それは大丈夫。あたしはサバイバル力高いから」

「そう」

「そう。それでさ、そうそう、話すこと思いだした。水無月さ、土曜日に新代田に行かない?」

「ライブ?」

 うん、って電波の向こうでサリーが首を縦に振った、ような気がした。

「何系?」

「うーん、オルタナとかシューゲイザーに近い感じ。元々地下アイドルやってたような子がさ、ひとり脱退して、ベース持ってバンドやってるんだけど。それがまあカッコいいのよ。そのうち売れるね、アレは」

「わたし、売れるバンドは好きじゃない」

「水無月はいっつもそう」

「そうよ」

 と、わたしはインターフェースに繋ぎっぱなしのギターを引っ張りあげる。じゃらんって省略したCコードを鳴らすと、チューニングが微妙に狂ってることが分かった。

「そう、でも」とわたしは続ける。「サリーが勧めるバンドがハズレだったことはないんだよ。チケット、取っておいて」

「そうこなくっちゃ。いま取り置きのDM入れるから、また連絡する」

 Discordの接続がすぐに落ちる。サリーのアイコンはログインのまま、それからSpotifyで何を聞いてるかが流れ出した。アーティスト名は『Ganmo』って聞いたことすらない。練り物から取ったふざけたコミックバンドみたいだし、もしかしたらカルト映画からもじって取ったようにも思えた。

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