第14話 調薬する火曜日 1
泥のように眠った後の朝は、爽快というわけでもなく、ぼんやりと重たい頭を動かして、俺は瞬きした。
すっきりしなかった。
昨日の出来事を思い出しては、切り離されるように帰されたことがのしかかって、少し憂鬱になった。
なんだか仲間はずれな気分になったのだ。
よく分からないながらも、結構ナヨとは長い間居たつもりだ。だから、自分の知らないナヨのことを知る火釜さんや、富士野が羨ましく感じたのだ。
「行きたくないなあ」
もやもやとした気持ちのまま学校に行く気がおきなかった。布団をめくって壁掛け時計を見れば4時過ぎ。昨日は帰ってすぐ寝たから寧ろ寝すぎたくらいだろう。
全然食べていなかったと思うと、急にお腹が空いてきた。昨日のご飯は残っているだろうか。のそりと起き上がってみる。
ジョウロはいつの間にか消えていた。かわりにナヨから貰ったミサンガが目に入る。昨日のことは事実あったことだと、理解した。
少し日が差してきた窓のカーテンを眺めて、一呼吸。ご飯の前に空気の入れ替えをするのも、頭が冷めていいかもしれない。
そう思って、窓を開けてみれば、隣から異臭がした。
いや、異臭は言い過ぎかもしれない。不快とは言い切れない微妙な感じの、抹香みたいな臭い。
ナヨの家からだ。
窓から隣を覗くが、隣は不思議なことにガランとしていて人がいる様子は見えない。ナヨの部屋に入るとベランダには物が干していたり吊るしていたりするのに。
ナヨの家はやっぱり異空間にでもあるのではなかろうか。
しかし、この時間帯にナヨの家から臭いがするのは気になった。
今までの記憶の中でも、こんな早朝に何かが臭ってくることはなかったと思う。
ナヨ、どうしたんだろう。
昨日帰りながら腕につけたミサンガを見下ろして考える。
何か、あったのだろうか。
考え出すと、いても立ってもいられなくなって、俺は家を飛び出して隣のナヨの家へと向かった。スウェットのままだったけど、相手はナヨだ。問題ない。
ナヨの家のドアからは、俺の部屋から臭ってきた抹香の臭いがした。
ナヨは起きているのだろうか。チャイムを押してみる。
ピンポン。
数度押してみたが、返答がない。じれったくなって、ドアノブを握って回すと、ドアノブが動いてドアが開いた。鍵はかかっていなかった。
「ナヨ、ナヨ、いる?」
俺の言葉に、返事のかわりとでもいうかのように物音がごとごとした。部屋の奥からだ。
「お邪魔します」
玄関でおざなりに靴を脱いで、部屋へとあがる。相変わらずごちゃっとしたキッチンを抜けて部屋へと入るが、人影はなかった。
「ナヨ?」
音はしたからいるだろう、そう思って声をかけてみる。
すると、部屋の隅にあった押入れから物音がした。あの押入れは、少し前に富士野が使っていた。場所と場所をつなげる空間になっている、とナヨは言っていたが、ひょっとしたらこの中にナヨはいるのだろうか。
押入れの前に立って待ってみる。
ごとごとと音をさせ、押入れの戸が揺れた後、ゆっくりと押入れの戸が開いた。
出てきたのは、くたびれた様子のナヨだった。
「……ヤクサ、なんでいる」
身をかがめてナヨは押入れから出ると、首を回してから、俺を胡乱な目で見下ろした。
「あ、えーと、その、臭いが」
「臭い? ……ああ、そうか。お前は鼻が良かったな」
一息ついて、ナヨは部屋の真ん中にあるテーブル近くに座った。俺も倣って近くに座る。
黙って、テーブルに用意していた小さなヤカンをとって、お茶を出してくれた。安心する匂い。
ナヨの匂いは、色んな生活臭だと、ふと思った。住み慣れた家の、落ち着けるもの。
「昨日は眠れたか?」
自分もお茶を作って、ナヨが湯のみを
眠れたかというならば、ばっちりだ。記憶がないくらいぐっすりだった。頷いて返事をする。
「うん、おかげで早くに目が覚めて……あのさ、昨日のって」
「昨日のは、概ねコンロが悪い。それから不死身の。お前は、不注意だったことくらいだ」
湯飲みを置いて、ナヨはテーブルに肩肘をつく。いつになく疲れているように見える。くせっ毛もいつもより跳ね、目元にはくまがうっすらと見えた。
「ヤクサ、お前は自分が思うよりも度胸がある。甘っちょろいところは、良し悪しだが、お前の魅力でもある。頭も悪くない。だから、引き返そうと思うなら、今のうちに言うといい。お前は別に、こちらに来ずとも上手くやれる奴だ」
遠くを見ながら言うナヨの言葉は無感動に響いた。
どうして急にそんなことを言うのだろう。
いや、急にではなかった。今までだって、やめたくなったか、嫌になったか、そう言って何度もナヨは確認してきた。
だけど、今のように、拒否の含みをこめた言葉は初めてだった。
「どうしたの、急に」
「俺にだって、面倒ごとに巻き込んだ罪悪感くらいはわくものさ」
ナヨはまた一息ついた。
「もし、お前が小さい頃に会わなければ、もし、お前の鼻が良くなければ、もし、お前が関わりを持とうとしなければ。話はもっと簡単だったのになあ」
額に手を当てて、くせっ毛を掻く。
それはつまり、ナヨは俺を多少なりとも気に入ってくれていたのだろうか。
ナヨ。名前を呼ぼうとしたところで、カチリ、とどこかでスイッチが入ったような音がした。
音がしたと思ったら、すぐにナヨは反応した。すっくと立ち上がって、台所に向かう。俺も立って、後ろからついていく。
どうやら音がしたのは、換気扇のようだった。プロペラが回っている。そのプロペラをナヨが睨んでいた。
この換気扇を俺は知っている。そして、ナヨの家にある物だから、もちろん普通のものではない。
台所の換気扇のスイッチを押すと、商人を呼び出せる。幼心ながらに、なんで、どうして、とナヨに聞いたことがあったが、そういうものだからという答えが決まって返された。
その商人はいつも黒尽くめでトレンチコートを着てアタッシュケースを持っていた。その姿は何度か垣間見たことはあるけれど、顔は見たことがなかった。
なかった、のだが、今はじめて見たかもしれない。
つるりとした面のようだった。凹凸が少ない顔立ちで細筆で書いたような目と眉があった。笑っているのか笑っていないのか分からない、不思議な顔の男だった。
さらにその隣にはもう一人小太りの男が立っていた。
黒尽くめの男と比べると、随分と人間味あふれる男だった。愛想よくにこにことこちらに笑いかけている。黒尽くめの男と似たような格好だが、コートは明るいカーキ色で、さらに二人を正反対のように印象付けている。
「やあやあやあ! 鍋師どの、おはようございます!」
朗らかな声で言ったのは、小太りの男だ。もみ手をするように手を合わせてナヨを見ている。
「朝早くに何の用だ」
ナヨのつっけんどんな言葉にも、小太りの男はにこにこと笑って流している。
「いやはや、貴殿ほどの腕前をもってすれば、簡単につかまらないのも頷けますな。
「アキナイ」
「教えなければ、仕事を干すと脅されたもので」
しれっと黒尽くめが答える。ナヨは機嫌悪そうに黙って睨んでいる。黒尽くめはナヨの渾名でアキナイというらしい。きっと商売人からとったのだろう。
居心地が悪い。きっと訪問者の二人には死角になるだろう位置から、台所を伺う。
「なあに、お話を聞いていただけるならすぐですよ。後継のお話です。魔女の技術の粋を集めた調合の数々を、そろそろ次代に任されてはどうか。昨日ははぐらかされましたからな」
「だから薦めた候補者を弟子に取れと? その話は断ったはずだ」
「素養も申し分ない者たちではありませんか」
「選ぶ権利がこちらにもあるだろう」
「それは……」
黒尽くめのアキナイさんが言って、顔を動かした。細めた目がこちらを見た。
「あちらの坊ちゃんは?」
「なんだ、鍋師どの、客人が?」
二人の視線が台所の先に突っ立った俺に刺さる。ナヨが溜息をついた。
「……彼にはまだ何も教えてはいない。いらんことに巻き込むな」
「防護の編み糸をつけていながら? 随分と苦しい言い訳のようで」
「アキナイ」
涼しい顔で言うアキナイさんは、俺の手元を見ていた。昨日ナヨから貰ったミサンガだ。さっと俺は両手を後ろに隠した。
「ほう? ほうほうほう、この少年、鍋師どのが見出したのですかな? 君、ええと」
ずいっとこちらの部屋へ入りそうな小太りの男の前にナヨは立って腕を組んだ。
「ヤクサだ。それ以上近寄るな」
小太りの男は柔和な顔をして俺を見るが、ちっとも安心できなかった。ナヨが前に立っていてよかった。この男、臭いのだ。
抹香臭い、それ以上の、埃とカビの嫌な臭い。
「ヤクサ君というのですか。はあ、また随分とお若い。彼はどのような経緯があってここに? 素養は? 出はどこの者で?」
立ちはだかるナヨの間から顔を出そうとする様子は滑稽に見えるが、近くに寄ろうとするたびに鼻がもげそうだった。
鼻をかばうように押さえると、ぽいっと紙袋が投げ込まれた。紙袋は俺の足元に当たってかさりと音を立てた。
誰が投げたのかと見上げれば、ひらりと手を振った富士野が小太りの男とアキナイの背後に立っていた。富士野、呼んでもいないのに、いつのまに。
「おやまあ、早朝から皆さんおそろいで。いやはや、年寄りは朝が早くて嫌になっちゃいますねー」
ぱちんとウインクをしてみせて、富士野はちょいちょいと俺の足元をさした。
紙袋のことか。
拾って中を開けると、マスクと四つ折にした紙切れが入っていた。
マスクはありがたい。さっとマスクをかけてから、紙切れを広げる。
紙切れは中々丈夫な厚紙だった。上等な紙なのかもしれない。手触りのいい紙面には、インクでミミズののたくった文字が並んでいた。
いや、今は多少なりとも読める。
「幸せ、掴む、薬」
読み上げて顔を上げれば、振り返ったナヨがわずかに困った顔をしていた。
「富士野! 魔女に使役されていたお前が何故ここにいる。どこから入ってきた」
「玄関からですよ。あと、そりゃ魔女がいなくなったからに決まってるでしょうに。契約主に殉じる柄でもないですからねー」
「ああ、そうであったな。お前は魔女を食べたのだから。よくも我々の前に堂々と顔を出せたものだ」
「だから、それは死後で事前の承諾もあったんですってば。口出し無用のはずですよ。まだ根に持ってるんですか、小さい男です」
紙切れのことを聞こうと思っていたのに、台所のほうでは富士野と小太りの男が言い合いを始めてしまった。まくし立てる小太りの男は柔和な顔が一変して赤黒く吊り上がった表情になっている。対照的に富士野はどうでもよさそうに流している。
「……富士野、これをどこで手に入れた」
黙っていたナヨが富士野に問いかける。
言い合いをしていた二人はナヨの言葉にとまり、富士野はにこりと笑んだ。
「魔女からいただいたんですよ? 幸福薬、とっても死ぬほど、退屈で面倒くさい調合なのでしょう? これを一日で作り上げたのなら、八草君は非常に価値があるということの証明になりますよね?」
「一日で? 幸福薬はまともに作るのも至難と聞くが、この少年がか?」
訝しそうに言う小太りの男に、富士野は大仰に頷いた。
「八草君にかかれば、出来ますよ。お前が用意した者たちよりもずっと優秀でしょうからね。ですが、初心者ですから呪い師の手ほどきはいるでしょうけど」
「初心者? 作ったことがないのに?」
言い募る小太りの男の横で、アキナイさんは一人ぱん、と手を打った。廊下の上の空間に巻物みたいな布みたいな物体が浮かんだ。あれは、俺の使い魔と同じく使い魔なのだろうか。
アキナイさんは、変わらず笑ってるのか笑ってないのか判別付かない顔で口を開いた。
「記録いたしました。当方が証人となりましょう。いかがですか」
アキナイさんが問いかけたのは、ナヨだ。ナヨはちら、とこちらを見る。
「ヤクサは……」
「やっ、やります!」
今言わないと、切り捨てられるに違いない。こんな嫌な臭いの男がナヨの周りをうろついていると知ると、どうにかしたかった。
「おい、ヤクサ」
「俺、やります!」
ナヨが言う言葉に被せて声を上げる。アキナイさんは通路の奥から俺を見た。
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