第7話 復習する土曜日 1
あれ、と思った。
土曜日で、学校はなくて、布団の中でまどろんでいるのはいつもと変わりなかった。
母さんが起こしに来て、父さんとご飯を食べて、そこでふと違和感に気づいたのである。
「こら、起きなさい。あんた! いつまで寝てんの! ご飯よ」
ばっと布団をはぐられて、のそのそ這い出る。眠気が覚めないまま食卓の椅子を引いて父さんの対面に座った。
大きくあくびをしていると、父さんが開いた新聞から顔を上げて笑う。
「キョウ、まだ目が寝てるぞ」
「あー……うん? 誰のこと?」
「お前のことじゃないか」
手のひらで目を擦りながら考えた。
どういうことだ。
父さんは俺がいくら嫌がっても、俺を呼ぶときはカオリと呼んでいた。それなのに、いきなりぜんぜん違う名前で呼ばれた。
数日前、そう、ナヨと会う前までは。いつからだろう。
ナヨと会ってから名前を呼んでの会話がなかったから、気づかなかったのかもしれない。息子が、とか、あんた、とか、お前、とかで会話が成り立っていたから。
「あの、さ。俺の名前言える?」
「何言ってるの。あんた、キョウでしょ」
母さんにまで言われて、眠気が一気に覚めた。思わずぽかんとした顔になる。
「あんたまだ寝ぼけてんじゃないでしょうね、いくら休みだからって、規則正しい生活送らなきゃだめよ」
「
「はあい、
呆れた顔をした母さんは、マイペースな父さんのおかわりをにっこりと返してお茶碗を受け取った。仲のいい両親のやりとりを見ながら我に返る。
きっとナヨだ。ナヨが何かしたに違いない。
散々現実離れしたことをしてみせたナヨだし、仮にナヨがしたのではなくても、ナヨ関連の、呪い師関連の何かなのだろう。
そう考えると、急いで会いに行かなければ。今日が休みでよかった。
残った朝食を慌てて掻き込んで、立ち上がる。
「ちょっと出かけてくる!」
「あら、何よ急に。帰りは?」
「昼ごはんには一旦帰るっ」
ばたばたと部屋で着替えを済ませて玄関で靴を履く。
「いってきまーす!」
いってらっしゃいを背後に聞きながら、俺はすぐ隣にあるナヨの家のチャイムを押した。
ピンポン。ピンポン。ピンポン。
連打をしていたら、がちゃりと少々乱暴にドアが開いた。
「煩い……ヤクサか、なんだ」
「ナヨ、おはよう! 中入っていい?」
俺の勢いに若干眉を寄せて、ナヨは体を避けてくれた。
「お邪魔しますっ」
入ってナヨがドアを閉めたのを確認して、口を開く。
「ナヨ、俺の名前、言える?」
「……ああ、そういうことか。まあ、上がれ」
ナヨは俺の質問に思うことがあったのか、部屋を指した。
ソワソワと落ち着かないまま部屋に入るが、途端プンと虫除けスプレーみたいな匂いが鼻を刺した。
「ナヨ、何この臭い」
勝手にちゃぶ台の近くに座らしてもらって、ナヨが来るのを眺める。
ナヨは部屋と台所の仕切りを手で避けながら入ってきて、俺の隣に座った。
「厄除けの呪い中だ。それで、名前だったな」
厄除け、でふと浮かんだのは富士野の顔だ。
富士野のことかと聞いたなら、きっとナヨの機嫌は悪くなるだろう。言わぬが華だ。
「うん、そう」
「あれはな、お前、前に用紙にサインをしてイエモリに送っただろう。だからだ」
「ちょっとわかんない」
正直に言えば、ナヨは座り方を崩して米神をかいた。
「呪い師や魔術にかかわるものは真名を大事にするっていうのは話したな。だから、それに連なる者となったからには、簡単に真名を分からないようにする必要がある。本人から言わない限りな」
「真名?」
「俺はお前の師であるから、分かる。八草香。それがお前の名前だ。今までお前の名前を知っていた奴も、呼んでいた奴も、お前から明かさない限りお前の名前を正しく呼ぶことはないし疑問にも思わない」
「じゃあ、俺の母さんや父さんが、俺のことをキョウって呼んだのも」
「代わりになるお前の名前だ。イエモリに申請しておいた……不満かもしれないが、必要なことだ。やめたくなったか?」
ナヨの言葉に少し考える。
両親がくれた名前を、両親に呼んでもらえないことは、さびしいと思う。
それでも、ここでやめると言ったらどうなるのだろう。
ナヨは決めたことはきっちり行える人だ。きっぱり関わりをやめて、それこそ不思議な術でナヨのことを忘れさせてしまうかもしれない。
ナヨのそばは、俺にとって居心地がいいのだ。小さい頃からの年の離れた友人。こうして新たに弟子の立場になったけど、それすらも。新しいことを覚えて、授業よりも不思議なことは魅力的だった。
それに、俺の名前は全くなくなったわけではない。
考えをゆっくりめぐらせて、後悔がないか自問自答する。すん、と空気を嗅いでみる。
虫除けの臭いにまぎれる、落ち着く匂い。ナヨの匂い。
一呼吸置いて俺は首を振った。
「いい。俺の名前がなくなったわけじゃないから」
断ると、ナヨは小さく「そうか」と返した。
「うん。それで、イエモリさんって何者?」
話を戻そうとナヨへ質問する。
俺の名前を歪めてしまうのだ。一体どんな人物なのだろう。
「保護と隔離の力を使わせたら右に出るものはいない、セキュリティを担う奴だよ。お前も知っているここの大家でもある。あいつに申請したものはお前が書いた3つ。一つ目はお前の真名。二つ目はお前の通称。三つ目は保護を依頼するための旧式言語でのサイン。この三つをもってお前は俺の弟子扱いであり、魔術ないしは呪いを担う末席であり、真名の保護が必要なものであるとした」
さらっとナヨが言った言葉にぎょっとする。
大家って。
大家というと、いつもにこにこ柔和な顔をしたおばあちゃんだ。笑みを浮かべたらくしゃくしゃの梅干みたいに笑う、小柄な人である。小さい頃に引っ越してきたとき、よく飴やポン菓子をくれたのを良く覚えている。俺が小学校を卒業するくらいの時には息子の実家で暮らすと出て行ったはずなのだが。
「いいかヤクサ。昨日のような件は二度と起こすな。真名は特に必要に駆らなければ、絶対に口に出すな。まあ、もう、大分手遅れではあるが……」
最後にぼそりと嫌なことを言わないでほしい。
「今後のことを考えて、お前に正しい使い魔との契約を教えよう」
ナヨは一回手を合わせて鳴らした。
昨日見た、ぶよぶよとした塊が中に浮かんでいる。ナヨの使い魔のタベルだ。
「タベルの仲間に適当なのがいるそうだ。今後お前が俺の手伝いとして薬や呪いを扱うなら、使い魔に加えたほうがいい」
タベルはふよふよと宙に漂って、ナヨの言葉に頷くかのように身を震わせた。震えることによって、ぶよぶよの柄であるマーブル模様が波打つ。淡く重なるような奇麗なマーブル模様だ。
「はい、ナヨ質問! タベルがマーブル模様なのは、ナヨの影響なのかな」
「ああ」
ナヨはポケットから1つの実を取り出した。どうみてもポケットに収まったら膨れそうな大きさの実なのだが、出す前も出した後もポケットに膨らみはない。
じーっとみていたら、ナヨが教えてくれた。
「これは『山々袋つきエプロン』といって、薬棚1つ分程度の物が入る。お前の分はそのうちだ。ほら、それよりこれが俺の実だ。お前に1つやろう」
ナヨの実は、淡いオーロラ色をしたマーブル模様で、手に余るくらいの大きな長いトマトみたいな果実だった。実の先がとがっているから、ナヨの説明を思い出すに外へ向かって発揮するタイプなのだろう。
「俺の力は、混合と付与。薬の媒介にするとよく役に立つが、まあ、使い方はおいおい覚えてもらう。お前の実とはまた違うからな」
なんとなく思うに、俺の実は回復アイテムでナヨの実は合成アイテムみたいなものなのではないだろうか。
ひとまず頷いておく。
「さあ、契約に移るぞ。タベル、呼んでくれるか」
タベルは一度空に姿を揺らがせたのち、よく似た半透明のぶよぶよを隣に浮かせていた。
「ヤクサ、まず対象へ向かって真名を名乗る。次に対価を述べ、相手の真名を求める。こう言え。『天理に基づき希う。我が真名、八草香。召喚に応じ、必要なときに与える万物を受け入れよ。願い受けるならば名乗りを乞う』向こうが名乗れば、指を指し名をつけてやれ」
天理というのは、昨日の富士野の件でのお叱りの際に教えてくれた言葉だ。
文字通り天による
遥か昔に神様みたいな人たちが作った、術を扱うものたちを保護及び律するための、物凄く強力な規則だそうだ。
この場合の天理は、確か《契約時の真名使用は、その場限りとし、契約破棄と共に忘却される》だ。とても術者に都合がいい理である。
富士野のことで大変怒られた原因のひとつがこれで、天理に保護されない言葉で契約を結んじゃったから、富士野は契約がなくなっても俺の真名を覚えていられるかららしい。
昨日のお叱りを思い出して少し震えたので、頭を振って思考を追い出す。今はともかく、ちゃんとした使い魔契約だ。
「わ、分かった」
タベルとよく似たぶよぶよが漂いながら近くへ来る。息を吸ってはいて、ぶよぶよに向き合った。
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