第3話 またね 2
「今、何時だろ」
携帯を探って取り出すと、もう6時を過ぎていた。
学校を出たのが4時半だったからもう1時間程度も富士野と話していたことになる。
「俺、そろそろ戻ります。ナヨ、来なかったですね」
「困ったものですねえ、あの気紛れ屋。急ぎで来たってのに……おなかが空いて事件が起こったら大変です。八草君を食べちゃうかもしれません」
困ったように俺を富士野さんが見るが、笑えない。
明らかに捕食宣言された。若い身空で死んでたまるか。
「ふ、ふふ富士野さんは今日はどうされますか?」
「そうですねえ、おなか空きました」
会話が、会話が成り立ってないんじゃないか。
富士野さんの視線が、妙に痛い。
「菜食主義なら、うちに野菜が……」
「普段の食事と、必要に駆られる食事はまた違うんです。だから困っています」
富士野さんは床に落ちた自分のどろどろとした血痕を指で掬って口に入れた。
とても扇情的だけど、とても恐ろしい。
富士野さんの纏う芳香が揺らぐ。
少しずつ異臭に変わるような。熟れたというよりも熟れすぎた匂い。
不死者と言ったけれど、それってつまりゾンビなんじゃ。
「匂い、が」
言うと富士野さんが目を見開いた。
「驚いた。君は、とても、鼻がいい」
うっそりと微笑んで富士野さんが近づいてくる。
超、怖い。
「普通匂いはね、同属か呪い師くらいしか気づかないものなんです。ただの人が気づくことはまずありません」
ビー玉のような目が近づく。
何か、何か言わなければ、やばい。絶対やばい。
「実に貴重、実にいい。ああ、少しでいいから食べてみたくなりました」
うおおおおお舌なめずりやめろおおおお!!
だらだらと出る冷や汗が顎を伝う。口からは息を吸ったような引いた声が出た。
「大丈夫です、おびえないで可愛い人。生き胆とは言いません、ほんの少し……指を一本いただくだけでも構いません。それで我慢します、今日は!」
今日だけかよ!
パニックで動かないからだとは裏腹に思考はどこか落ち着いていて、おかしくなった富士野さんに突っ込む。いや、もうこんな奴は呼び捨てでいい、富士野め!
くっそ、こうなったのも全部ナヨが悪い!
いなくなるんだったら、色んな後始末もしておけばいいのに、ナヨ!
「さあ、その震える口で許しの言葉を吐いてください、八草君。指一本、指一本でいいですから」
喜色に歪む顔なのに、悪寒が止まらない。さっきまでもがれていた右手が伸ばされる。
ああもう、どうしてこんなときにナヨはいなんだ。
じりじりと後ろへ下がれば、富士野も詰めてくる。なにこの詰みゲー。
俺の顔に触れようと伸ばされた右手が間近にきて、走馬灯がめぐりそうになった瞬間。
ぱちりと静電気のようなものがはじけた。
「うおっ」
「いっつ!」
はじけた反動が俺にも富士野にも襲ったようで、同じ磁石の方位が離れるように間が離された。
仰け反った富士野が勢いよく起き上がった。
「君!なんてものつけてるんですか!! 危うく俺の指が消し飛ぶところでした!」
「は、え、いや知らんですよ! こっちこそ指なくなるところだったし!」
被害者ぶって言う富士野にいらっときて言い返すと、富士野は右手首を振った。
少しこげた匂いがするのは、さっきので富士野の右手が焼けたせいなのだろう。
指先にかけて黒ずんだ富士野の右手から白い煙が上がっていた。
「君よっぽどあの呪い師に気に入られたようですね。こんな強力な保護お目にかかったことないです……ああせっかくの珍味……」
悲しそうな顔の富士野は知ったこっちゃないが、富士野の言葉から考えると俺はナヨになにやら呪いをかけられているらしい。
ふと思ったのはあの小瓶だ。
鞄から小瓶を出すと、富士野は嫌そうな顔をした。
「やっぱりそれ、呪い師の道具じゃないですか。思いっきり君呪い師と親密じゃないですか。うう、久しぶりの痛みがこんなに切ない……」
ぐちぐち不貞腐れる富士野の悲壮感は、思いっきりそっちが悪いはずなのに少しだけ罪悪感が沸く。外面か、外面のせいなのか。
何故か痛む良心に従って声をかけてみる。
「あの、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです」
三角座りして拗ねる富士野に恐る恐る声をかけると、しょげた声が返ってくる。
「このままじゃ腐ります。でも君は食べれないなんて……人を狩るのも楽じゃないのに……」
「狩るって」
「食べないと消えちゃいます。俗に言うフェアリー系男子ですから」
「フェアリー系は人間食いませんけど」
ぞっとしながら突っ込む。
「富士野、さん、そんなにおなかが空いてるんですか」
「食べないと回復できないですもん」
もん、とか可愛く言っても言っている内容は空恐ろしい。
けれどこのまま放置すると、富士野はきっと、間違いなく事件を起こす気がする。
明日になったらニュースで殺人事件とか出てそうだ。
「えっと、肉とかじゃなくて血だけとかなら、まあ、俺が」
「えっ!?」
ぱっと富士野の顔が上がった。
「おなかはそこまで膨れませんけど渇きはましになります!! ので!! くれるんですか!!!」
テンション駄々上がりよった。
お、おう。と引きながら頷くと、悲壮な顔から一転して富士野はにこにこした。
「八草君はいい子ですねー。優しいですねー。酷い呪い師よりよっぽど人間できてますねー」
「ナヨはそこまで酷い奴じゃないと思うけど……」
「呪い師のことはいいんですよ! それより! くれるんですよね!」
正座してずずいと寄って来る富士野。
おい、近い。近い近すぎる。
夕闇になる外の景色から差し込む夕明かりが富士野の端正な顔を色づける。
麗しい作った顔にほだされたわけじゃないけど、人助けのためだ。
俺はゆっくりと右手を富士野のほうへ差し出そうとして、失敗した。
富士野が急に、床に落ちた。
ぱこん、と軽い音がしたのだ。
富士野の背後に、誰かが立っていた。
まさか。
細い足をさらく細く見せるような、足に沿ったスリムジーンズ。少し色あせたクリーム色のエプロンには、青やら紫やら茶やら色んな色が散っていて、だるっとした長袖シャツを捲くった細腕の先には見覚えのあるお玉が。
ゆっくりと見上げると、おぼろげになっていた顔が頭の中で一致した。
女のようななよっちい顔をして、無造作にのびた猫っ毛は後ろで一括りにしている。
「ナヨ」
「おい、せっかくの護法を無駄にするんじゃない、ヤクサ」
懐かしい懐かしい顔はしょうがないなという表情を隠しもせず、俺の前に。
ナヨがしゃがんで俺と顔を見合わせる。
「祝福の薬なのに、一つも祝福を受け入れずにいい子にしていたお前が、この脳足りん男に食い殺されるのは目に余る」
「祝福って」
「お前、鼻がいいだろう? だから、いい匂いにつられて行く先には富や財宝が得れるようにしたのさ。まあ全部お前は貰わなかったようだけどな。3年もあの状態を保つのは賞賛に値するぞ」
ぽんとお玉の握ってないほうの手が頭をなでる。
ナヨの、手だ。
「いらなかったよ、そんなの。ナヨと遊んだほうが、ずっと楽しかった」
「そうか。お前は相当な変わり者だな」
「ナヨほどじゃない」
まるで自分が小さい頃に戻ったようになる。
戸惑いながらもそれもイヤじゃなくて、こそばゆい。
「さて」
ナヨは立ち上がるとあたりをぐるりと見回して、足元に倒れている富士野を見下ろした。
「おい、不死身の」
ナヨがぞんざいに富士野を蹴る。呻いて富士野の頭が上がる。
「なんです呪い師。居たなら居たと言ってください」
不機嫌な富士野の声にもナヨは眉一つ動かさずにエプロンのポケットから漢方薬みたいな小さな四角い包みを取り出した。
「ヤクサは俺の弟子候補にする。これを飲んだらとっとと帰れ」
ぽいっとナヨが包みを投げると、富士野は慌てて起きて受け取った。
「は? 弟子とるんです?」
「ちょうど弟子を募集してたところだからな。鼻もいいし顔見知りだし、惜しくなった」
「そんなとってつけたように……ああいや! 分かりました、分かりましたよ、残念極まりないですけど」
口惜しそうにちらっちらこちらを見るんじゃない富士野。
「帰りはつなげてやるからさっさと帰れ。そこの押入れの下だ」
ナヨはまたエプロンのポケットからマーブル色の何かが入った小瓶を取り出して富士野へ投げつける。
「乱暴な! もう! 八草君、いつでもいいから食べられたくなったら言ってくださいね」
綺麗にウインクを決めると、富士野は包みと小瓶の中身を飲み込んで押入れをあけて入って行った。
なにこれシュール。
富士野が押入れへ入るとぱたんと自動的に押入れが閉じた。
どうなっているんだ、これ。
相も変わらずナヨの周りは摩訶不思議だ。
押入れをあけてもただの空間があるばかりだ。
「ナヨ、これどうなってるの」
「場所と場所がつながるようにした。どこでもつながる入り口と思えばいい」
一瞬有名な青狸が浮かんだがそういうものなのだろう。
「ほらお前も帰れ」
「ナヨ! 明日も、いる?」
「弟子候補にしたしな。お前に将来の夢があるなら外すが」
「いや、特にない。ないからいてよ! 急にはなし!」
また急にいなくなられたらたまったものじゃない。
「お前は甘ったれのままだな。だからあの脳足りん男に付け入られるんだ」
「というか不死者とかファンタジー過ぎてちょっと考えられなかった」
「お前、小さい頃から俺といたのにそれか……ほら、もう暗くなる」
背中を押されて玄関へと送られた。
振り返って、念を押す。
「ナヨ、明日! また明日くるから! ええと、夕方、学校終わったらすぐ!」
「はいはい。お休み、ヤクサ」
くしゃりとなでられた頭がぽかぽかした。
ナヨの部屋から一歩でて、もう一度ナヨを振り返る。
ナヨは呆れたような顔をして手首であっちいけという仕草をする。
それが無性に嬉しくて、笑って手を振った。
久しぶりに心が沸き立った気がした。
「お休み、ナヨ」
こうしてまた不可思議な日常と隣り合わせの生活が始まった。
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