第2話 またね 1
転機が訪れたのは、16歳を迎えた春の頃。
春眠暁を覚えず、ぼんやりと習った漢文の授業を思い返しながら歩く高校の帰りだ。
俺こと
ちょっと他人とは違うという点は、女のような名前と、過去にあった不可思議な出来事、それから不思議な匂いが嗅げる、ということだ。
動物のように嗅覚がいい、とは少し違う気もする。人には感じられない匂いが分かるといえばいいのだろうか。
たとえば、山に遠足へ行ったとする。
そのときに不思議な甘い匂いにつられて道から外れると、見たこともない花々が咲いている。思わず写メを撮って帰ると実はその花はここらじゃ咲かない花だったり、希少価値のある高価な花だったりした。
また、海水浴に行ったとする。
潮風とは異なる爽やかな香りがして、ふらりと香りの方向へ歩く。すると珍しい珊瑚をあしらったアクセサリや、絶対普通に転がってるわけじゃないだろこれ、というような奇妙な品物や宝石が落ちていた。
なんとなく気味が悪かったから、そのまま放置して帰ったけど、後々思い返すと警察にでも連絡したほうがよかったのだろうか。まあ、それはおいとこう。
そんなことが、14のときから不定期に続いている。
いい匂いの元へ俺が行くと、不思議なことにこういう物がお出迎えしてくれるのだ。
そういうときにふと、過去の出来事を思い出す。
それは一般的な人はおそらく体験しないような摩訶不思議な出来事だ。
ナヨという女のようななよっちい男と一緒に過ごした日々で、唯一貰った物のこと。
「お前を祝福するものだよ」
そういって持たせてくれたもの。
今でもお守りのように持ち歩いているそれは、夜を閉じ込めたような液の中に花びらが舞う、不思議な不思議な小瓶だ。
ナヨがいなくなってからもう3年も経つ。
今でも女々しく思い返しては小瓶を取り出して眺めている。
今日も帰り道すがら、ふと思い出して小瓶を手に取った。
小瓶を顔の前に持ち上げて中を見ようとして、止まる。
小瓶の中身が、透けている。
「……え?」
思わず声が出た。
だって昨日までは、夜空のような黒々とした液だった。
それが、今は、半透明に透けてきている。よくよく見ると花びらがきらきらと星空のように散って消えていきそうだ。
どうしよう。
急激な変化に、焦って、でもどうしようもないことに落ち込む。
途方にくれて足早に家へと急いだ。
もしかしたら。
もしかしたら、隣の部屋にナヨが帰ってきて、なんとかしてくれるかもしれない。
この変化はきっとそういうことではないか。
無理やりいい方向へと考えて、足を回す。
もつれそうになりながら、最終的に走り出して、家に帰る。
ナヨとあった確かな思い出が消えていくのが、恐ろしくて泣きそうだった。
小さい頃から一番面倒を見てくれたのは、ナヨだった。
母さんも父さんもいつからか仕事に追われて、一人心細くいた俺をあやしてくれたのはナヨだった。
家の玄関の前に立つ。
もたもたと歩いて手に握り締めた小瓶を見る。
「色、が」
ない。
あれほど綺麗だった夜を泳ぐ花びらはもうなく、無色透明な液体が中にあるだけだった。
呆然と立ちすくんで、それから、隣の部屋を見る。
匂いは、しなかった。
分かってはいた。
重たい足を向けて、ナヨの部屋だった前に立つ。
無機質な金属のドアが冷たく拒んでいるように感じた。
ドアノブに手を伸ばそうとして、やめた。
もうきっとナヨはいないのだ。
悲観的な考えに支配されながら、俺は自分の家の前へ戻るのだった。
息を吐いて自分の家のドアノブを回す。
回して開こうとして、ふと、息を止めた。
匂いが、する。
花の、芳しい、ともすればむせ返りそうな甘い甘い匂い。
芳香が鼻をくすぐって、思わずくしゃみがでそうになる。
花の匂いは嫌いじゃないが、甘ったるいむせそうな匂いは苦手だ。
どこからだろう。
きょろりと見渡すと、誰かがアパートの入り口から上がってくるのを見つけた。
俺の住む部屋は2階で、ちょうどアパートの1階から続く階段のすぐ傍だ。
その人がどんどん近づくと、匂いはどんどん強くなる。
少しきつい。他のにおいがわからなくなりそうだ。
なんとなく気になって、その人が上がるまでドアノブを握ったまま待つ俺は酷く妙だったと思う。
それが、俺の転機だった。
花の芳香を纏う人は、作り物めいていた。
人間味のある顔立ちじゃなくって、冷たい人形みたいに作り物めいた美しい男だった。
ショートカットにした栗色の髪に白い肌、均整の取れた体。少女趣味の者が見たら誰もが王子様と認めるだろう容姿。くそ、イケメン滅びろ。友人とよく言う 魔法の呪文が脳裏でよぎる。
しかし、整った顔に貼り付けたような無表情の中、ビー玉のような透き通った青い瞳が俺を見た瞬間、ひやりとしたものが走った。
男がこっちへ来る。
本能的に身構える俺の前に男が立つと、小瓶を握ったままの手をとられた。
「あ、あんた何だよ」
震えそうになる声に叱咤して男を見ると、男は手の中の小瓶を目を細めてみていた。
「君、あの呪い師の知り合いです?」
言われて、ナヨのことだと気づく。
「ナヨを知ってるんですか!?」
「ナヨ? あいつそんな名前なのですか? 初めて知りました」
きょとんとした男の声に落ち着きを取り戻す。
「あ、いや、えっと、ナヨは俺がつけた渾名で。その、あんた……あなたはナヨの知り合いですか?」
「知り合いっていうか、客ですね。君こそあの呪い師の道具持っているなんて、どんな知り合いでしょう?」
質問に質問を返されて、なんて返そうかと黙り込む。
俺とナヨの関係というと、お隣さんというか友人というか、なんと言えばいいのだろう。
「……なんといえばいいんでしょう?」
結局分からなくてそう答えたら、思いっきり呆れた顔をされた。
イケメン様は呆れていてもお美しい。
「あの気紛れ屋とは少なくとも付き合いがあるのでしょう? ちょっとあいつは居ません?」
ナヨがいるかどうかなんて俺のほうが知りたい。
「いえ、俺もわからなくて」
「分からない? え、いない?」
途端情けなさそうに眉を落とす男は最初に見た人形の顔が嘘のように感情豊かだ。
男は俺の手から手を離して、その長い足で隣のナヨの部屋だったドアを開ける。
あれ、あのドア、そういえばどうして開くんだ?
思えば基本的に住人が居ない部屋はドアの施錠がされる。
なのに、ナヨがいなくなったあの日もドアは簡単に開いた。
そして今も。
手に握った小瓶を鞄につっこんで、つられるように俺もナヨの部屋だったドアをくぐる。
男は部屋の真ん中でうなだれていた。
四つんばいで頭を垂れる男は日本語じゃない言葉でなにやら言っているが、きっと悪態だろうと想像できた。
俺は久しぶりに入ったナヨの部屋を見まわした。やはり、何もない。
独特の薬の匂いも何も。
「あいつ、また出かけたのですかあああ! こっちは急ぎですってのに!!」
頭を抱えて、今度は日本語で言うと男はこっちを恨めしそうに見た。
「本当にあいつを知らない?」
「俺のほうこそ、知りたいです」
そう返せば、男は憂鬱に溜息をこぼした。
男は胡坐をかいて「仕方ありません」と姿勢を正した。
「俺は待ちましょう」
俺もなんとなく正座をして男の近くに座る。
「ナヨは、帰ってくるんでしょうか」
「来てくれないと俺は腐って朽ちてしまいます」
凄い言いようだなと男を見ると、男は俺の視線を受け取って「ああ」と言った。
「俺は
「……は?」
顔が良くても頭はどっか逝ってる人なのかそうなのか。
俺が間抜け面をさらしていると、男はふふふと笑った。
「信じてませんねー? いいでしょう、ではこちらを注目」
そういって男は右腕を真横に伸ばして、左手で右腕を指差した。
「えいっ」
男の左手が右腕をもいだ。
柔らかな豆腐をもぐみたいにぼろっと取れた。
勢いよく血が出るはずのそこは静かにぼたりぼたりと黒ずんだ液がもれるだけ。断面がチラッと見えた。白い骨っぽいのと赤黒いのとちょっとピンク色した肉っぽいのが見えた。
血まみれのスプラッタではないが、十分グロイ。
ぽかんと見た男は照れくさそうに笑っていた。意味が分からん。
「やだな、そんなに熱い目で見られると照れちゃいます」
「い、痛みとかは?」
「不死者は基本的に痛みが極端に鈍いのでへっちゃらなのです。まあその分どこかで攻撃受けて腕を落としたり体に穴が空いても気がつかないのが難点ですね」
許容量をオーバーしたのか俺は一週回って冷静な気分で男の説明に頷いた。
「大変ですね」
「そうですね、痛覚がないのも困り者です。ああでもいいこともありますよ、俺は綺麗でしょう?」
「は、はあ?」
いきなりのナルシスト発言だが、事実なので同意する。
「実はね、この顔もいじくって出来たんですよ。元の顔もそこまで悪くないんですけど、やっぱり王子様フェイスってのが一番便利です。色々みんな親切にしてくれます」
「ああ、ただしイケメンに限るってのができますよね」
「そうなんです! 美しいは! 作れる!!」
ぐっと握りこぶしで同意する男は確かに美しい。人形のようだと感じたわけは、こういうことだったのかと今更ながらに納得した。
「でもあちこちいじると、さすがにガタが来ちゃいましてね。俺も少々年ですし、こうして呪い師に薬を貰いにきたわけですよ」
「腐って朽ちるって、寿命ってことですか」
なんと、ナヨは寿命を延ばす薬も作っていたのか。
驚愕の事実だ。本当にナヨとは一体なんなのだ。
「寿命っていうより、なんでしょうねえ、俺の場合は増血剤というか元気ドリンクというか、まあ、そんなのです。食事を取れば別に薬はいらないんですが」
「食事?」
「生き胆ですね」
にこりと言いはなった男から、即座に距離を取る。
男はきょとんとしてそれから緩やかに首を振った。
「ああ、おびえないで結構ですよ。俺は生き胆の味が好きじゃないので。どちらかというと菜食主義です」
そう言って、もいだ右腕を肩に当てると男の手は再び元に戻った。
新手のマジックだと信じたかったが、男がもいだときに一緒に破れた衣服がそのままだった事実が否定を遠ざける。
「そういえば自己紹介がまだでした。呪い師を待つもの同士、交流を図りましょう。久しぶりの話し相手なんですから」
青いビー玉のような瞳が細められる。
「俺は
富士野太郎。
まさかこんな外人だと全力で訴える外見から、日本人名が出てくるとは思わなかった。
「八草香です」
「はは、可愛らしい名前だ」
「気にしてるんで」
遠慮がちに抗議すると、富士野さんは麗しい顔を緩めた。
「いやいや、君によく似合う素敵な名前ですよ。ご両親に感謝しないといけません」
褒められたのか、微妙な気持ちになりながら「はあ」と返すと富士野さんは無言の間を埋めるように質問をしてきた。
「君は学生さん?」
「高校2年です。富士野さんは?」
「今のところはフリーターでしょうか。年は秘密です。呪い師よりは長生きですよ」
「ナヨより年上? じゃあ30くらい?」
「さあて、八草君は知ったら驚くでしょうねえ」
それから数十分か話が続いて、気づけばカーテンも何もない窓から見える空が薄暗くなっていた。
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