駅員さんは優しかった。
増田朋美
駅員さんは優しかった。
その日もなんだか、かったるいというか。みんな気ぜわしくて、せかせかと歩いている人が少ないので、そう見えてしまうのだろう。ましてやここは日本と違って、明るく華やかというイメージが付きまとうパリ市内なのだ。
「これ、水穂さんに食べさせてくれ。」
杉ちゃんにそういわれてトラーはわかりましたといった。それにしても、モーム家ではこのところ気まずい雰囲気が続いている。なんでかなと思うけれど、毎日が憂鬱で、化粧や着替えをする気にならないというのが、概要だと思う。そんな中でも女性はまた視点が違うのであろうか。トラーだけが一人、にこやかにしていた。
「さあ水穂ご飯よ。今日も、たくさん食べようね。」
トラーは、水穂さんのいる客用寝室へ入って、ベッドの隣に置かれているサイドテーブルに、ご飯の器を置いた。ご飯は、杉ちゃんが作ったバターライスなのだが、水穂さんは、それを見ようともしなかった。
「ほら、ご飯の時だけは起きて、ちゃんと食べよう。」
トラーはそういって、水穂さんをベッドの上にすわらせた。そして、背中に介護用のクッションを置いてあげて、ご飯が食べられる姿勢にしてあげた。
「さあどうぞ、食べて。」
トラーにおさじを渡されて、水穂さんはそれを受け取って、小さく頂きますと言い、ご飯をおさじで口に入れてくれた。だけど、ご飯を飲み込もうとすると、えらくせき込んで吐き出してしまうのだった。吐き出すと、同時に朱肉のような色の液体が漏れてくる。ベーカー先生は、水はちゃんと飲んでいるので飲み込む力の問題ではないといった。ということは、つまり、食物を体が拒否しているとしか考えられないという。有名な、女性歌手と同じ症状だろうというのだが、水穂さんに、やせようとか、体重を何とかしなければという意思が全く見られないので、そことの違いが判らないと首をひねっていたっけ。トラーは、そういわれたことをおもいだしながら、水穂さんの吐いたもので汚れてしまった口を拭いた。
「どうもすみません。」
水穂さんはそういうが、
「謝らなくてもいいわ。」
とトラーはそういった。
「それより、一口でいいから、ご飯を食べてほしい。食べないんだったら、ちゃんと理由をはなしてくれれば、うれしいのに。」
水穂さん自身、これを言えたら最高だろうと思われるのであるが、彼は、それを言うことができなかった。そんなこと、思い出すこともできないのだろう。
まだ、せき込んでしまっている水穂さんに、トラーははいと言って、彼に、薬を差し出した。これだけはちゃんと飲んでくれる。この時はせき込んでしまうことはない。だから食べるということに、恐怖心を持っているのかなと、ベーカー先生は言っていたが、、、。その理由なんて、トラーもわかることではなかった。何よりも本人が成文化できないわけだから。
「横になる?」
トラーは、水穂さんに聞くと、水穂さんははいと言った。薬には眠気を催す成分があるらしい。大体精神関係の薬というのはそういうものである。トラーがクッションを外してあげると、水穂さんは倒れるように横になった。その有様を、トラーは悲しそうな顔をしてみていた。
眠ってしまった水穂さんにかけ布団をかけてあげると、トラーは大きなため息をついた。とりあえず、ほとんど手の付けられていないで、吐いたもので汚れてしまったお皿を片付けなければならなかった。こうなると、ほかの人であれば、水穂さんの事を非難する人も多いと思うのだが、トラーはそれはわかなかった。それよりも、水穂さんの事が余計に悲しく見えてしまうのであった。日本ではどうにもならない事情なので、こっちへ来ているということはちゃんとわかっているので、せめてこっちへいるときは、楽になってもらいたいものだと思うのに。水穂さんは、それどころか、こっちへ来て余計に緊張してしまっているらしい。
「ねえ水穂。」
トラーは、もう聞こえていないかなと思いながら水穂さんに聞いた。
「もしさ、こっちへ来て、願いが叶うんだったら何したい?」
水穂さんは目をつむったままだったが、聞こえたらしく、そうですねといった。
「なんでもいいわ。例えば、納豆が食べたいとか?些細なことでも何でもいいの。何かあったら言ってよ。」
トラーがもう一回そう聞くと、
「柔らかい綿布団で眠りたい。」
と水穂さんは言った。そのまま、もう薬が効いてしまったらしく、眠り始めてしまった。トラーは、こんな事、質問しなければよかったなと思いながら、吐いたもので汚れてしまったお皿をもって、台所へ戻った。戻ってみると、気が付かないうちに、隣の家に住んでいる、幼馴染のチボー君が、来訪しているのに気が付いた。
「あーあ。また派手にやりやがったな。水穂さん、もうどうしようもないね。こっちへ来たんだから、日本の歴史的な事情から解放されて楽になったと考え直してくれればいいのにね。」
と杉ちゃんは言った。
「実は僕もそれを話していたところなんです。ですが、日本って、なかなか異民族と接するきっかけもないですし、過去にとらわれすぎないで、生活することは難しいのかなって杉ちゃんに話してました。」
チボー君は、大きなため息をついた。
「まあねえ。まあいいやとか、違って当たり前だとか、そういう概念が日本には少ないってことだよな。」
杉ちゃんが、でかい声でそういうと、
「そうなんですよね。こっちでは隣に、ちがう民族の人が住んでいるってことは、当たり前のようになっていますから、まあ、そういうことなんだなって納得することはできるんですけど、日本人はそうじゃないですからね。何だろう、国民性っていうのかな。違っていると徹底的につぶしちゃう。それが、日本の社会ですよね。」
とチボー君も言った。
「幸いにも、杉ちゃんみたいに歩けない人は、こういう話もしやすいんですが、日本では、ちょっと違うなとかそういうことを口にするだけで、もう仲間外れですからねえ。」
「そんなこと言ってる場合じゃないわ!」
トラーはそう話している男性二人に、甲高く言った。
「違いがどうのとかそういう問題じゃないのよ。それより水穂にご飯を食べてもらわなくちゃダメでしょう。日本では、そういうことができないからあたしたちがここで世話をしているわけだし。何とかしないと。」
「そうはいってもなあ。トラ子さん。水穂さんが抱えている問題を解決させるのは難しいよ。」
と杉ちゃんが言った。
「それは日本に居ればでしょ?こっちでは、水穂のせいで、病院で診てもらえないことはぜったいないんだから、積極的に医療に触れてもらうようにさせましょうよ。」
「そうだね。そのために僕らはここに来た。でも、水穂さんの自分は銘仙の着物しか着られないという気持ちは全く変わらない。」
杉ちゃんは、現状を言った。
「ずっとこの話で、そこから全然先へ進みませんよね。確かに、日本の歴史上そうなってしまったことなんで、当事者である水穂さんが、自分は医療を受けれないと思ってしまうのは当然のことなのかもしれませんが、でも、ここへきて、もう解放されたんだといくら周りが言い聞かせても、当事者が受け入れないのはなぜだろう。」
チボー君はそう不思議そうに言った。
「例えば、暴力をふるっている親の元で育った子が、もう、そういう親はいないので、欲しいものをなんでも言えと言われても、言えないのと同じかなあ。」
「だから私、水穂に何が欲しいか聞いたわ。そうしたら、水穂、綿布団で眠りたいといったのよ!」
それを待ってたかのように、トラーが言った。
「どんなものかは知らないけど、できれば望みをかなえてあげたいわね。」
チボー君は、それを聞いて自分は何を言ってしまったのだろうかと、思ってしまったが、
「ねえ杉ちゃん。綿布団というのは、どういうものなのかしら?どこで手に入れられるのかしら?」
とトラーは勝手に話を進めていた。
「だからあ、綿というのは、綿花からとれるものだ。それを、布団に入れてあるんだよ。逆を言えばそれしか使ってないの。」
杉ちゃんが説明すると、
「ずいぶんぜいたくな話ですね。綿って言ったら、ほんの少ししか取れませんよね。それを、布団一枚にするわけだから相当作るのが苦労しそう。」
とチボー君は言った。
「そうだよ。だから、綿布団は今時ぜいたく品で、人気がないのさ。日本でもなかなか売られてないわ。水穂さんにとって見たら、夢のまた夢かもしれないね。いつも、せんべい布団で満足しているような感じだったからね。」
杉ちゃんが言うと、
「何とかしてこっちで手に入らないものかしらね。それが手に入れば、水穂だって、満足してくれて、ご飯を食べてくれるかもしれないのよ。それを考えたら、多少お金がかかったってかまわない。あたし、買いに行く。」
とトラーは言いだしてしまった。まったく、彼女の気持ちもわからないわけではないのだが、でも買いに行くことが果たしてできるだろうかとチボー君は思ってしまった。彼女は、そう思っても、電車に乗ったり、バスに乗っていくことができないのだ。
「そうだねえ。売ってるところがあるんだろうか?第一、日本でも、なかなか手に入らないぞ。ましてやこんなところで、そんなのあるわけが。」
チボー君が、そう彼女をなだめようとするが、
「私知ってる!」
ふいにそれまで黙っていたシズさんが、声を上げた。
「どこで売ってたの?」
杉ちゃんが聞くと、
「百貨店。」
とシズさんは不明瞭な発音で言った。
「どこの百貨店?」
杉ちゃんがまた聞くと、
「駅の近くよ。」
とシズさんが答えた。まあ日本語の知識のあまりないシズさんに説明をさせるのは酷と考えたチボー君は、タブレットを開いて、綿布団を売っている場所をしらべてみると、リヨン駅の近くにある百貨店にあるという。なんでも、日本食や日本の生活が健康にいいということで、ちょっとしたブームになっており、日本の伝統的なものが売っているというのだ。
「リヨン駅って、新宿駅よりもうるさい駅だよな?」
杉ちゃんにそういわれて、チボー君ははいと言った。
「そう遠くはないんですが、ちょっと行くのは難しいですねえ。」
「そんなのどうだっていいわ。あたしはすぐに買いに行くわ。そうすれば水穂が、ご飯食べてくれるんだったら!」
トラーはもう出かける支度を始めてしまっている。チボー君は彼女がそうなったら、もう止めるすべはないということを知っていたので、それ以上言わないでおいた。
「ほんなら僕も行くわ。水穂さんが、かわいそうだからさあ。」
杉ちゃんもそういってしまう。チボー君は本当なら自分も行きたかったが、水穂さんが、何かあったら連絡係が必要なので、モーム家に残ることにした。
「じゃあ私、タクシー呼び出して行ってくるわ。もし何かあったら、電話頂戴ね。」
トラーは、そういって、素早くタクシーを呼び出し、杉ちゃんと一緒に出掛けてしまった。ああどうして自分には彼女を止められないんだろうなとチボー君は思った。
タクシーに乗ったトラーと杉ちゃんは、平気な顔をしてリヨン駅まで向かっていた。こちらでは、杉ちゃんみたいな車いす利用者が外へ出るのは全く珍しいことではない。当たり前のように誰かに手を借りて、タクシーに乗り込み、目的地まで行く障碍者がいっぱいいる。杉ちゃんが言った通り、リヨン駅は人が多く、確かに新宿駅よりも、せわしなく動いていた。多分、ドアが閉まりますとかそういうことを言っているんだと思うのであるが、駅員が何人もいて、電車に乗り込んでいくお客をけん制していた。
杉ちゃんと、トラーはリヨン駅のタクシー乗り場に到着して、タクシーを降りた。本当に人が多い駅だ。もし、田舎者だったら入るのに躊躇してしまいそうなくらいだ。チボー君が調べた道順によると、リヨン駅から出ている地下道から入れるということだったが、トラーも杉ちゃんも、どこから入ったらいいのかわからないで、そのまま立ち尽くしているしかなかった。一寸トラーの息遣いが荒くなった。トラーは杉ちゃんにごめんなさいと言ってその場に座り込んだ。多分、人によってしまったというか、医学的に言ったら、軽いパニック発作を起こしてしまったのかもしれない。どうしたらいいのかわからない杉ちゃんが、仕方なくその場にいたのだが、そこへ、駅の中から、制服を身に着けた何人かの男性が出てきて、杉ちゃんたちを取り囲んだ。
何かわけのわからない言葉で、杉ちゃんたちに何か聞いてくるが、決して怒っているとか馬鹿にしているとか、そういう感じの雰囲気ではなかった。杉ちゃんは、思わず、
「僕たちは、水穂さんに綿布団を買ってあげたくて、ここへ来たんだけど、トラ子ちゃんが、ちょっと、かわいそうな感じなんだ!」
と言ってしまった。こういう時に嘘偽りはなく、取り繕ってしまうこともせず、本当のことを話すのが一番いい。
駅員さんたちは、とりあえず、駅にたくさん設置されている看板を指さし始めた。杉ちゃんはすべての物に違うよと答えて、
「だから、綿布団を売っている、店はどこにあるんだ!」
と言ってしまった。駅員さんたちが、困った顔をしていると、杉ちゃんはチボー君に借りたタブレットを見せてしまった。駅員さんたちはそれで納得してくれたらしく、
また何か言ってくれたけれど、杉ちゃんには聞き取れなかった。代わりにトラーが立ち上がって、真っ青な顔をしていたが其れでも、
「こちらの方角よ。」
と杉ちゃんに言った。
「駅員さんたちは、それを教えてくれているの。だから、こちらの方角の地下道へ行けば、大丈夫だって。」
「それはいいけど、お前さんは大丈夫なのかい?」
杉ちゃんはそう聞いた。
「大丈夫よ。だってあたしが、苦しんでいるんだったら、水穂はもっとつらいだろうし、あたしたち、綿布団を買ってこなくちゃいけないっていう、役目があるわ。」
トラーはそうきっぱりと答えた。
「だから行きましょ!」
杉ちゃんも彼女の口調に何か変化を感じ取ってくれたらしい。すぐに表情を変えて、
「よし!行こうぜ!」
といった。その雰囲気というか、内容はわからなくても、様子で駅員さんたちはわかってくれるものだ。杉ちゃんたちが自分たちのしていることを理解してくれたと、感じ取ってくれたらしい。駅員さんの一人が何か言う。杉ちゃんはトラーの顔を見るとが、
「気を付けていってねと言ってるわ。入り口にはエレベータもあるから大丈夫。」
とちゃんと杉ちゃんに通訳をして、彼の車いすを押した。それを駅員さんたちは、優しそうな顔で見送ってくれた。杉ちゃんなどは、この態度に感激して、駅員さんに手を振ってしまったくらいだ。
綿布団は、地下道を入ってすぐのところにある店に売っていた。ここはシズさんのいう通りだったらしい。確かに、一般的に使われている羊毛布団に比べたら割高ではあるけれど、でも買うことができた。二人が、布団屋にお金を払うと、布団屋さんは、配達しようかといった。そういう制度というかサービスも、日本にはないものであるが、トラーは自分で持って帰りたいとにこやかに笑って、それを断った。布団は敷き布団とかけ布団とあるのでかなり重かったが、トラーは何も文句も言わないでそれを持った。
再びエレベーターで地下道を上がると、先ほどの駅前広場に来た。駅員さんたちが、また何か言っている。でもトラーは謙虚にお断りした。駅員さんたちは、自分で持って帰るなんて、女の子なのに何を考えているんだという発言をした人もいるとトラーは言った。日本では、自分で持っていくのが当たり前なのにな、と杉ちゃんはからからと笑った。駅前に停車していたタクシーに乗り込んで、杉ちゃんとトラーは、モーム家に帰ってきた。
「お帰り。待ってたんだよ。綿の布団を探すなんて、大変だったでしょ。君も、発作が出たりしたのでは?もしかしたら迎えに来てなんて言うんじゃないかって心配だった。」
チボー君はそういって、二人を出迎えたが、
「いや、大丈夫だ。トラ子ちゃん、自分で立ち上がって、ちゃんと駅員さんたちと話してくれたぜ。」
と杉ちゃんが言った。チボー君は信じられないという顔をしたが、
「だって水穂のためだもん。ほしいものをかなえてあげたいじゃないの。じゃあ、これを、水穂のところへもっていこう。」
トラーは、重たい布団を運びながら、客用寝室へ向かった。チボー君はしばらく開いた口がふさがらないほど驚いたが、同時にトラーが、水穂さんの方へ意識を向けていると知り、なんだか不思議な感じがしてしまった。不思議というか、複雑だった。
「せんぽくん、男らしく、告白しろ。」
ふいに杉ちゃんに言われて、チボー君は我に返る。
「少なくとも、確実にトラ子ちゃんは、成長しているさ。それは同時に、心がお前さんの方から離れていくことを意味する。だから、そうならないためには、男らしく、ちゃんと気持ちを伝えなくちゃだめだぞ。」
「そ、そうですね。杉ちゃんのいう通りです。確かに、自分の思いをちゃんと伝えなければ、何もできません。」
チボー君は、顔が赤くなるのを抑えようとしたが、自分の体はその通りに動いてくれなかった。杉ちゃんは、それを見て、
「若い奴の特権だな。でも、そうやって、思いを寄せてくれている人間がいることって、トラ子ちゃんも幸せだねえ。」
とカラカラと笑った。
「お前さんのような存在といい、今日のリヨン駅で会った駅員さんたちといい、こっちは、優しい人ばっかだよ。日本にいるとさ、何生意気なこと言ってるんだ見たいな顔して、笑われたりするのがおちだもん。」
杉ちゃんにそういわれて、チボー君は思わず、
「そうなんですか。日本は、奥ゆかしいとか、そういう言葉があるのに、意外に冷たい国家なんですね。なんでも思ってることは、口に出して言って当たり前だと思うんですけどね。」
といってしまった。
「まあそこらへんは、国家ごとに違うのかな。でもお前さんのような、何ていうのかな、繊細さんというか、そういう奴はどこの国家にもいるってわかったんで、ほっとした。早くお前さんも、行動を起こすんだな。」
杉ちゃんに言われて何だか恥ずかしいチボー君だった。
駅員さんは優しかった。 増田朋美 @masubuchi4996
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