恋人はモフなオジ

 どっきどきする……!

 シェリは心臓が口から飛び出してこないよう唇を両手で押さえた。風呂上りの少し濡れた髪が緩く背を撫でた。

 今夜は、いわゆるふたりの初夜。


 シェリの就職や実家への挨拶、追い立てるような依頼でてんてこ舞いの中で、すでにキスまでは終えていたが、彼女が「あああのこういうことは時間のあるときにぃぃ」と怖気づいたので延び延びになっていた。

 しかしついに今朝、彼女は真っ黒な隈をつくったミオから「俺が行くか君が来るか選びなさい」と色気たっぷりの誘いキスを受けたのだ。


 ――結局、シェリとミオの魔力が完全に回復するには一週間を要した。

 風呂場で勢いであれやこれやとしていると、まず先にミオが倒れた。限界がきたのだ。

 薄白目を開けて静かになったミオに、シェリは半狂乱になって伝書を飛ばした。結界課に届いたシェリの全力緊急私信はシュバラウスの姿をしており、今度こそチャムはらしくもなく瞑目した。

 それでシェリも魔力が底をつき、チャムが到着したときにはふたりは折り重なるように気絶していた。


 治療院に運ばれて五日、退院して二日。もちろんシェリはミオの家で休養をとることになったが、ミオは「君は見張ってないとなにをどうするか心配だ」「タヘルが君の薬を運んでくるまでは」などと理由をつけ、彼女を自分の私室に閉じこめた。

 そして互いに愛を確かめ合いつつ寸止めをキメたことでミオの過保護は頂点を極めたり、シェリの父がミオが飛ばした猛禽からの知らせを受け、「師匠と結婚するだと!?」とミオの家に乗りこんだり、ついにタヘルが到着したりする騒動を繰り返し、試験のあった日からひと月が経っていた。


 もじっと指を組み、シェリはしばし空気をこねた。

 グラーダ師から借りた指南書のとおりに準備したし、きっと大丈夫……だよね。

 地下私室の階段を下りきった彼女はごくっと緊張を飲みこみ、結界の魔力を帯びたドアをノックした。




 ふむ。

 いましがた髭を剃り終えたミオは、真っ黒な液体の入った試験管を目の高さまで持ち上げた。

「持続力は大丈夫だろうが、問題は体力か……情けない」

 いくら王宮では実力派で美貌の魔粒子専門家と呼ばれようと、四十は立派な中年である。しかも例の一件で、冷えた風呂場に長いことシェリを乗せて倒れていたせいで、うっすら腰に痛みを感じるようになっていた。


 さらに据え膳はいただきたいと身の内の獣に理性を委ねようとした矢先、かわいい恋人からも『そういうことは元気なときにゆっくりしたい』とおねだりされたと曲解したことで、ここまで我慢をしてきた――彼は、今夜はどうしても成功させなければと張り切っている。

 手に持つのはシェリが試験のためにつくったドーピング剤、術の効果を持続させる薬だ。

「これを飲んで筋力増強の術をかければ……いやそれより回復効果をねじまけてむしろぶつぶつ……どちらにせよ、飲んでおいて損はないな」

 小指に一滴だけ乗せ、ミオがぺろりと舐めたときだった。ドアが控えめにノックされた。



 ***



 ミオは、シェリの真新しい夜着を二度見した。そして紳士然とガウンを着せかけ、「まずは酒でも飲むか」と彼女を卓に促した。凶器的なかわいらしさに一度落ち着かなければならなかったのだ。

 丸い小さな卓に横並びになり、シェリもいきなりベッドではないことにホッとし笑顔で杯を受け取った。だがこれは悪手となる。


 乾杯をして杯の半分ほど飲んだ彼らは、自然に変異術の話題を始めた。試験での騒動を皮切りに、いまやふたりは変異術師弟として王宮に名を馳せており、その研究も大注目を受けているためだ。あーだこーだと議論になると、似た者同士のふたりは時間を忘れてしまうことが多かった。

 酒のせいで目の周りを赤くしたミオは、「そういえばまた君を乗せて空を駆けたい」と気怠く頬杖をついた。酒を飲むと行儀が悪くなるのが可笑しくて、シェリは「もう絶対に嫌です」とクスクス笑った。

「だが君の魔力はそれを望んでいたぞ」

「わたしが?」

「そうだ、シュバラウスの精神は常に『自由でいたい』『素直でいたい』と行動していた。まぁ獣ということもあったろうが……。あの夜、空を駆けて俺は心の底から震えるほどの歓喜を体験した。あれは君の本心からの願いだと、わかったんだ」


 自由で、素直。

 シェリは「そうかも」と、ほろ酔いのミオを見つめた。

 察しのいい師であり恋人は、「なるほど」と目尻を下げた。

「つまり空を自由に駆けたかったのではなく、精神的な自由の方か」

 彼女の杯をひょいと奪って代わりに自分の手を握らせた。

「いまの俺は、君の『自由』で『素直』な願いに応えられているだろうか」

 指に口づけを落とした。

「え、あっそ、そんなのあったりまえじゃないですか!」

 気障な仕草にも真っ赤になったシェリは、「応えすぎなくらいです」と嬉しそうにもうひとつ落とされたキスから顔を背けた。

 師から恋人への切り替えが早すぎるよ! 唸れわたしの肝っ玉ぁ――!


 その目を伏せた横顔がかわいらしいと、ミオは鷹揚にひとり肯いた。しかしすぐに眉根を寄せた。「本当なら、王宮になど通わせたくないのだがな」と、苛立ちを隠しもせず、彼女の指を軽く噛んだ。

「やっ。噛まないでくださいよ!……またそんなこと言って。もう決めたことですよ」

「いまからでも辞めさせたい。王宮は薄汚れた魔術師の墓場だ。君はかわいいし迂闊だ、拐かされたらどうする。そうでなくても聖女宮なぞ小ぎれいなのは外側だけで、魑魅魍魎で腹黒な女たちの牛耳る恐ろしい場所だぞ」

 「それもし聞かれたらシメられますよ」と声をひそめたシェリに、ミオは「わかっている」と言いつつ中指を舐めた。

「んんっ。もう! いまは大事な話なのでやめてください!」

「…………仕方ない」

 これくらいのスキンシップは彼女にとってももう慣れたものだったが、彼から手を取り返した。動悸が激しくなるのだけは制御できない、それにどうしても伝えたいことができたからだ。


「ミオ師! わたし、お風呂場でミオ師が死んじゃうんじゃないかと思って泣きわめいたんですよ。もしお母さまみたいになったらって、いまでは夢に見るくらいショックでした」

「それはすまなかった……魔力が切れるほど実験に没頭してしまったのは、反省している」

 本当はあれやこれやに夢中になったせいもあったが、それは黙っておく。

「もうずっと反省しててください」

 今度はシェリがミオの手を取った。自分から頬に当てすり寄せる。

「お母さまはずっと病気で死んだんだと思ってたんです、だから薬学の研究を希望してました。でも本当は魔力枯渇だったでしょう?……だからまず、わたしは聖女宮で回復を学びたいと思ったんです」


「そうか」

 ミオはもう片方も伸ばし、シェリの頬を両手で包んだ。「へへ」と照れる瞳が、部屋の灯りに揺れて少し潤んでいるとわかった。

「君が望むなら俺はできる限り応援しよう。グラーダにも君を守るようによく言い含めておく」

「……はい」

「どうした。なにか気に障ったか」

 きゅっと彼女の唇が尖ったのを見て、ミオは首を傾げた。拗ねた顔さえかわいいとはと、己の恋を自覚する。

「だって……ミオ師がグラーダさんの伝説のお友だちで、家族ぐるみの付き合いっていうのはわかってますけど」

「うん?」

「なんか、ふたりのときは名前は聞きたくないなぁって。それにわたし自分の力で」


 ミオは無言で立ち上がると、彼女を軽々と抱き上げた。話の途中なのはわかっていたが、もちろん辛抱がたまらなくなったのだ。

 彼は筋力増強のおかげでまったく腰に負担を感じなかったことに口の端が自然と上がり、その場で彼女の顔中に口づけを落とした。「シェリル行こう」と部屋の奥へと弾むように足を向ける。

「わ、わぁぁぁ待って、待ってください! ミオ師、まだ心の準備ぃ! ってか話がまだ」

「ここからはミオヴァだ。灯りは消した方がいいか、それとも」

「消して、いや待ってまだ消しちゃ……んん!」

 恐ろしいほどの速さでベッドにたどり着いた。彼女は背がシーツに触れる前に唇を乱暴に奪われる。酒精が舌を伝って鼻に抜けていく。

「ちょ、ま、んっ……! みお、し」

「待たない。俺は充分待った」

 自分でかけてやったガウンを脱がし、いざ夜着に手をかけたそのとき――!


「まだ、ぁ……やぁって、言ってるでしょぉ――‼」

 シェリが渾身の力でミオを突き飛ばした。「うっ」胸を強く打たれのけ反った刹那、彼は驚きの表情のまま澄んだ青の魔粒子に変わった。灯りをしぼった部屋に、まるで輝く星のようにそれは散り、新しい形をつくらんと集まり始める。

「げ、」

 うっかり怒りで術をこめてしまった胸のはだけた魔術師は、知らず枕元へと後ずさった。やばいと呟いたと同時、変異は完璧に完了した。

「わふんっ!」

「あ……やっぱ、り?」

「わぉん、わふっ」

 シュバラウスは、なんとおりこうに彼女の太腿にハウスした。



 オジをモフにしてしまいました。(了)

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師《オジ》をモフにしてしまいました。 micco @micco-s

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