弟子として

 ダメだ全然眠れないや。

 クッションを三つ使ってつくった抱き枕に、シェリは強く顔を擦った。目が冴えてちっとも眠気が来ない。仕方なくベッドから降り、冬用に付け替えられたカーテンを開く。しかし内も外も明かりはなく、暗闇の奥行きが広がっただけだった。


 チャムには夕方、伝書で『変幻、できるようになっちゃった』と送っていた。

 私信の緊急伝書は単なる魔力の塊で、側にある紙をかざせば字が表れる仕組み。朝に出発したので夕方には到着しているはずだが返信が来ない。

 まぁチャムにとっては緊急でもなんでもないか。明日から仕事だし。うぅ、でも相談したいよぉ。


 チャムが通う王宮の景色から、登宮用のきれいな服を着たミオが頭を掠めてしまった。

「……尻尾も、耳もなかった。術、ちゃんと解けてよかったなぁ」

 昼はまだよかった、体を動かす用事や周囲に人がいる。だが夜は、ミオのことばかりになる。会いたくてたまらなくなる。

 触れてほしくて、かなしくなる。

 彼女はミオに恋していなかったころの自分をもう思い出せない。元には戻れない。


「また来てくれたり……ないか」

 あのとき、きっとミオ師はわたしの結婚相手がチャムだって誤解した。それですぐ出ていったみたいだった。でもどうしてだろう、チャムのことは知ってるはずなのに。「君がいるなら安心だ」くらい言いそうなものなのに。

 もっと、いてほしかった。

 シェリの肌に、近寄りざま抱擁された感覚がよみがえった。まるで冬の使者のように、外套用のローブは氷のように冷えていた。髪に差しこまれた手は体温を戻す前に、離れた。それなのに離れてしまうともっと寒くなった。

 寒い中をシュバラウスになって探しにきてくれたことが、また恋しさを深める。波のように想いが押し寄せる。

「お給料も、どうしよう」

 いますぐに抱きしめてほしい。

「結構いい素材あったなぁ」

 髪を撫でてほしい。

 記憶の優しい手つきが彼女を責めた。もう決して手に入らない温もり。

「でもわたし、もう弟子じゃないから……んん? なんか、」


 そこでシェリは形にならない違和感に首を傾げ――考えるのをやめた。暗い曇天に星のような光を見た気がしたからだ。「なんだろう」窓に貼りついて目を見開いた。もしかして、と過った期待に心臓が逸る。

「こっちに来る」

 その姿が白い猛禽とわかったときのシェリの落胆は激しかった。ガラス越しでも聞こえる力強い羽ばたきに、彼女はのろのろと窓を開いた。

 彼女の部屋に宿り木が勝手に出現し、猛禽はそこに鋭い鉤爪を下ろした。

「あなた、グラーダさんの?……どうしてこんなところまで」


 声に反応した夜行性の金の瞳孔がシェリを捉えた刹那、白光が絨毯の上に円を描いた。ものすごい速さで構築される転移陣に、彼女は圧倒された。

 遠隔でしかも四刻もかかる距離に陣を正確になど、彼女の常識ではあり得なかった。猛禽はその先触れか、位置を特定するためのものか。それにしても精度が高過ぎた。


 部屋中が清浄な光に真昼ごとく明るくなり、シェリは呆然と目を灼いた。

 まもなく陣が定着し淡く輝いたと同時、今度は白の魔粒子が渦を巻くようにして宙に出現し始める。粒子は密度を濃くしなだらかなまろみを形成した。

 瞬く間にグラーダはシェリの部屋に降り立った。




「あら、あなたやればできるじゃない。美味しいわ、お代わりいただける?」

「はぁ」

 突如来訪――シェリの心地としては襲来したグラーダは、唖然とするシェリを横目に屋敷全体に結界を張り「これでよし」と、勝手に食事用の席に腰かけた。そして当然のように茶を所望した。

 「働きづめで今日はお茶も飲めなくて」あり合わせで出した茶菓子を上品に口に放りこみつつ、グラーダはふうと息をついた。そして流れるように愚痴を話し始めた。

「もう本当に信じられない。遠征行って怪我する責任をこっちに押しつけてくるのよ、そんなの自分たちの迂闊さしか原因がないでしょ? 薬とか回復魔術の供給をぐずぐず言う前に自分たちの実力を測り知るべきじゃない? もうこっちは四十で体も効かなくなってるっていうのに余計なことばっかり!」


 シェリは脈絡がわからず話の中身もいまいちわからず、四度目の「そうですね」でやっと「あの、グラーダ師」と口を挟んだ。

「なに? これから薬学研究所のうだつの上がらない所長の愚痴を話すところなんだけど」

「そ、それは気になる……じゃなくて、なにか用があっていらしたんじゃないんですか!」

 もはや手づからポットを傾けていたグラーダは、ぱちりとまつ毛をしばたいた。

「そうだったわね。なんだかあなたの家、田舎って感じで落ち着くから」

 はぁ。どこかで聞いたセリフだと思いつつ、シェリは姿勢を正した。

 グラーダもカップを置くと、「ごめんなさい忘れてた。本題ね」と肯いた。


「あなた、聖女宮で働く気はない?」

「えっ? 聖……あっ、あー! も、もももももしかして、聖女グラナダさま⁉」

「あらいま気づいたの? ちょっと節穴過ぎない?」

「えっえっ本当に⁉ あの学園時代に竜種を倒してご友人を死の淵から救い出し、卒業研究でミダクダ草の回復抽出液で一生遊べる財を築いたっていう、あの⁉ わ、わあぁぁぁぁ! 握手してください、本もってます! すごいわぁぁぁもう手ぇ洗えないぃぃ――!」

 好きな人の恋人は、学生時代の憧れの推しだった。


 手を天に掲げて愛を叫ぶシェリの興奮に、今度はグラーダが「はぁ」と唖然とする番だった。

「うーん思いつきだったけど、かなりアリかも」

「え! いまなにか、尊いお言葉をわたしに? グラナダさま⁉」

 それ魔名に近いから、グラーダでいいわよ。くだけた笑みを浮かべビスケットをかじる彼女を、シェリは眩しげな表情で見つめた。

「だから薬学にもお詳しかったんですね……! あの猛禽もかっこいいと思ってたんですよ!」

「まぁ元はわたしも最初は薬学少女だったんだけど、悪友のせいで実戦に駆り立てられる人生になっちゃって。結構楽しいし、向いてるから納得してるんだけどね。で、あなたは今後どんな風に考えてるの? ミオのところは出てきたんでしょ?」


 しかしグラーダの口から「ミオ」という言葉が出た途端、シェリの高揚は急速に冷えた。

 恋敵などと思ったこともなかったが、相手が聖女グラナダと知っては勝ち目などない。彼女を前にしては、ミオを思い出すことさえ罪になるとすら彼女は思った。

 しゅんと背を丸め、ぼそぼそと返事をする。

「ありがたいお言葉をありがとうございます。でもわたし、近々結婚する予定なんです」

「はぁ? 別に聖女宮は既婚だって勤められるけど。ちなみに相手は誰?」

「いえ、縁談はこれから父が」

「……じゃあ問題ないじゃない」

 グラーダは唐突に立ち上がると、卓面に手をついた。下がっていたシェリの顎を、ふたつ指でついと持ち上げた。


「あなた、薬学好きなんでしょう? 研究所なんて魔の巣窟だし実戦に駆り出させることもあるし、所長はうだつが上がらないしで最悪よ。わたしの所轄なら悪いようにはしないわ、回復系の薬なら永久に開発し続けられるし、産休も育休も保証してるし」

 美しい顔貌の聖女は「ね? 誰と結婚しても大丈夫よ。うちに来なさい」と、微笑んだ。シェリは創世の天使ココモナーヴァの降臨かと錯覚しかけ、しかしぎゅうっと目を瞑って歯を食いしばった。「無理です」と唸る。首が伸びて苦しい。

「父が、魔術師だった母のことで傷ついていて……王宮の就職試験も今年で最後の予定だったんです。もうわたし、魔術は」


 ふぅん? 面白くなさそうに目を細めたグラーダは、彼女の顎を解放した。

「じゃあこの話は終わりね。残念、見込み違い」

 お茶、ごちそうさま。美味しかったわ。

 グラーダは白のローブを翻し、宿り木の猛禽になにか言付けた。ふうと魔力を唇から吹き伝書を飛ばした。猛禽も宿り木も消え、あとにはグラーダだけが残った。ランプの灯が、ゆらゆらとシェリの心を揺らす。

「お邪魔したわね」

「ぐ、グラーダさま」

 なぜか縋るような声になってしまった。シェリは続く言葉を用意せぬまま立ちあがった。

 グラーダはお見通しとばかりに眉を上げ、彼女を見下ろした。

「ミオも物好きねぇ。辞める子に一年も費やしたなんて」

 鋭利な言葉の刃が、シェリの心臓を貫いた。

「どっちにしても、その優柔不断じゃ王宮では無理ね。魔術師を辞める理由が人のせいだもの、半年も続かなかったでしょう。ミオもそれくらいはわかってたでしょうけど」

「みお、しも……?」


 会話も面倒だと言うように、グラーダは雑に手を振った。

「はー、夜分に失礼したわね。まったくミオったら、だからさっさとお見合いしなさいって言ったのに。じゃあね」

 シェリが言葉を詰まらせている間にグラーダは消えた。



 *



 控えめなノックに、セドは書付から顔を上げた。今年の収穫量は申し分ないが、かえって税が少々高くなりそうで来秋までの副産物の調整をせねばと頭を捻っていたところだった。

こんな夜中に。「誰だ」と問うと、「シェリです」と硬い声が応えた。

 なんとなく来るような気がしていたと、彼は一瞬瞑目した。

「入りなさい」


 娘を呼び寄せたセドは老眼鏡を外し、机の上で手を組んだ。

「日に三度も向かい合ったのは初めてだな。なにか話があってきたんだろう」

「はい」

「結婚が嫌になったか?」

「いいえ」

「家が息苦しいか。夕方帰ってきたときは楽しそうにしていたが」

「……いいえ」

 セドはくたびれた様子で背もたれに体を預けた。

「もしここが暮らしづらいなら、しばらくは好きな場所に住めばいい。明日には相手方に手紙を書く。希望の街があれば近くの相手を見繕ってもいい」


 シェリはそうじゃないと首を振った。

「明日の試験を、受けたいんです」

「魔術師は辞めたと言わなかったか」

 父は娘を睨んだ。その瞳は、一度口に出したことを引っこめるのは卑怯者だと暗に伝えていた。

「それは嘘じゃありません! もし、万が一受かったとしても辞退するつもりだから」

 辞退と聞き、セドはわけがわからない。「一体なんのために」と漏らしてから、娘が涙をこぼしていると気づいてギョッとした。

「し、シェリ」

 夜着だったのでハンカチも持ち合わせていない。セドは慌てて杯に添えられていた布巾を手渡し、落ち着かなく視線を彷徨わせた。

 彼女は目の粗い布で強く目を擦り、またしても痛みで目尻を滲ませる。


「わたしあんなに迷惑かけたのに、ちゃんとお礼もしてなくて」

「なんだ、なんのことだ」

「試験のために弟子にしてもらったのに勝手に……。でも、やっぱりわたし、ミオ師に……少しはマシな弟子だったって思って、もらいたかった……」

「ミオ師? あぁ、お前が世話になった魔術師の」

 するべきことを見つけたと、セドは引き出しをガタゴトと探った。娘の涙をみたことなどここ十年ありはせず動揺を隠しきれない。目当ての物を掴み彼女にこれも手渡した。まるで幼い子に呼びかけるように「ほら」と。

「これって」

 ミオの字だ――とシェリは目を瞠った。


 文字を書くのは苦手だと言って彼は書きたがらない。伝書を常用しているのも口頭で済むからである。

 ミオの家に住み始めたころだ、彼女は手書きで構築する陣を相談したときに一度だけ手書きのメモをもらったことがあった。試験対策をするとき何度も見返した字だ、見間違えようがなかった。

「月に一度、必ず送って寄越してきた。年の離れた男の師で親は心配しているだろうと――あぁここに書いてある」


 そこには『独身の身で女性の弟子などと、お疑いになるのは当然』『安心して生活できるようご助言賜りたい』など。ミオの口からはついぞ聞いたことのない敬意に満ちた文章で書き綴られていた。

 ひとつ紙に雫が落ちてしまい、シェリはそれを胸にかき抱いた。ひとつの字も消えたり滲んだりさせたくなかった。

 いますぐミオに会いたい、手紙は素直にそう思わせた。例え単なる弟子でも、彼がそう望むなら。


「返事を書くのは気恥ずかしくて数回だけだったが。いい師に出会ったと安堵していた。お前から便りがないことには慣れていたが、元気にしていると知れただけでありがたかった」

「お父さま」

 そんな風に思ってたの?

 シェリはぱちりと瞬いた。魔術師を目指す娘のことなんて、忌々しく思って心配なんてしていないと思っていたからだ。

「会いに行くならきちんと感謝を伝えてきなさい。なにか家からだと土産も持っていくといい」

 シェリはハッと父を振り返った。

「それって……!」


 セドは娘の方を向くことができなかった。

「これまで、すまなかった」

 短い謝罪が精一杯だ。シェリに背を向け、寝酒を注ぐフリをする。

「ずっと目指してきた試験だろう。もしまたダメなら、戻ってくればいい。お前の家はここだろう」

「お父さま……ありがとう、ありがとうございます!」

 シェリの声は弾むようで、先ほどまでの憂いは消えていた。彼女はそっとミオからの手紙を胸に押しつけた。

「もう夜も深い。明け方に出かけなさい」

 明るい就寝の挨拶を聞き届け、セドも返した。

 声も髪も性質も――最愛の妻にそっくりな娘は本当は目に入れても痛くない。魔術師など、絶対になってほしくはなかった。


 ドアが閉まるまで、セドは動かないままでいた。

 たぶん娘はもう帰ってはこない、そんな予感がしたからだった。

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