お別れ
入浴を済ませたシェリは私室でぼんやり欠けた月を見ていた。
チャムは最後の夜だからと、シェリの父と連れだって席を外してそのままどこかへ。
夜着に着替えてしまった彼女の部屋には来ない時間になっていた。
「はー……。明日からチャムがいないの、心細いな」
実際チャムは、「人付き合いとか面倒」と言うわりに、家の使用人たちにも愛想よくしていた。突然帰ってきた理由もはっきりしない娘に、みな言いたいことがあるところを上手くぼかしてくれているのだ。
――公認魔術師に認められた夜もこんな月だったなぁと、彼女は窓枠に手をかけた。
卒業後認定の伝書が届いた日も家の中で祝われることはなく、「おめでとう」をくれたのはチャムだけだった。まるで母の亡くなった日のように静まり返った部屋で、同じようにひとりで月を見上げたことを思い出していた。
「明日チャムが帰ったら、さすがにお父さまと話さなきゃ……気が重いなぁ」
シェリにとって父は金銭的な養育者で、どちらかというと母を共に喪った仲間のような感覚だった。いつも忙しい父だったが幼いころはそれなりに抱き上げられ、笑い合った記憶もある。だからこそ哀しみが人を変えたのだと、彼女はわかってた。父を憎むことはできなかった。
ただし彼女の母の死後、シェリが魔力を持っているとわかったころから父はさらにあからさまに彼女を避けるようになる。
だが気が散りやすくうっかり者の彼女に使用人たちは、なにかと「旦那さまの許可を」とうるさい。シェリはますます自分の世界に没頭した。
「なんでお父さまは……ううん、いいや。もうやめるんだから」
――初めてシェリが「魔術師になって働きたい」と伝えたとき、父は彼女を無視した。「お父さま」と呼ぶ声に返事もせず挨拶もなく、彼女を残して部屋を出ていった。
あとから『好きなようにしなさい』と伝言で聞き、彼女は躊躇いながらも学園に通い試験に臨んだ。受かればきっとわかってもらえると、決して飲みこめない礫のような不安を抱えながら。
――そうして肩身の狭いまま二年。二度目の試験のあと偶然出会ったミオに衝動的に弟子入りしなければ、周囲に折れてどこぞの誰かと結婚していただろう。
「ここでは実験したら嫌がられるし……さっさとお嫁に行きたいって言おうっと……」
自嘲の笑みと、表面だけのセリフが口から滑り落ちたときだった。
遠くから強い魔力の気配がしたかと思うと、それがまるで流星のようなおそろしい速さで近づいてくる。
「え、なに……⁉」
目を凝らすシェリが視たのは、塵のような青の粒子が集まっては飛び散り、また形を成す――短距離の転移を繰り返す動物――伝書獣の姿だった。
「あっ、もしかしてチャム宛ての召集かも!」
シェリは窓を開け放った。王宮からの緊急の遣いなら、いますぐ受け取ってチャムを都に送り出さなければならない。それとほぼ同時、伝書獣は目当ての家を見つけたとばかりにまっすぐ彼女の窓に向かってきた。あまりの勢いに、「わぁ!」と叫んだシェリはベッドに避難した。
――大風が吹いたごとく窓が激しく揺れた。
咄嗟にシーツをかぶったシェリは、顔を出してギョッとした。
「え、シュバちゃん……?」
そこにいたのは月の光に透けるような青のグラデーションを持つ獣。まさか。シェリはシーツから体を出した。ベッドの端から手を差し伸べかけ、気づいた。息が止まりそうだと思いながら、呼んだ。
「ミオ、師?」
「そうだ」
刹那、獣は人に姿を変えた。しかも数日までは確かにあった三角の耳も尻尾もない、術の解けた姿に。ミオは静かに彼女に歩み寄った。登宮用の衣装の、優美な刺繡がさやかに光を滑らせた。
「君は」髪に手が触れ、「心配しただろう」シェリは頭をかき抱かれた。外の寒さをはらんだローブが触れた彼女の頬を冷やす。夜着に隠れた肌がぞわりと粟立ち、彼女は小さく震えた。
ミオの長いため息が降った。
「居場所くらい言って出かけられないのか」
「ミオ師、どうして」
「どうして?」
パッと離れたミオから怒気が放たれた。
「本気で言っているのか⁉ 君が挨拶もなく失踪したのを、俺が心配しないとでも?」
「あ、あの、」
「権利書を渡してすぐのことだぞ。俺の寝ている間になにかあったのではと……!」
そっか。探しに、来てくれたんだ――あぁ。
身の内が喜びで溢れかえるのを彼女は我慢せねばならなかった。彼とわたしでは想いが違うと自分に言い聞かせる。だってこれはわたしが弟子だから、彼は立派な師だから当然だと。
「……すみませんでした」シェリは立ち上がることもできず、ベッドの上で深く頭を下げた。言い訳はなかった、わざと黙って出てきたのだから。
さっき移った冷えと、開け放たれた窓のせいか、シェリは寒くて仕方なかった。だが声が震えないよう力を込めた。
「最後まで至らない弟子ですみませんでした。でももう、ミオ師を煩わせることはないですから、安心してください」
「顔を上げなさい。安心とは、どういうことだ説明しなさい」
ぐっと無理に唾を飲みこんだ。顔は上げられなかった。
「わたし、試験は受けません。王宮勤めも諦めます」
「……どこかの、民間の研究所に行くということか」
いいえ。
苦しくて苦しくて胸が張り裂けそうなまま、シェリは声を絞り出した。
「魔術師も薬学もやめます」
「なんだそれは」
ミオが再び彼女に触れた。両肩を掴み「なぜだ」と揺らした。無理に体が起こされ、彼女は眉をきつく寄せながら顔を上げた。逆光でも、ちかっと彼の瞳が光った。
あぁこれでお別れだ。
どこか冷静に彼女は思った。
でも最後に会えてよかった。やっぱり好きだなぁ。
「わたし、結婚するんです」
ミオは時を止めた。
「実はずっと言われてたんですけど、ついに潮時が来ちゃったっていうか」
シェリは微笑むことはできなかった。泣かないようにするので精一杯だった。
「相手、は」
呆然とミオは尋ねた。
「あー、えぇとそれは」
そのとき部屋の外から「シェリ起きてる? 急に強い魔力の気配がしたけど」と、チャムの声がした。ノックがあり、「入るよ」と夜に沈んだ部屋に光が差した。
「ぁ、チャム待って」と立ち上がりかけた彼女は、ミオは「そういうことか」と呟くのを聞いた。
ゆらりとミオは窓へと向かう。
「誰だ⁉」
チャムがミオの影に気づき、顔色を変えた。
「伏せて!」間髪入れずシェリを囲むように防御結界を展開、チャムは駆けながら手のひらに杖を発現させる。
それはほんの二歩の間。短い詠唱で氷の刃を錬成、彼が躊躇なくミオを突き刺さんと術を放った寸前――ミオは粒子となって夜空へ舞った。
ちっ逃がした。チャムが痛烈な舌打ちをしたときには、すでにミオの魔力は捉えきれない距離まで遠ざかっていた。
「シェリ無事⁉」
結界に守られた彼女は震えていた。自分で腕を抱え、ミオの消えた夜に視線を揺らしていた。
「どうしたの。なにかされた⁉」
「ううん、なにも」
「シェリ?」
「大丈夫、なにも。されてない、されてないよ」
いまさら薄く微笑んだシェリは、側に来たチャムの服を掴んだ。声を上げて、泣いた。
*
翌朝、シェリは父――セドの私室に呼ばれ、何年かぶりに向かい合って腰を下ろしていた。
あと半刻でチャムが都に戻る時間だ。セドの重い咳払いに、彼女は泣き腫らした目を向けた。
「サージャくんから聞いたが、今年の試験は受けないそうだな」
「はい」
「では魔術師の仕事は」
「もう、辞めます」
「薬づくりは」
「それは、趣味で続けたいとは……思ってます」
そうか。そう言ったきり父は黙った。シェリも続く言葉を待った。
いつもこうだった。なにを話していいか、どう切り出していいかわからなくなり、彼女は必要最小限のことだけをぼそぼそと伝え、退室するのだ。
しかし今日のシェリは、世界のすべてと自分が一枚の紗に遮られているような心地でいた。もう十年以上対峙することを避けていた父に対しても、彼女の心は動じはしなかった。
「お父さま、これを見てください」
眉を上げたセドに、彼女は持参した権利書を渡した。サッと目を通した彼はすぐさま顔色を変えた。
「これは……お前の署名だが」
「そうです。わたしが作った薬の書類です。それ、お父さまに差し上げます」
驚愕に口を開けたセドは辛うじて「差し上げる、とは」と問い返した。
「結婚ってなにかと物入りって聞くので、それを売ってもらえればいいかなと。大事に取っておけば毎月お金は入ってくると……あ」
シェリは、あることを思い出した。会話の途中だということも失念し、セドとの間にあるローテーブルに視線を落とす。
そうとは知らず、セドの方も言葉を失っていた。母を亡くしてから薬学を志した娘が、まさかこれほどの成果を上げていたことを初めて知ったからだった。
そしてなぜ黙っていた、と尋ねようとしてやはり口を噤んだ。知っていたとして、果たして自分は娘が魔術師になることを応援したかどうか。
むしろ、ここで諦めてくれるならこれ以上のことはないと、書類の端を汗で湿らせた。
「結婚話は当てがある、すぐにまとまるだろう」
「……はい」
「それからサージャくんだが、いい友人のようだな。大切にしなさい。……シェリ、聞いているのか」
「はい。じゃあ、わたし部屋に戻ります」
完全に上の空になったシェリは、呼び止める父の声にも気づかず退室してしまった。
「まったく……似すぎているのも困りものだ……」
残されたセドは緩慢な動作ですべての書類に目を通した。中には彼が秋口に体調を崩した際、処方された薬もあった。しばらく彼は『シェリ』の字を見つめていた。
どうしよう。シェリはひとり混乱していた。
「そうだった、今月の依頼の分のお給料……もらってなかった。素材も、わたしの分預けて置きっぱなしだ……どうしよう、どうしよう」
普段は給料も素材も、必要な分がそのとき手元にあれば気にしない。管理もミオ頼みで、渡されたものをただ受け取るだけだった。
どうしよう、会う口実ができちゃった――。
もう永遠に会う理由はないからこそ、封じていられた想いが彼女を支配した。ひと晩かけて必死に宥めたはずの、あの短い逢瀬が勝手に目蓋で反芻し続ける。
ふらつくシェリは、覚えなく庭先に出ていた。
通いの庭師が彼女に気づいて目礼した。すると使用人がやってきて目の前でなにか相談を始める。それさえどこか遠くの国の出来事のようで、彼女は踵を返しかけた。「お嬢さま」と呼び止められたのにも、数鈴分要した。
「旦那さまが午後から街に行くそうなんですが、酔い覚ましを持ってないかと」
半ば恍惚としたシェリの耳は、『酔い覚まし』にだけ反応した。「任せて、すぐできるから」と今度は少しばかり足取りを確かに私室へと向かった。
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