逃げれば追いかけられる

 ミオがシェリに権利書を渡した日の三日後、ついに術は完全に解けた。

 即登宮したミオは、基幹結界課に乗りこみ「チャム=サージュをいますぐ呼べ」と受付を震え上がらせた。しかしチャムは遠征後の休暇で明日まで不在。

 「彼はいまどこだ」「すみません存じかねますっ」ミオは視線だけで結界課の温度を五度ほど下げ、

「戻ったら伝書を」

 と、黒い猛禽を残した。「うわぁ」「チャムなにやったんだよ」と噂する魔術師たちに罪はない。その鳥は、最も早く飛ぶので有名だったからだ。


 その足でミオは聖女宮に急いだ。彼らの国では聖女と呼ばれる女性の特化型魔術師が内政で活躍している。主に解術や回復を担い、有事には国境に派遣されることもある。 

 すでにミオは直接遣いを出し「半刻三十分くらいなら」と返答をもらっていたので、すべての護衛騎士を指先ひとつで黙らせ宮の奥へと進んでいく。

 途中、白い猛禽が宙に現れ、彼を音もなくグラーダの執務室に案内した。ノックも遠慮もなく入室した彼に、筆頭聖女グラーダが呆れた顔で頬杖をついた。

「ここは執務室職場よ。挨拶ぐらい……」

「シェリがいなくなった」

 グラーダは眉を上げると、ミオを上から下まで眺めて言った。

「あなた、戻ったばかりね。まだ術の残滓が」

「おとといのことだ。昼過ぎに起きたらもぬけの空だった」

  大股で近寄り「クソ、酒なんて飲まなければ」大きな執務机を叩き、ミオは「いますぐ探してくれ」と迫った。お願いする態度ではなかった。


 ははーんと、グラーダはニヤついた。昔馴染みのこんな姿は初めてで興味深い。ミオの色恋沙汰など随分前のことで、もう忘却の彼方と言っても過言ではない。

 まして、国で三本の指に入るほど忙しい筆頭聖女の予定に無理に約束をねじ入れ、禁止された拘束魔術を使ってここまでノンストップで入室。普通の魔術師であれば、監禁の末に刑罰ものだ。そこまでしての第一声が「シェリ」と来ては、話がわからないわけがない。

 確かにあの弟子はスレてなくてかわいらしかったと、グラーダは笑みを深めた。


「渡した薬の権利書もなくなっていた。もしかしたら誰かの口車に」

「えー? ただ口うるさい師匠から、愛想尽かして出て行っただけじゃないのー?」

 だからつい悪戯したくなっても致し方ないだろう。王宮に娯楽は少ない。

「……なんだと」

 地を這うような声が彼女の鼓膜を震わせたが、そのままミオは不自然に黙りこんだ。そして十鈴分後、突然その場にしゃがみこんだ。

「ちょっとミオ、どうしたの!」

 倒れたのかと机に乗り上げて覗きこんだグラーダだったが、すぐにその形のいい唇は歪になった。

「そうか、シェリは……俺から逃げたのか……?」

 口うるさい自覚はあったらしい。

 ぶばはぁ! 大爆笑を堪えきれず、グラーダはのけ反った。



 *



「いやぁ君の実家って、結構いいね。最初はちょっとバカにしてたけど、田舎って感じで落ち着く。僕もこっちに家建てたいくらい」

「本当? チャムが遊びに来てくれるなら嬉しい。ってか、ちょうど休暇で本当に助かったよ」

「それ、一生の貸しだからね」

「わかってますー!」


 穏やかな秋の晴天の下、シェリとチャムは小高い丘で寝そべっていた。見下ろす耕作地は収穫を終え、静かに風が吹き渡っている。

 彼女は実家に帰ってきてから、毎日空を眺めて過ごしていた。薬学も薬草集めも、なにもかもする気が起きなかった、家の者も心配するほどに。

 シェリは、ミオの寝ている間に家を出てきたことに後悔はしていない。もうあの家には——ミオの側にはいられなかったと、何度考えても答えは同じだったからだ。


 ——あの日、緊急の伝書で呼び出されたチャムは、シェリのぐちゃぐちゃの顔を見ておおよそのことは察した。そして「実家に帰る」と繰り返す彼女を送っていくことに決め、そのまま逗留している。


 シェリの実家は、チャムが聞いて想像していたよりも広い土地を管理しており、彼女の父も収穫後で忙しくしていた。その父は、突然帰ってきた娘が男を連れてきたことに驚き、その人物が王宮で働く魔術師と知ると丁重な態度に変わった。

 「お父さまは魔術師があんまり好きじゃないから」と聞いていたような、あからさまな嫌悪は向けられずチャムは肩透かしを食らっている。


 住みこみの使用人が二、三人。さらに通いで数人雇っていると見れば、貧窮してはいないとわかる。むしろ過去に爵位もない田舎の地主としては裕福だ。家の中にいればシェリはそれなりにお嬢さま然としており、使用人たちも彼女を歓迎しかわいがっている様子があるが、父だけがあからさまに距離をとっていた。




 内心はともかく、ふたりはそれぞれ空を見上げて過ごしていた。

 寝転がっていると地面から滲むような魔力が彼らの体内を通って大気へと立ち昇っていくのが視えた。空へと上がった魔力はまた雨や雪と共に地表に降り注ぐ――魔術師はその循環に生かされている。


 薄らとした雲が出てきた、とシェリが千切れて伸びるひとつを見つめたときだった、チャムが肘を立てて彼女の方を向いた。

「そういえば決めた? 一緒に帰るか、ここに残るのか」

 都からこの広々とした田舎までは、馬車で四時間。明日には帰途に着かねば仕事に影響してしまうと、彼はすでに伝えていた。

 チャムは口を引き結んでしまった彼女に「もう試験はいいの」と尋ねようとしてやめた。学生のとき寮で上手くいかなくても、ミオの家を爆発させても、「やっちゃったよーチャムぅ!」と落ちこんですぐに切り替えるのがシェリだ――こんな風に呼吸をするのさえ苦しそうにしているのは、初めてなのだ。


「オトーサンとは相談したの」

 しているわけがないと知りながら、彼はあえて尋ねた。

「ううん。お父さまは忙しいから……。でももう決めてあるよ」

 落ち着いた格好のシェリは、黙っていれば本当の嬢さまに見える。その彼女が、ことんと首を彼の方に向けた。女性らしく結われた髪が光に透けて橙色に揺れる。

「わたし、結婚する」

「それ本気?」

 「うん、わりと」彼女はそっと目を閉じた。

「だって、わたしの薬が誰かの病気を楽にしてるってわかったから。もうそれで充分かなって」

 チャムは安らかに見える彼女を見つめた。声も平坦で淀みがない。

「もう二十五じゃ、いい相手もいないかもしれないけどね。でも薬草植えるくらいなら誰だって許してくれるんじゃないかな」

「基準はそこなんだ。まぁ爆発させないなら誰だって許してくれそうだけど。……でも君まだ、ミオ師のこと好きなんでしょ、他の人と結婚とかできるの」

 パッとシェリの目が開いた。みるみるうちに顔が赤くなる。


「やめときなよ。君、そういうの得意じゃないし」

「チャム、なんで……わ、わたしミオ師のことなんか……」

「はい嘘。シェリはさ、誤魔化すときにどもりがち。あと、頭で考えたセリフ言うとき流暢過ぎ」

 まん丸だった瞳がくしゃっと崩れ、きつく閉じた。

 仰向けに戻った彼女の顔から、ぽとりと草葉に涙が落ちた。

「あんまり興味ないけど。君が話すなら聞くよ」

 風が、シェリの濡れた頬を撫でた。


 ――そうして詳しく経緯を聞いたチャムの感想は「どうしてそうなった」で、彼はシェリにわからぬようため息をついた。

「わかってたけど、わたしっていい弟子じゃなかったんだなぁ」

「どうして?」

「だって弟子でいたいって言ったら拒否されちゃったし。よく考えたら権利書の話って、試験が終わったら家から出てけって遠回しに言われたんだなって」

「うーん」

 チャムとミオはシェリを通じた面識がある程度で、人となりを理解するほどの交流はない。だがチャムは友人であるがゆえ、彼女だけの認識をうのみにはできなかった。


「弟子じゃなくて、恋人にしてって言えばよかったのに」

「そ! そんなこと言えないよ……ミオ師にはグラーダさんっていう相手がいるもん」

 なるほどね。惰性で相槌を打ったあと、思考が追いつく。チャムは慌てて起き上がった。

「は? グラーダさんって、グラーダ、さん?」

「チャムも知ってる人? うぅ……きれいな人だよね、魔力も経験もすごそうだし」

 ぺそぺそとし始めたシェリに、彼は信じられないものを見るような視線をやった。


 国一番の聖女を知らない公認魔術師がいたこともそうだが、王宮内ではミオ師が筆頭聖女と悪友だったのは有名な話だった。学園時代に野外学習で竜種を倒したとか、単位のために外出禁止を破って騒動に巻き込まれた挙句、講義中の教室に転移して戻ってきて謹慎処分を受けたとか。

 「恋煩いとは気の毒に」と思っていたチャムの顔には、瞬く間に呆れが浮かんだ。

 圧倒的な会話不足! いやまぁ、相手はシュバラウスだったから仕方ないかもしれないけど! でもどちらもいい年して奥手過ぎるし鈍感すぎないか?


 しかし煩っている彼女は友人の胡乱な視線に気づかず「ミオ師と早く結婚したいみたいだったし、きっと近いうちに結ばれるよね」と、しおしおと言った。

 三度ほど口を開閉したチャムは、ようやく「いやさすがに結婚はないと思う」と呻き声を発したが、シェリは「だって部屋に絵姿飾ってあるんだよ」と肯かない。


 完全に拗れてる。

 チャムは天を仰ぎ、瞑目した。そして再びため息をつき、寝転んだままの彼女の前髪を整えてやった。いつの間にかぐちゃぐちゃだ。状況も同様に。


「ちょっと風が冷たくなってきたね。家に戻ろっか」

 真実を教えるべきか励ますべきかは、とりあえず明日に託すことにした。

 とりあえず面倒くさい事態を、チャムは笑顔で封したのだった。

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