秘密の部屋へ

 夜露が肉球を濡らす感覚に、ミオは抱きつく弟子に「寒くないか」と尋ねた。

 「大丈夫です」と答えたシェリはそっと離れる。髪を直すフリをして涙を拭いた。彼女のしんみりした気分はそこまでだった。


「さて、風が出てきたな。話の続きは家でするとしよう。さぁ乗りなさい」

「またわたし、乗るんですか!」

 すごく嫌だという顔をしたシェリに、ミオはムッとした。しかしすぐに表情を改め

「……仕方ない帰りは転移するか」

 と言うと、瞬く間に人の形になった。

 採取着にローブを羽織るミオはフードを外していたので、頭についた耳が露出して月影に縁が光る。


「許可ないのに、いいんですか」

 転移術は基本的に使用時に許可を必要とする。私有地内なら王宮も目を瞑っているが、ここまでは結構な距離だ。

「問題ない。間違えなければバレない」

「ミオ師って、そういうとこありますよねー!」

 ついシェリがジト目で言い返すと、ミオは口の端を上げた。「いつもの調子に戻ったじゃないか」そして手を差し出した。


 一緒に転移するには粒子同士が接触している必要がある。

 シェリの頬にはほのかに朱が差したが、ミオの影になって目立ちはしなかった。

「お、お願いしまーす」

 彼女が控えめに手を重ねると彼は強く握り直し、すぐさま詠唱した。魔術師なら緊急事態用に自宅の中に術と繋がる陣を用意しているものだ。

 そういえば陣って家のどこにあるっけ——?

 シェリが首を傾げた刹那、彼らは崩れる砂のように形を消した。




 着いた先は、真っ暗な場所だった。構築された陣の残滓が足元をわずかばかり照らして消えた。

 窓がなく明るいはずの月もない部屋だった。手を繋いだままシェリが目を瞬かせていると、ミオが「こっちだ」と歩を進めた。

「ミオ師、ここは」

「俺の私室だ」

「え?」

 じゃああの部屋は、と言い返す前に机上のオイルランプが灯った。頑丈そうで艶やかに磨かれた卓面が光を映す。

 シェリの手を離したミオは部屋中の灯りを点けた。


「立……派な部屋」

 足元は王宮に敷かれるような濃い色の絨毯、家具は重厚な造り。部屋は広く、奥の衝立の先には寝室のスペースがある。仕切ってあるといえ、それも充分な広さがある。

「こっちが本当の私室で、上の部屋は仮眠室だ。あっちは物がなさすぎるだろう」

「確かに家具がなさすぎるとは……上? ってことは、ここは地下ってことですか?」

 そうだと肯きながら彼はローブを脱いだ。

 シェリは「へえ知らなかった」と見回し、促された椅子に腰掛けた。

 ミオは採取着の上着も脱ぎ、カウチの背に無造作に掛けた。うまいこと下履きから出ている尻尾が、楽になったことを喜ぶようにして揺れた。


「元は家中で寝ていたが、君が越してきてから急遽ここを整えた」

「わざわざですか? 別にミオ師の家なんだから、どこで寝たっていいのに」

「そういう訳にはいかないだろう」

 渋めの苦笑をもらし、ミオは袖のボタンを外し始めた。次は首元へ。

 どうやらすぐに着替えたいらしいと察したシェリは立ち上がった。耳も尻尾もあって何度も見ているとはいえ、さすがに生着替えは心臓に悪そうだと。


「どうした」

「えぇーと、着替えるなら私も部屋に戻ろうかなーと」

 しかしミオの返事は「待て」で、彼女の前には蒸留酒が置かれることになった。

「悪いがこの部屋には湯も茶もない。それを飲んでなさい」

 そうしてミオは衝立の奥へと隠れた。


 ——早く荷造りしなきゃ。

 シェリが琥珀色の酒をひと口含むと、口の中を強い酒精が刺した。鼻から香りを上手く逃し、少しずつ飲み下す。舌がほどよく痺れ、胃に落ちていくそのあとを熱がたどった。

 部屋の奥からはかすかに衣擦れがしている他は静かで、彼女は手元の杯を見つめた。それは金属製の高価な代物。改めて部屋を見回し、「しつらいがハイセンス」と呟いた。

 壁紙からして上品。家具だけでなく灯りの傘や飾られた絵ひとつ、どこをとってもシェリが普段使っているものより桁が違うと察せられた。

 ミオ師の趣味なのかな、それとも……。ってか、ミオ師の趣味とか知らないや。

 もう一度首をめぐらし、見える場所にグラーダの姿絵がないことを見てとって、彼女はいじけたように水面をのぞいた。

 「どうせベッドの側だよね」ぼそっとした声はミオには聞こえなかった。

 

 やけくそのシェリの腹に熱が溜まり始めたころ、ミオはいつもの夜着にガウンを羽織って戻ってきた。そのガウンはまた高級そうな仕立てで、彼女は思わず目が険しくなった。

「どうした、もう酔ったのか。君、強い方だったろう」

「なんでミオ師がそんなこと知ってるんですか」

「いつだったか……チャムくんと飲んで帰ってきたとき、ほとんどシラフだっただろう。君も『わたし強いんですよ』と偉ぶってたじゃないか」

 シェリが「覚えてません」と首を傾げると、「記憶がとぶタイプなのか」とミオは眉を寄せた。もうひとつ杯を出すと酒を注ぎ、軽くあおった。

「……うまい」

「大丈夫なんですか、まだシュバちゃん粒子残ってるのに」

「一杯くらい、いいだろう」


 シェリがちびりと舐める間に、ミオはそれを一気に飲み干した。そしてふうと深く息を吐き出した。

「さて本題だ。あまり俺があれこれ話しても解決しない気がする。君が先に話しなさい」

「わたし、別になにも話すことなんか……ないです」

 明日ここを出ていく。そのためにはミオに色々探られたくはなかった、余計なことを言ってしまいそうで彼女は口を噤んだ。

 視線を彼の青い毛先に固定し、もう一度「特にないです」と答えた。

 長い前髪の奥でミオの青い目が細まった。

「ここ数日、君はあまり元気がなさそうに見える。なにか言いたいことや悩みがあるのでは?」

 ぎくりと勝手に肩がすくんだ。俯く。

「そっ、そんなことは……ないと思いますけど」

「確認だが、俺は君を破門にしない。君が出ていくと言わない限りは」

「ありがとう、ございます」

 シェリは詰まりそうになった言葉をなんとか押し出した。

「試験はどうする」

「う、けます。当然でしょう、合格して王宮の薬学研究所に就職するんです」

「もし落ちたらどうするつもりだ」

「ど、どこか……どこかで働きながら、来年も受けます」

「あくまでも薬学で身を立てたい、ということだな?」


 ひと息分、彼女は心臓が止まったかと思った。「あったり前じゃないですかぁー!」勢いよく顔を上げた。

「わたし、それしか特技もないしノーコンだし! あ、それとも、もしダメならミオ師が就職先を紹介してくれるとか⁉︎ やったーそれなら食いっぱぐれなくて済むかも!」

 ぎゅうっと杯を握った。

 こんな感じだったはずだ、以前のわたしは。

「いやぁ正直ちょっと不安だったんです。だってミオ師にかけちゃった術も大失敗だったじゃないですかー!」

 ミオ師を好きになる前のわたしは。


 いまシェリは、自分が以前と別の生き物になってしまったと自覚していた。

 たったひとつの感情が変わっただけで、すべてが塗りかわってしまったと。ミオを構成する魔力が橙から青に変わるごとくに。

 でもミオ師はもうすぐ元に戻るから。わたしと違って、元通りに。

「こりゃ試験も無理かなって!」

 必死にしゃべる彼女は、ミオが眉を寄せたことにも気づかない。ことさら声を張り上げ、明るく無邪気にと装った。

「はっ! もしかして、伝手がありそうなんですか、薬学の就職先が!」

 嘘の興奮のまま言い募るシェリに、ミオは「ある」と肯いた。

「……もしものときに、と考えていたが。いま話そう」

 「へ?」青天の霹靂だったシェリは時を止めた。

「来なさい」


 顔をしかめたままのミオはどこか覚束なく立ち上がり、衝立の側の壁へと向かった。要領を得ずに着いていったシェリは、彼が壁に手を触れ魔力を込めたのを視た。刹那、光を放ったちょうど扉ほどの四角形の形に、壁は飾られていた灯りごと消えた。ふうと少し埃っぽい風が中から彼女の鼻をくすぐる。

 するとミオが振り返り「手を」と言った。

「中は暗い上に、床に物が散乱している」

「へ? あ、はぁ」

 躊躇いのない師の様子にシェリが思わず言う通りにすると、大きな人間の手が優しく包んだ。


 ふたりが中に入ると、壁の扉は消えた。

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