散歩ともふ
「散歩かぁ」
シェリは、憂鬱な気持ちで指定された採取着に着替えていた。先ほどまでのこそばゆい空気はもうどこかに行ってしまった。
野営にも耐えられる服はボタンが多く、ひとつ留めるたびにため息が漏れる。ミオのいなくなった部屋は急に寒々しい青白さで、指先が冷えていく。
「依頼も終わったし、とうとう破門かな……それとも試験の話かな」
研究以外の話は聞いたことのないミオに散歩に誘われる、そもそもなにかに誘われるのは初めてだった。不自然だと、シェリの思考は悪い方へと下っていく。
「きっと最後の思い出づくりってやつだ。シュバラウスだし普通の外出は無理だもん。ミオ師なりに気を遣ってくれたのかも」
約ひと月、術にかけ拘束状態を強いた。登宮も依頼もストップさせ、信頼を失墜させかけた弟子——もう面倒は見ないと放り出されても文句は言えない事実。
「自業自得すぎるよね。なに言われても受け入れなきゃ、どうせすぐお別れすることになるし」
別れを想像して彼女の胸ははっきりと痛んだ。
朝になれば、試験まであと六日だ。
シェリが自分の好きなように生きるには合格するほかない。
「でも……」
やはり彼女は諦めるつもりでいた。
もう変幻術は使いたくない、例え術が成功しても今回のように誰かを誤って傷つけてしまうかもしれない。薬学を志したのは人を助けるためなのだ、本末転倒ではダメだ。
「やっぱり実家に帰るしかないや……でも」
帰りたくない理由が増えてしまった。
できるだけ長くミオの側にいたい。できそこないの弟子でもいい、あと六日だけでも。
彼女は最後のボタンを留めた。
実に約ひと月ぶりの野外は空気が清々しい気がすると、まず二人は肯き合った。
少し歩いて郊外に出ると——ミオの家はいつでも爆発できるよう街の外れの方にある——彼はすぐに獣の姿になった。並んで歩く人間のミオにさまざまな動悸を禁じ得なかったシェリは、シュバラウス姿の彼に思わずホッとしたのだったが、すぐに「え!」と声を上げた。
「大丈夫なんですかミオ師。誰かに見つかったら……ってか、いつの間にか自由に変幻できようになったんですか! あっ服、あれ、ない」
見回したが、抜け殻はない。そういえば部屋でも服を着てたと、先ほどの出来事を思い出し、彼女はひとり頬を赤めた。
シェリの照れには気づかず、ミオはフンと鼻を鳴らした。
「俺を誰だと思っている、魔粒子学専門家だぞ。コツを掴めばこれくらいは当然だろう。まぁ多少はグラーダに手伝ってもらったんだがな」
「……グラーダさんに」
君が風呂に入ってる間にな。と話すミオは獣なので、シェリは彼の感情をよく推し量ることができなかった。
しかし「彼女は解術が得意で」「戻ったら裸で驚いた」などとあっけないほど簡単に報告されれば、人間に戻ったことを意図して秘密にしたいのではなさそうだと、彼女は少しばかり溜飲を下げた。
「しかも今度は獣になっても服を着た状態に戻れるようになった。これでいつ変化しても問題ない。さぁ行こう」
という具合で、シェリはミオに促され、彼におっかなびっくりまたがることになった。
「散歩って、そういう?」
「決まっているだろう」
そしてスカートでない採取着を指定された意味をすぐに知ることになる。
「次は跳ぶ、舌を噛むなよ」
「舌をって、ひゃっ、ああァァァァ————!」
普段は隠している鉤爪が鋭い音を立て、わずかな助走でミオは二階建ての屋根まで跳んだ。
そしてシェリは躍動するシュバラウスの首に掴まり、わめく。魔術で体をミオに固定されているものの、重力の抵抗はそのまま。
「ハハハハこれはいいぞ!」
そりゃあんたはシュバラウスだからで、ぎぃやあぁぁ————!
跳んだ勢いで魔術を行使し、獣は宙を駆けた。
「すごいな、もう隣の街が見えてきた。数時間走れば隣国まで行けるぞ」
どういう理屈か、走りながらでもはっきりとした発声のミオは、引きこもり中年にあるまじき溌剌さだ。
「み、ミオ師、休憩、希ッ……!」
すでにシェリは息も絶えだえだ。舌を噛みそうになり涙ぐむ。首に腕を回していられず、たてがみを掴むことでなんとか姿勢を保っていた。
「そうか。あの辺に湖があったはずだ。ばうっ!」
「ぎゃあァァァァ!」
もぉずっと地面にいたいよう。すまなかった、つい。
興奮冷めやらぬ元気な尻尾を恨みがましく見つめ、シェリは湖畔に「うへぇ」と寝転んだ。腰も、腹筋も脚もおかしかった。
「やぁ思った以上に爽快だったな。筋力増強はさすがスムーズでむしろ調整が難しいが、どこまで速くなるのか試してみたいところだがそれよりも増強なしの筋力の検証からか、だがそれだとひと晩では足りないな……回復状況にもよるか? 人間の状態での清潔効果のほども検証して次回も対照にせねばならないかぶつぶつ」
採取着は防水効果があるので草むらに横たわってもへっちゃらのシェリは、胡乱な顔で心底楽しげな獣を見上げ、ふと疑問がわく。
「無礼を承知でうかがいますけど、シュバラウスに変幻しているときって、どんな感じなんですか?」
今にも飛び出しそうにだっていたミオは、弟子の言葉でぴたりと動きを止めた。「君に無礼という概念があったとは」師は無礼に失礼で返し、彼女の前に仕方なさそうに腰を下ろした。
「いい機会だ、君の思い違いを正そうじゃないか」
「思い違い?」
ミオの改まった様子に、シェリも姿勢を正した。
「いま俺がシュバラウスになっているのは厳密には変幻術ではない。まだあまり公にはなっていないが『変異術』と呼ばれている代物だ」
「変異?」
「まだ体系化されていない仮の呼び方だな。とにかく形だけでなく、異なった性質や構造に変化させるという意味合いだ。人間が獣になった事例は聞いたことがないからどう分類できるか……。もちろん俺が一番に論文を出して決めるつもりだが」
「え、ちょっと待ってください。じゃあわたしの変幻術は失敗ってこと?」
そうだと肯かれ、シェリは驚きで目を瞠った。
「でも魔力で粒子に働きかけて形を変えて……」
「そうだ外側の粒子だけに働きかける術だ。君、本当に俺の概論を読んだか? 中身は変わっていないのに幻のように姿を変える、だから変幻と呼ばれる。しかしいまの俺はどうだ、外側だけか」
外側どころか中身も、食事も排泄もシュバラウス化している。
ミオのお説教じみた口調に、シェリの顔色は悪くなった。
「も、ものすごい大失敗じゃないですか」
「変幻としてはな。しかしシュバラウスになったのは運が良かった」
爆発物やスライムだったら意思疎通も難しかったろう。偶然とはいえ実にラッキーだった。
話を続ける彼をよそに、術だけは成功していたと思っていた彼女はいまや蒼白だ。
「じゃあわたし、やっぱり……この散歩は」
「散歩? あぁ我々の気分転換も兼ねてはいるが、研究の一環でもある。夜中しかできないだろう?」
「研究……? でももうわたし、破門に」
引導を渡される覚悟でいたシェリの声は震えた。
「破門? 誰がそんなことを」お利口に座っていた獣が腰を上げた。鼻先が近づき、同じ目線の二人は見つめ合う。
「俺を伝書獣にしてしまったことか? それなら師の管轄内で起きた事故だ、それを理由に破門などとするわけがないだろう。もしそんなことをすれば師はろくでなしと永久に罵られるぞ。しかも俺がもし君を放り出した場合、行く宛が…………もしや出て行きたいということか?」
怒りの滲む口調。
「出て、行きたくない、です」
やけに歯切れの悪い返事にミオはすとんと再び腰を下ろした。
「そう、か」
湖に夜風が吹いた。月に照らされた水面が揺れた。
ひとつ懸念が消えた。だが次の瞬間には「試験は」と尋ねられたらと、体は冷えた。
それにミオの言い分では、師としての義務感で放り出さないだけのように聞こえ、シェリはだんだん悲しくなった。
わたしってそうだった、なんの役にも立たないノーコンだった。
きっとミオ師だってわたしが受かりそうにないと思ってるはずだよ。
僻みに似た悲しみが彼女の心を揺らした。
明日出ていけと言われなくったって、六日後には同じことか。試験も不合格で最後まで残念な弟子だったと見送られるくらいなら——。
シェリはぎゅっと眉を寄せ、俯いた。
そして明日には実家に帰ろうと決意した。
「すみません、やっぱり……。ミオ師、わたしを破門にしてください」
「君、今度は別の思い違いをしていないか? 話が噛み合ってない」
ミオは四つ足で立ち、シェリの鼻先まで近づいた。
「それに、またなにか誤魔化しているだろう。言動がおかしい」
じいっとシェリをガラス玉が見つめた。しかし彼女が目を合わせないと知ると、ミオはさらに体を近づけた。シェリの視界が獣でいっぱいになる。
「ちょ、近、なんですか」
「撫でなさい」
「は?」
目を点にしたシェリに、ミオは「俺を」と彼女の髪の横で低く言った。
「好きにすればいい。それで少し落ち着きなさい」
「は、はぁ」
「早く」
なぜか急かされたシェリは、ヤケクソで目の前の黒に手を伸ばした。
背に沿うたてがみのような長めの毛はさらりとして、その下の短い毛は少しごわごわとしている。両手を入れると、さらにぐいっと体が寄って彼女の頬は首に埋もれた。獣らしい鼓動の速さを感じ、目を閉じた。
「あったかい」
思わず彼女が呟くと「俺もだ」とミオが言った。目頭が痛むほど熱くなって、「よーしよし」彼女はぎゅうっと彼に抱きついた。
「なんだその棒読みは。するならもっと本気でしなさい」
「す、好きにすればいいって言ったのに」
「ひどく中途半端な気分だ」
不満そうなミオの声に、シェリは毛の中で泣き笑いした。
ミオも小さく笑った。
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