真夜中の

 ——どうしよう眠れない。

 体は重い。横になった瞬間からもう起き上がれないと感じるほど疲れているのに。

 何度目を瞑ってもシェリの目蓋には、裸のミオの肩に親しげに手をかけ、彼に顔を寄せたグラーダの耳の形がよみがえった。

 あのときミオ師、裸だった。きっと変幻が解けたから。でもグラーダさんは全然、普通だった。やっぱり見慣れてるってこと……だよね。


 シェリは夜着の胸を掴んだ。体験したことのない重苦しさが込みあげ、低く呻いた。

「わたし、なんで。ミオ師が戻って良かったはずなのに。嬉しいはずなのに」

 寝返りを打つと、枕元に置きっぱなしのブラシが頭に当たった。彼女はミオに見つかる前に部屋に逃げこんだのだ。湿った髪でシーツが濡れる感触がひどく不快だった。我慢できず、ブラシを床に放った。

 カーテンの谷間から夕陽が入りこみ床を橙に染めていた。外は静かな夕べだった。

 ひとりきりの部屋で世界にひとりだけのような気分と、胸中の騒がしさでいまにも暴れ出したい気分とがせめぎ合うのを堪えながら、シェリは横たわっていた。


 すると唐突に部屋のドアが細く開いた。たし、と獣の前足がその隙間から見えた瞬間、彼女は思わず目を閉じた。

「……なにか、物音がしたが」

 そして中に入ってくる気配に身を固くした。

「あぁこれか」

 ミオはブラシに気づくと足を止め、その場で彼女の寝顔を眺めた。彼の青い瞳は橙に染まり、かすかに緑がかって見えた。


 ——ねぇミオ師、どうしてシュバラウスのままでいるの。さっきは人間だったよね。もう術は解けてるんじゃないの、なんでわたしに嘘つくの。

 シェリはそっと体を丸めた。起きていると悟られたくなかった。歪んだ眉や唇を見られたくなかった。唇を噛んで、疑問を押し殺した。


「……む、乾かさないで寝たのか」

 ミオが近づいて、彼女の髪を撫でた。耳の上から後頭部へ、何度もされた軌道で濡れた癖毛を優しく撫でつける。

 シェリはつい「うぅ」と声をもらした。それは確かに人間の手だったからだ。そしてその大きな手から、ほのかな風が起き、彼女の髪を温めた。指が頭皮を滑り、髪を優しく梳いた。

 彼女が身じろぎするたび、手はうかがうように止まった。そしてまた動き出す。


「ゆっくり休みなさい」

 すっかり髪が乾いてミオが手を離したと同時、シェリが目を開けた。赤く潤み、いまにも滴をこぼしそうな橙が彼を貫いた。青はみはった。

「みお、し」

 考えがまとまるより早く、ミオの両手は彼女へと伸びた。なんの衝動かはわからない。「ここにいる」目尻に滲む涙を拭った。すぐに拭ってやらねばと思った。

 長い黒髪が垂れ、青い毛先がシェリの首筋をくすぐった。

「うそ、嘘だぁ」

「嘘じゃない。寝なさい」

 頬を撫でた。彼女の言葉はいつものうわ言と変わりがなく、彼は寝ぼけていると思いこんでいた。人の姿で優しい声を降らせる。


 目も頭も熱くて、シェリはかぶりを振った。どうしてと、なぜと聞きたいことはたくさんあるのにうまく言葉にならない。

「なん、シュバちゃ……ミオ、し……」

 頬を包む手を取り払いたくて両手を伸ばした。だが、ぼやけた視界のせいで彼女の指先は意図せず彼の頬に触れた。それは何度も乞われて触れた場所、撫でて髪を梳いた記憶が勝手にそれをなぞった。


「ぐ、……わふっ」

 ミオの少し伸びた髭が擦れ、シェリの頬はひりついた。今度は鼻先がつつく。

 触れるほど彼女の胸には歓喜がわいた。もっと。洗い立ての黒髪に指を通し頭を引き寄せた。わざと「シュバ、ちゃん」と呼んだ。

「おいダメだ、ぐるぐ……君、ぐ、ぐる」

 ベッドが深く沈んだ。中身がシュバであったときと同じ、シェリは後ろから抱かれた。頭は肩に乗せられ、腕が閉じこめるように交差する。それでもひと息ごと葛藤する声と動きとを背に感じ、彼女は「シュバちゃん」と唱え続けた。寝たフリを演じて。

 ミオの中にまだ残るシュバラウスが自分を求めればいいと。このまま眠るときは側にいてほしいと。


 「困ったな」肩にミオの額が埋まった。

 シェリは自分の背中で熱が鼓動を刻み、その部分から体中が火傷しそうなほどの熱とちょうどいい温もりとがないまぜになるのを感じた。

 はぁと熱い息が吐きかけられ、シェリの背は震えた。温めようとミオの腕はさらに抱き寄せる。

「……寝なさい、できるだけ深く」

 あぁわたし。好きなんだ。

 唐突な自覚に涙がこめかみに流れていくたび、ミオは「大丈夫だ」「ここにいる」と囁いた。髪を撫でた。

 シェリはいつの間にか眠りに落ちた。



 *



 シェリが目を開けると真夜中だった。大きな月がカーテンの間で輝いていた。

 彼女の頭はミオの肩と胸に挟まれるように彼に乗ったまま、彼の腕は彼女を抱えるように腰にまわったままだ。静かな寝息と胸の上下が再びのまどろみを誘った。

 「あったかい」小さなころ、母と同じベッドで眠ったことを思い出した。あのときも温かくて何度も起きては安心して、またまどろんで——。

 母の最後が掠め、シェリの心の奥はすうと寒くなった。いやだと思い、目の前の温みにすり寄った。


 「うぅん」仰向いていたミオが、シェリの方に寝返りを打った。自然、彼女は両腕に抱かれ二人はさらに密着した。「わふ……ぅ」さらに尻尾が彼女の尻のあたりに乗った。さわさわと撫でるのでくすぐったい。

「うぅミオ師……尻尾、くすぐ……」

 尻尾ってなに?

 シェリの眠気は一気に覚めた。

 やはりなにか、ふっさぁとしたものが尻を撫でている。あやしているつもりか、時々ぽんぽんとする。

 彼女はおそるおそる手を伸ばし——見なくてもわかった。寝る前にしっかり洗い上げたシュバラウスの尻尾だと確信した。


 そして彼女は意識がはっきりするほど、この状況はまずいのではと思い始めた。

 肌に直接触れるのははばかられて、胸のところの布をついと引っ張った。

「み、ミオ師。起きてください」

 しかしはたと気づく。

 いや、起きる前にさっとここから出よう。そういえばなんか気まずい。だってシュバちゃんじゃないんだもん。そんでついでにトイレに行って心を落ち着け……。

「起きたのか。ん、真夜中か」

「ひゃ、ひゃい」

「寒くないか……この毛布もっと厚い方が……」

「ひっ、いや、ちょお」

 完全に寝ぼけているミオは、またシェリの方に体を向け、もぞりと背を丸めた。

「……はぁ君にくっついてないと……寒い」

 なにこの生き物オォォ! い、いますぐもふもふしたい、でも毛がない、毛が……。

 さすがに正気では師の胸の中に入りこむ勇気はなく、シェリは彼の腕をスライドして距離を取った。すると目の前にお辞儀する三角の耳が——。

 毛、あったあぁぁ!


 シェリは迷いなく手を伸ばすと毛流れに沿って撫でた。不思議なことにそれはつむじのこめかみの間から生えており、繋ぎめもしっかり皮膚であることがわかった。縮尺もシュバラウスのものより大きい。さらに人間の方の耳はないようだった。

 彼女は「わぁーもふもふかわいいねぇ」と目尻を下げた。

「わふ…………ん?」

 バチンッとそこで目が合った。ごく至近距離だ。

「君、なにを」

「わ、わぁ!」

 慌ててミオから離れようとしたシェリは下がりすぎてベッドから尻が落ちかけた。またしても叫んだ彼女を、すんでのところでミオが留めた。ぐいと引かれたシェリは何度目か両腕の中に戻った。


 ミオはハァとため息をついた。

「危ないだろう」

「す、すみません。ありがとうございましたぁ……」

「まったく」

 そこでミオも類稀な状況に気づいた。そっと腕を上げ、シェリを解放した。よいしょと首の下から腕を抜き仰向けになると、胸の上で手を組み表面積を小さくした。

 沈黙が落ちた。


 晴れた空の月は、カーテンの細い隙間から姿を消そうとしていた。

 沈黙を破ったのはミオだった。

「少しは休めたか」

 ミオの方を向いて視線をうろつかせていたシェリは「はい」と答えた。

「あの、ミオ師、その……」

「君のベッドで寝てしまったことは全面的に謝罪する」

 彼は起き上がり、窓を背にあぐらをかいた。そして頭を下げた。やはり頭についたシュバラウスの耳がぴくりと動いた。

「誓って不埒なことはしていない」

「そっそんなこと疑ってません! あ、あ頭を上げてください!」

 シェリも起き上がった。毛布をこね、向き合った。

「いや多少近づきすぎた自覚はある……すまなかった」

「わたしも、寝ぼけてくっつきました。すみませんでした」


 二人は同時に頭を上げ、目を合わせた。「ふっ」とミオが口の端を上げたのをきっかけにシェリも「ふはっ」と吹き出した。

「しかし君のベッド、狭くないか」

「うーん、確かにミオ師のベッドの方が大きくて寝やすいかも」

「……君は一体どれくらい俺のベッドで寝たんだ……」

「え! えーと……」


 まぁいい。ミオは背を壁に預け、シェリを少し上から見下ろした。そして自分の髪をかき上げ、気怠くあくびをした。

「目が覚めてしまったな。散歩でも行くか」

 四十男の色気に当てられたシェリは頬を染め、「散歩?」と聞き返した。

「いい夜のようだしな」

 うーんと伸び上がった体の裏で、彼の尻尾が忙しなく揺れた。

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