モフであり師である

 グラーダが帰ったあと、シェリは落ち着きをなくし皿を二枚割った。けたたましい音に男が飛んできたが、「こっち来ちゃダメー!」とシェリに叫ばれすぐに引っこんだ。教育の賜物であろう。

「わたし、なにやってんのよう」

 箒を持ってくる気にもなれず、彼女はその場にへたりこんだ。足先で割れた破片がチャリと音を立てる。かなり勢いよく弾けたようで粉々になった部分もある。


 シェリはおかしいと思いつつ、自分が一体何に正気を失っているのかイマイチわかっていなかった。ただひとつ言えるのは、グラーダが魅力的でミオに匹敵する実力を有している——シェリが逆立ちしても敵わないということ。

 あの人はきっと想像もつかない役職に就く魔術師なんだ、猛禽を個人に遣わすなんて聞いたことない。ううん当然だ、だってあの人はミオ師の恋人。ミオ師はこの国で目標にされる師のひとり。わたしはできそこないの弟子。


 シェリは「わぁあん」と泣き出した。

「わたし、なんにもできない! 試験もダメだし、お茶だってマトモに淹れられない……!」

 どんなにルームメイトに生活力のなさを指摘されても、薬学以外の才能がなくても気にしたことなどなかった。お茶だって気取って飲むものより、味より効果のある方がいいと思ってきた。

——それなのにたったひとつ、自分を支えていた薬学でさえも軽くあしらわれてしまった。

『ミオは甘いものが好きなのよ』

「うぅ……!」

 そんなの知らないよ! だって朝ごはんのときしか会わないし、魔力はノーコンだし安定しないし、治験しないと倒れる人ばっかり出すし、髪だってあんなにきれいな色じゃない。

 子どものようにばたつかせて伸ばした足が破片をかき混ぜた。

「わふ……くぅん」

 いつの間にか男が側にいて、シェリは「な、なによ」としゃっくりあげた。

「危ないから来るなって、あんたが来たって、なんにも……わたしの魔術なんてなんの役にも立たないんだからぁ!」


 いよいよ喚きたてるシェリを悲しげに見つめていたが、男はひとつ口を引き結ぶと彼女を強引に抱き上げた。

 「うぎゃあぁーいやあぁー!」暴れるシェリだが、相手は「くうぅん」としょげたような声を出すだけでびくともしない。

 そうしてリビングの、お馴染みのソファへと降ろされたころには、シェリの顔はひどいなんてものではなかった。癖毛は爆発したように広がり、目も鼻も真っ赤。頬も涙でかぶれそうに赤らみ鼻水もついでに伸びていた。


 ——半身をクッションと背もたれに預けた彼女の腿に、男は「わふ」とハウスした。

 これをすると相手は元気になると確信を持っていたからだ。けれど今回はいつまで経っても飼い主は泣き止まず、頭を撫でることもしない。

だから男は待った。本来、彼は待てと言われずとも待つことができるのだ。ただ彼女がよく早く、声を上げ「よーしよし」と髪に指で漉いてくれる方を選んでいたにすぎない。

「うわぁぁぁん……うぅミオ師……ごめんなさいぃ」

 泣きが大人しくなって、彼はそっと彼女の膝から離れた。すると捲れたスカートの裾の下——食器の破片で傷ついたふくらはぎに気づいた。

「……わぉ、わぉーん」

 血が出ているよ。そう伝えたつもりだが、視線を寄越すべき彼女は両手を顔で覆ってこちらを見ない。

 怒られるかな、でも。男は舌を伸ばして傷を舐めた。固まりかけた血の味がした。


 「ひゃっ?」シェリの脚が震え、手の隙間から橙色の瞳がこっちを見た。

 男は嬉しくなりもうひと舐めした。

「こ、こらぁ! そんなとこ舐めちゃ、わぁ!」

 シェリは今度こそ起き上がり、床に跪く男の肩を掴んだ。

「わふん」

「わふんじゃないわよ! って、シュバ……?」

 男を構成する表面の粒子たちが光っていた。

「どうしたの、なんか……」

 シェリは慌てて目を擦り、男の魔力の、青と橙が異常に揺らぐのを視た。

「え、なんで? 朝までは青の方が増えてたの! ぁ、傷? もし……かして、いまわたしの血を、舐めちゃったから」

 魔術師の血液は最も魔力を含有するため、受け渡しを固く禁じられている。

 彼女が青ざめる前で、男は徐々に形を変えていく。

「シュバちゃん、待って……どうなっちゃうの」

 シェリが手を伸ばすと、男も頭らしき部位が膝に近づいた。ハウスのつもりだろうか。しかしすでにそれは流動体のごとく形を成さなくなっていた。そして拮抗はまたしても橙が制した。

「シュバちゃん……ミオ師……? 嫌だ」

 また獣の姿に戻っちゃうの、それとも違う姿に?

 カッ————! 刹那、男の形をしていたものが眩く輝き、シェリは咄嗟目を閉じた。




 たし。たし。

 シェリの膝に獣の肉球が触れた。彼女は目を閉じたままそっと声を出した。「シュバちゃん……?」目蓋の灼かれた白さが消えたとき、静かな青い瞳と目が合った。

「……あぁ、戻っちゃったんだ……」

 先ほどまで皮膚でできていた形は再び真っ黒な獣毛へ、長い前髪に隠れた彫りの深い造詣はやはり細く鼻の突きでた獣へと変化していた。

 シェリは心底落胆していた。また振りだしに戻ってしまったのだ。彼女はごく自然に、その毛深い首元を抱きしめようと手を伸ばした。

 しかし彼女が膝をついて稀有な青いたてがみに触れる直前、獣はすいと後ずさった。

「……え? シュバちゃん?」

 もしや記憶も書き換えられたかと、彼女が手を伸ばしたまま呆然としたときだ。

「君は、よほど俺を飼い慣らしたようだな……く、シュバラウスは思ったより衝動性が強い」

 たし、たしと獣は一歩進めば一歩戻り、なにかの葛藤と戦うような足取りを見せる。

「へ……しゃべっ……え、まさか、」

「師が戻って嬉しくないのか」

 「ミオ師……?」と、シェリはうわ言のように呟いた。すると獣は鷹揚に肯き、「そうだ」と答えた。


 その瞬間、シェリは床につけていた膝で勢いよく跳んで、その首元についに抱きついた。頬を埋め、懐かしい獣の匂いを吸いこんだ。

「み、ミオ師——! うわぁぁーん会いたかったあぁー! もうダメだと思ったあぁぁ——!」

「お、おい君、シェリ。わかったから離しなさい、ぐるぐるぐぅ……なんだ勝手に喉が」

「よかったよぉぉうぅぅ……! もふもふかわいい、かわいいよミオ師よかったあぁぁぁ」

 おい君、支離滅裂だぞ。いいの、もうどうでもうわぁぁん! まったく好き放題だな君は。


 外側はシュバラウス、中身は師。とはいえようやくミオが戻ってきた安堵でシェリはひとり、くたびれるまで泣き続けた。今度はもちろん嬉し泣きである。

 獣の姿のミオは、途中から師としての尊厳よりも獣の本能が競り勝ったことで彼女が眠りこむまで大人しく抱かれたままとなった。



 *



「君は寝てるときくらい大人しくできないのか」

 ピチュピピと小鳥の挨拶が爽やかな朝、シェリは厳しい顔の獣から苦言を呈され完全に目を覚ました。格好だけなら五体投地だが、両の拳は突きあげられ足も片方は蹴りあげられている。

 「あ……ミオ、師? 夢じゃない?」もはや私室と化しているミオの部屋のベッドで彼女は勢いよく起き上がった。

「夢だと思いたいのは俺の方だ。急いで顔を洗ってきなさい、まずは朝ごはんにしよう」

「は、はい!」

 シュバラウス姿のミオは床で寝たので、リビングのクッションや冬物のショールがベッド横に敷かれていた。

 シェリはそのときは特に感慨なく洗面所へと向かったが、毛玉のような自分の頭の惨状に気づいた瞬間、「ひどすぎる……弟子としても女としても」とマトモな思考に至った。

 この一件の以前は、あれほど徹底して夜着で会わぬよう風呂上がりで遭遇しないよう気を遣っていたのにと。


 シェリは頭をずぶ濡れにする勢いで髪を丁寧に梳り、王宮に出かけるときのように簡単に整えた。

「……そうだよ、もうミオ師だもん。変に撫でたり抱きついちゃダメだ。夜も自分の部屋で過ごさなきゃ」

 もう獣相手ではない、ミオが戻ってきたのだ。

 じわり喜びと、なぜか背中がむずむずとしてシェリは何度も髪を撫でつけた。




 朝ごはんは簡単なスープと、硬くなったパン。シュバラウスのミオには少々物足りなかったので追加で燻製肉の塊。

 ダイニングは相変わらず空席だったが、シェリはテーブル脇で肉にかぶりつくミオを横目に満足した。暖かな食事をとったことも久しぶりだった。

「皿は……すまないが君が洗ってくれるか。終わり次第、状況の確認をしよう」

「もちろんです! ソファで待っててください!」

 シェリは手早く片付け、朝の日課だったお茶の準備をした。さすがにシュバラウスに飲ませるものではないので、いつもの半分の量。それでも日常が戻ってきたようで、彼女はポットから立ち昇る湯気に頬を緩めた。


「君、まだか」

「はっ、はい! いま……あ、あっつ!」

 しびれを切らしたミオが足音もなく声をかけたので、シェリはほとんど飛び上がった。すると指が熱いポットに触れ、大げさな声を上げてしまう。「大丈夫か! すまない驚かせた」と、ミオも足元に体を寄せた。

 服の上からでも温かい毛並みに咄嗟、シェリの痛めてない方の手が伸びた。

 「大丈夫です、ちょっと熱くしただけ」と流れるように彼女がミオの頭を撫でると、ミオは「わふ」と彼女の腕に前足をかけ、後ろ足で立ち上がり素早く赤くなった人差し指を舐めた。

 「へあ?」「む?」そして同時に我に返った。

「ああ、あありがとうございます? やーちょっと冷やさないとか、なぁー!」

「わふ、ごっごほん……そ、そうだな。ゆっくり冷やしてくると、いい……」


 十五日間の習慣とは恐ろしい。

 獣はサッと後ろに飛び退き、その場を三周ほどしてリビングへと戻っていった。

 シェリは真っ赤な顔で水道のコックを捻り、大量の水で指を冷やしたのだった。




————————————————

※蛇足かもしれない情報

シュバ化したミオ師ですが、トイレ後の清浄だけは獣式を受け入れられずシェリに洗浄魔術を頼みました。しかしそこはノーコン。二度目からはお風呂場で「ぱっしゃあ」くらいのぬるま湯を尻にかけてもらって事なき(?)を得ます。ぬるま湯をかけられる瞬間の尻尾はもちろんヒュンッと脚の間に収納されています、かしこ。

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