来訪者

 待てよ。

 シェリは青ざめた。

「お風呂、教えられる気がしない」

 スプーンとフォークを持つことも難しかった男の濡れた顔を拭ってやった彼女は、想像を凝らして天を仰いだ。


 トイレは奇跡的にうまくいった。シュバラウスの姿のときにトイレに連れていったことが功を奏したのだ。ズボンの紐を下げてやれば賢い獣は承知したように用を足した。

 しかしシェリにトイレをのぞく勇気はなかったので、男がすっきりして戻ってきても成功したかどうかについては懐疑的であった。本来は生活に魔術を用いることは制限されているが、「いまが緊急時じゃないなら、いつよ!」と、シェリは全力で男を洗浄せんと魔力を放った。

 もちろん全力すぎたため全身ずぶ濡れになって、件の展開である。


 ぽたぽたと前髪から雫を垂らす相手は耳があったら伏せているだろう。シェリは男がひどく悲しそうな顔をしていると気づき、頬に手を伸ばした。

「ごめんねびっくりしたね。」

「くうん」

 ぶるぶると体を震っても水気が切れず、かえって顔が濡れてしまった男は「うわん……」と彼女の肩に顔を埋めた。

「よーしよし。わかったよ、拭いてあげるから」

 そして腹を括った。「これは五歳……中身はシュバちゃん……大丈夫……たぶんなんとかなる」と唱え、男の手を引いてお風呂場へと向かうことにした。




 ——シェリは人生一頑張ったが、どうしても下衣だけは脱がせられなかった。

「こら、動かないの!」

「う、うー」

 大の男を洗うのは大変だった。面積が違うし、恥ずかしさで直視できない。

 しかも濡れていることが不快なのか何度も脱走しかけ、シェリは引っ張り戻すのにも苦労した。

「髪は大切だから、もうちょっと頑張って!」

 ミオの髪は毛量が多く、一本ずつが太い。これがあの膨大な魔力量を支えてるんだな、などと冷静に思いつつ、彼女は他人の洗髪の難しさに息を上げる。兄弟のいない彼女にとっては初めての入浴介助だ、容量を得ずいまや彼女も頭からお湯をかぶったように濡れていた。

 お風呂場は蒸して暑く、薄着とはいえ服を着たままの彼女は汗が止まらない。袖で何度も額を拭い、男の髪に手櫛を通した。


「めっちゃ絡まってる。ミオ師、これ普段ちゃんとお手入れしてるー?」

 お風呂上がりは濡れっぱなしで実験室にこもっている印象。それにあの師が髪に櫛を当てる絵は想像できないぞ。シェリは自分の香油を使い、青の毛先までしっかり油を揉みこんだ。

 そうして待つ間に眠たくなった様子の男を、湯船から出して全身を拭いてやり下衣をなんとか交換させた。

 そして最後、嫌がる男を「ごはんあげないよ!」と脅し、少々コントロールの効かない風魔術で髪をしっかり乾かした。


 気づけば夜になっていた。入浴で疲れたらしい男は、髪が乾くとすぐにミオの部屋で寝入ってしまった。

 それを確かめたシェリは、さっとお湯を浴びた。そして男にしたのと同じように丁寧に自分の髪を乾かした。ミオがシュバラウスになって以来、髪の手入れを怠っていたと思い出したのだ。

 シェリは柑橘の香油の匂いを長く吸いこみ、吐いた。

「そうだ……髪洗ったから、ミオ師の魔力増えてないかな」

 ソファから立ち上がり、男の眠る部屋へと向かう。


 ——髪を清潔に保つことで魔力も清浄さを保つ。結いあげ方も儀式ごとに決まっているなど、魔術師の世界では、髪は魔力の通り道として重きを置かれている。シェリとミオはあまり外見を気にしない質であるので、家の中では洗いっぱなし乾かしっぱなしが多いが、世の中には寝るときまで覆いをする者もいる。


 横向きで目を閉じる男の寝顔は穏やかだ。

 じっと視たシェリは「やっぱり」と肯く。橙で覆われていた魔力に、青が混じるようになっている。それは半日前よりも目に見えて量を増やしていた。

「良かっ、たぁ」

 シェリは男の顔の側にしゃがみこんだ。ようやく術が解けそうだと希望が持てた。

「あと三日くらいかな。わたしの魔力を超えるの」

 呟きに男がこちらに寝返りを打った。先ほどしっかりくしけずった黒髪がさらりとシーツを滑り、ひと房、彼女の目の前に差し出したように垂れた。黒から青へのグラデーション、生まれながらの多彩さの顕れ。

「……いいなぁ。わたしも、もっと見た目が魔術師っぽかったら父さんも許してくれたのかな」

 シェリは父に『分相応の暮らしを』『魔術師はお前に向いていない』と言われ続けてきた。自分の魔力がもっとあからさまで強大だったならと思わずにはいられないほどに。なんの変哲もない茶髪は父譲りだ。

 すいと青をすくった。窓から差す月光が毛先をしっとりと光らせ、彼の魔力を透かすようだ。

 彼女はその視える力強さにふるりと震え、男の髪をそっと手放した。そのまま立ち去ろうと腰を上げた途端、ぐいと腕を引かれ「わっ」とベッドに乗り上げた。


「ちょ、なんっ」

 「ぐるる、ぐる」喉を鳴らす男はシェリごと体勢を変え、彼女を後ろから腕に閉じこめた。

 頭の先からすっぽりと囲われた彼女は「これは、ちょ、まずい!」と、必死にもぞついた。しかし決して抜けだせぬと悟るのは早かった。

 せめて「これはシュバ、五歳の伝書獣、わたしのペット」ぶつぶつ唱えるものの、どうやっても背中が密着する。薄着同士の感触や、伝わってくる熱がみるみる頬へと移る。

 大きい、わかってはいたけどミオ師って大きい。それに硬い、なんかゴツゴツしてる。こんなんだっけ?

 密着しないようにと身じろぎするたび、男が強く抱き直すので、抵抗することを諦めた。変に力を入れたので、脇腹がりそうになったせいもある。

「あーもー面倒くさぁー」

 シェリはどうにでもなれと、男の胸に体重を預けた。いつの間にか男の上腕に頭が収まっており枕としてもちょうど良い高さ。規則正しい寝息が眠気を誘う。

「なんか、ちょうどあったかいや」

 目を閉じた。

 どうせミオ師じゃないし。もう裸だって全部見たようなもんだし、いまさら抱き合ったくらいでどうってことないか。あーでも、誰かに抱かれて寝るのってこんな感じかなぁ。

 恋人のいたことのない彼女は温もりに揺蕩いながら思った。背骨に響く鼓動が心地良いな、とひとつ息を吐いたときには眠りに落ちた。



 * 



 さらに三日経った朝だった——。

 バァーン! と大きな音でミオの私室のドアが開いたのは、シェリと男が同じベッドの上で目を擦って「顔、洗おうね」「わふぅ」と会話していたときのことだった。

 二人のもとに新たな客が現れた。


「ミオ! 病気って本当⁉︎」

 入ってきた女性の剣幕に、シェリは「げっ」と顎を引いた。当然だ、中身はシュバラウスといえど見た目はミオの生き物と薄着でベッドの上。同衾したと確定されても当然。

「あなたは……?」

「あぁぁの、これには深すぎる事情があってあのその」

 なんの断りもなく玄関を突破し、私室に入りこんだ相手の無作法にも気づかず、シェリは懸命に弁解しようとした。しかし二人とも、夜着に起き抜けの寝癖のまま。ミオの胸元など紐が解けてなんともけしからん状態。


「……聞いた話よりも随分元気そうだけど。あたし、お邪魔だったかしら?」

 女性は見事な金髪を肩から背へと払い、胡乱げに二人を睨めつけた。

「仕事の伝書にも本人から一向に返事が来ないと、王宮から連絡があったから駆けつけたの。なるほど、そういうことでというワケ?」

「あわわわわ違うんです! わたしは正真正銘ただの弟子なんです! ミオ師はその元気そうに見えますけど本当に病気みたいなもので……とにかく誤解ですー!」

 シェリの言葉に、女性は呆れたように眉を上げた。そして、「ミオ。黙ってるけど、あなたなにか言ったらいかが?」と男に話しかけた。にっこりと微笑んで。


 その瞬間、シェリは目の前の女性は壁の絵姿の女性と気づいた。「あ、ヤバ……」彼女が思わず漏らしたと同時、男は元気に返事をした。

「うーわふ!」




「あら。このお茶、全然美味しくないわね」

「うぅ、すみません……いつもこればっかりなので、他のがなくて」

「ふぅん?」

 グラーダと名乗った金髪の女性とシェリは、ソファに腰掛けていた。もちろんシェリの横にはピッタリと男がくっついており、昨日焼いたパンをもそもそと食べていた。

「ねぇもしかしてこれ、ミドフリ草?」

 熱心に匂いを嗅いでいたグラーダはハッとしたように彼女に顔を向けた。

「あ、そうです! 慣れると結構美味しく感じられますよ、集中力も上がるし」

「もしかして、ミオも普段これ飲んでるの?」

「常飲してます」


 ミドフリ草は苦いが、煎ると香ばしさが出る薬草。シェリの故郷では自生する薬草だが、王都ではあまり見かけない。

 元はシェリだけが眠気を取るために飲んでいたが、効能が明らかになってからはミオも積極的に摂取し始めた経緯がある。毎朝シェリが魔法瓶ふたつ分、濃いめに作り、それぞれ実験室に持ちこんでいた。お湯や水を好みで足して夕方には空になる。洗い物はミオの担当であった。


「これ……ブリュ草の抽出液をそうねぇ、二滴垂らすといいかも」

「え!」

 匂いと味だけでミドフリ草と当て、さらには予想もしなかった改善案。なんでブリュ草? 色が青くなっちゃわない?

 ぶつぶつと思考に沈みかけたシェリをグラーダが呆れたように引き戻す。

「えぐみがとれると思うわよ」

 シェリはハッと顔を上げ、女性に感嘆の眼差しを向けた。

「もしかして薬学をご専門にされてるんですか!」

「違うけど、経験上ね」

 勢いづくシェリにグラーダは少々そっけなく言い、「ところで」と話題を変えた。


「ソレ、あなたの仕業でしょ? なんとかならないの」

 咄嗟に口ごもったシェリは返す言葉が浮かばない。

「どうしようもないのなら、あたしが引き取るわよ」

「え! それってミオ師を元に戻してくれるってことですか!」

「どうかしら。それより面白そうじゃない? シュバラウスのままの方が御しやすそうだし、ここから連れ出すのに都合が良さそう」

 シェリは二度目の「え」を発し、グラーダの指先が自らの唇を意味ありげになぞるのを見た。

「ほらミオってちょっと頑固なところがあるでしょ? 一度口に出しちゃったことは撤回できないというか変化を嫌うというか。再三説得しても結婚はしないって言うし、外堀埋める機会をうかがってたのよ。年頃の弟子をとったって聞いた時は耳を疑ったけど。ま、色々納得したわ」

 そうだった、この人はミオ師の恋人だった。

 シェリは改めて相手を見つめた。

 グラーダの、定番の淑女の形に結い上げられた金髪は見るも艶やかで、容貌も爪の先まで匂い立つ美しさがあった。

 きっと並び立ったらお似合いだろう。つきんと胸が鳴ったが、彼女にその理由を考える余裕はなかった。


「グラーダ……師が良ければ、ミオ師をお願いできませんか。もう少しで、術は解けそうではあるんです」

「そう? いいの、あたしが連れてっても」

 こくりとシェリは肯いた。

「全部わたしの不注意のせいなんです。きっとミオ師は戻ったらわたしを破門にすると思いますし、今年の試験に落ちたらどうせ故郷に帰るつもりだったので。アハハ。師をこんな風にしてしまったのも、もう就職も諦めろってことなのかもしれません」

 口に出してみると、案外そうなのかもしれないと思えた。

「きっと、ミオ師もグラーダ師のところにいた方が喜ぶと思いま……ちょ、こら!」

「わふうっ」

 突然、男がシェリの膝に顎を乗せたのだ。いつの間にやら犬座りで。だめよ、と彼女が引き剥がそうとしても、長い腕が腰やら脚やらに巻きついた。

「いまはだめっ」

「うぅ、ぶふう」


 断固くっつきたい男と離れたいシェリの図を眺め、グラーダは吹き出した。次第にソファに背を預けて笑い転げる彼女を、シェリはぽかんと見つめた。男はもちろん膝にしがみついたまま。

「ふふ、おっかしい。そんなに懐いてるんじゃ連れてけないわよ。くふふ、ミオがシュバラウスになっちゃうなんてね。その、くっついて離れない感じ八歳のときのミオにそっくりすぎて笑える」

 満足するまで腹を抱えたグラーダは、ミドフリ煎茶を一気に飲み干すと立ち上がった。

「仕方ないわねぇ。王宮にはもう少し誤魔化してあげる。なんだか面白そうだし助けてあげなくもないわ。……そう、困ったらこの子を遣って伝書を」

 グラーダが指を振ると、真っ白な羽毛の猛禽と宿木が玄関前に出現させた。白い仕立ての良いローブを羽織ると同時、さっさと出て行こうとする。

「待ってください! あの、ミオ師を」

 シェリが慌てて呼び止めると、あぁそうだと振り返り、

「ミオって甘い飲み物が好きなのよ。たまには作ってあげなさいな」

 と言い残していなくなった。



————————————————

※蛇足かもしれない情報

シェリがどうしてもできなかったことの一つとして、髭剃りがあります。

魔術師は概ね髭を剃らない派と剃る派に分かれています。髭にも髪と同じく魔力が宿るからです。ちなみにミオ師は、若い子(シェリ)は髭が好きではないと思ってるので、それなりに気をつけて剃っていました。

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