師でありモフである

 ミオがシュバラウスになって十日が経った。

 日に三度、彼の魔力を視るようになったシェリだったが、この夜も変化はない。さすがのシェリも胸がざわついて不安になってきていた。ミオのつくった薬でさえ十日と言っていたのに。

「どうしよう、このままずっとシュバちゃんのままだったら……」

 彼女はとうに獣をミオ師と呼ぶことをやめていた。

 はじめは師である彼がよく懐くペットになったことを面白がっていられたが、獣は獣だ。シュバちゃんと名付けた。


 ミオの請け負っている依頼を問い合わせてみると、日に一件のペースでこなさねば解消できないほど大量で、彼女は仲介屋からはかなり嫌な態度を取られた。しかも「いつ回復するか分からない病で」と答えると疑わしく思ったか、家まで訪ねてくる者もいた。もちろん全力で居留守を使った。

 あっさり伝書で済みそうな相手とは全件キャンセルで話がついたが、報酬として支払われるべきだった額を知るとシェリの血の気は引いた。

 ミオの魔力署名がなければ信じないと食い下がる取引先にも「とにかく無理なんです!」と言い逃げするしかなかった。

 さらには王宮からも登宮するよう矢のような催促で、そちらは丁重な伝書を返し続けている。

 



「シュバちゃんはたくさん食べてね」

 ミオが普段から食材の宅配を頼んでいたおかげで、二人は引きこもっても食いっぱぐれずに済んでいた。しかしシェリは日に日に、自分のための食事を用意するのが億劫になっていく。

「わふぅーん」

「うん、わたしも食べてるよ……」

 昨日茹でた芋をつっつき、やはりフォークを置いた。

 冷え切ったダイニングはさびしく、彼女はぼんやりとしてしまう。

「ミオ師のご飯、美味しかったなぁ」

 『共に暮らすのなら、朝ごはんくらい一緒に食べなさい』居候が始まった日の夜、ミオは渋顔でシェリに言った。いい歳の男性が『朝ごはん』と言ったことにちょっと可笑しく思ったことを思い出し、シェリはダイニングの空席を見つめた。

 

 居候の前、魔術学校にいた頃の彼女は寮住まいで、いつも同室の子に叱られていた。だらしないとか気が合わないと言われては、毎年部屋が変わる。

 『別に気にしなければいいのに、わたしは気にならないのに』と思っていても、疎ましそうな顔をされては言えないまま。彼女が素直に友といえるのは長いことチャムだけだった。


 公認魔術師と認められ試験勉強のために自宅に帰れば、それはそれで肩身が狭かった。彼女の父は娘が魔術師として働くことを良しとしてはいないからだ。

「ミオ師って顔の割に優しかったんだな」

 前髪でよく見えない顔はいつも怒ったような無表情。髭も剃ったり剃らなかったりで出不精。魔術のことにはとかく口うるさい。

 しかし本当は、多少のことでは怒らない。実験で失敗しても、交代制の食事があまり美味しくなくても。突然押しかけて弟子にしてほしいと頭を下げてもため息ひとつで許された。

 意外に暮らしやすい相手だったのかもと、彼女から力ない苦笑がもれた。


 すると「わふん」とシュバが彼女の膝に顎を乗せた。心配そうに見上げてくる、その瞳は賢く優しい。十日も一緒なのだ、彼女はすでにシュバが可愛くて仕方ないと思えるようになっていた。

 しかし同時に、早くミオに戻ってほしいとも願う。

 謝りたい、すぐ。

「……ごめんシュバちゃん」

 試験の次第に関わらず、師弟関係は長くてひと月ない。そう気づけば、この家にお世話になるのもあと少し。

 それなのに打つ手がないまま、時間ばかりが過ぎていく。薬学の実験も変幻の練習もできない。集中できなかった、『失敗』がこわくて手につかなくなっていた。


 次第にシェリは、シュバと添い寝するようになった。獣の少し早い鼓動に耳を澄ませていると少し安心するのだ。掛布に包まり、シュバに身を寄せて寝入るのが習慣になった。



 *



 ぺろりと頬を舐められるのを感じては夢から浮上し、また沈む。夢はさまざまだが、最後は必ず彼女の母が儚くなった日の記憶だった。

「お母さま、お母さま」

 幼いシェリは何度も呼ぶ。窓から明るい陽光の差しこむ真昼——清潔で真っ白なシーツと母のやつれた色が彼女の目を灼く。

 お薬が買えれば、お母さまの病気を治すお薬があれば! ねぇそうでしょお父さま!

 母を愛した父は泣き「そうだ」と言う。そして母は冷たい墓石に変わる。

 だから彼女は来る日も来る日も草をすり潰すのだ。

 すり潰して乾燥させて魔力を混ぜて。そうして気づけば七色どころでない色とりどりの試験管に囲まれ、囲まれ——そのうち真っ黒でドロドロの薬が出来上がって——唐突に杖が光る、ミオ師の体が……!

「ダメえぇぇぇ——!」


 ハッと目覚めると、自分の手が見えた。ぐらり。呼吸が苦しい、目眩がしてぎゅっと目をつむると目尻がひどく濡れていた。ぺろ、と涙が拭われ、体が抱きこまれた。

 シェリは温かさに、またぽろりと泣いた。

「シュバちゃん……ミオ、し」

 背中がさすられ、彼女はまた眠りに落ちた。




 ——とんとん、とん。

 誰かが肩を叩く感覚でシェリは目を覚ました。目蓋が重くて目やにが痛い。

 あぁ泣いちゃったんだ、と目を雑に擦る。するとベッドが軋む音がした、シュバの気配ではない。

「チャム……?」

 すり、と大きな手から耳ごと撫でられた。チャムの手って、こんなに大きかったっけ。目やにを払ってようやく目を開けると、

「え?」

 ガラス玉のような青い目がシェリを覗きこんでいた。大きな男だった。鼻同士がつん、とぶつかった。

「ぎゃ、あああァァァ!」

 シェリは滅茶苦茶に暴れた。拳が相手に当たり、体に巻きついたシーツがぐちゃぐちゃになる。しかし相手は彼女の両手を抱きこむと、ぺろりと頬を舐めた。

「いぃやあぁぁァァ!」

「わうう!」

 男が応えて鳴いた。シェリも負けじと声を上げかけ、はたと飲みこんだ。いまの声は? 恐る恐る背けていた顔を男へと向けた。


 ベッドに仰向けになった彼女の目前に迫る青い瞳は黒いまつ毛に縁どられ、長い同じ色の髪が彼女を囲うように垂れている。彼は薄く微笑んでいた。

「み、みお、し?」

 なぜか組み敷かせているが、間違いなくミオ師だ。シェリは喜びで目頭が熱くなりかけた。しかし、

「うぅ、わう!」

 その大きめの唇から発せられた声は確かに彼のものであるのに、中身は——。


 あぁ。シェリは瞑目した。

「まじか……」

 ミオの形をしたシュバはすり、と大人しくなった彼女の頬にその横面を寄せた。獣の仕草のまま。嬉しそうに「わふん」と鳴いた。もちろん裸で。



 *



「待って、まって……待て!」

「わふっ」

 命令と同時、国内屈指の魔術師が床に跪き、十五歳年下の弟子の太腿に顎を乗せた。

「それは待てじゃないのよ」

 項垂れたシェリだったが、ミオ師の姿形をしたシュバはきょとんと彼女の膝で上目遣いをキメる。

「ぐ、」

 一瞬息が詰まったが、「これの中身はシュバちゃん、顔を舐めるよりはマシむやみに抱きつかれるよりマシ」と唱え、シェリは「よーしよし」と棒読みでその長い黒髪に手を滑らせた。彼女はとにかく、『待て』を躾ないと身が持たない状況に陥っていた。


 ベッド上で『見た目はミオ師、中身はシュバ』とわかった瞬間は気を失いそうになったが、すぐにそれどころではなくなった。

 腕も脚も長くなったことが嬉しいらしく、ベッドの周りを歩き回るのはいいとしても安易なスキンシップは非常にまずい。なんとかして最小限の服を着せはしたが、ミオが頓着せずに密着してくるので彼女は何度も叫ばなければならなかった。

 中身が獣と思って割り切ろうと思っても、何度も組み敷かれた格好になっては『待て』だの『お手』だのと余裕なくわめくしかない。


 そして獣の姿のうちに少しは躾けておいて正解だったと思いはすれど——撫でグセをつけてしまったことは後悔していた。

 魔術師の髪には血中と同様に魔力が流れている。それに触れるなど、他人には決してさせない行い。

 しかしいま男は、彼女に頭を撫でられ冗談じゃないくらいに嬉しそうに頬を緩ませている。

「おふぅ、いいのかなこれ……」

「わふんっ」

「よーし、よし」


 だからシェリがまずしたのは玄関に鍵をかけることだった。絶対に見られてはいけないと、カーテンも閉め切ったので家の中は昼間といえど薄暗い。

 それがかえって怪しさを助長しているのだが、彼女はそれどころではない。ひとりで考えをまとめるためぶつぶつ呟いた。


「少し青の魔力が戻ってきてる?……ってことはもうちょっとで術が解けるのかも? でも形質機能も人間そのものに見えるのになんで『中身』だけ戻ってないんだろ、変幻させる粒子の場所がわかんないのに手出しできない! うううぅぅぅこのままは色々まずいよ、むしろシュバちゃんのままの方がまだ世間的に良かったのに……どうしよう。わ、わかったよ撫でるからぐりぐりしちゃだめ!」


 中身のシュバに悪気はなくとも、体は人間同士。なにか間違いがあっては、とさすがのシェリも戦々恐々とせずにはいられない。男女の交流経験はなくとも機能くらいは把握しているのだ。

「見た目はミオ師だけど、別人みたいで……落ち着かないよう」

 普段のミオが二面相とすれば、いまの彼は百面相だ。

 言葉は発せずとも、なんと嬉そうに微笑んだり拗ねたりする。四十のいい男がまるで少年のような素直な表情で擦り寄ってくるのだ。しかも撫でないとシェリの顔を舐めてくる。

 なんかむずむず、する……。

 シェリは視線を逸らしつつ、撫でた。どうやってこの撫で地獄を切りあげようかと。


 すると男の鼻先が彼女の手のひらをつん、と突いた。顎下も撫でろ、という慣れた合図に思わず両手で頬を支えてしまい「うわっ」と声が出た。もちろん、もふもふできる毛はなく、じょりっとした人肌の感触に驚いたからだった。

 男も感覚が異なると感じたようで、どこか不満そうに伸びあがった。床に膝立ちになり、彼女の胸元のあたりまで顔を近づける。

「ちょ、ま」

 抱きしめろ。

 不満げながら、見上げる青い目がシェリに期待する。

「あ……う、」

 繰り返すが彼女に実地の深い恋愛経験はなく、このように男性から見つめられたことなどない、例え中身が伝書獣であっても。

 昨日までの彼女なら「シュバちゃん」と抱きついただろうが、彼女は徐々に顔を赤らめ距離を取るため彼の肩に触れた。だが相手も負けじと首を伸ばした。

 首筋に、男の息が掠めた。


「うぁ、……ご、ごはん! ごはんにするよ‼︎」

「わふっ」

 サッと彼の顎がハウスに戻った。シェリは両手で顔を覆い、「もうやだ」と呟いた。裾を引っ張る男に負けてとりあえずキッチンへと向かった。

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