モフと暮らせば
「お手!」さっ。「おかわり!」たっ。
見事な速さで、獣がシェリの手に手を乗せる。
「じょうず〜! よーしよし!」
首周りをごしごしされれば喉を鳴らす。
「え……なにしてんの……しかも、そのデカいシュバラウス……どこから、拾ってきたの……」
今し方、バッターンとドアを蹴破って「シェリ無事⁉︎」と怒鳴りこんだチャムは、息が切れたのと気が抜け、ずるずるとその場に座りこんだ。
「あ、遅かったじゃんチャム! 伝書したのに、待ってたよぉー」
パッとひとりと一頭が彼に顔を向けた。
「いや遅かったのは、そうだけど……どういうこと?」
シェリと王宮の食堂で朝ごはんを食べたあとは自宅で爆睡、翌日は朝から出勤だったチャムが便りの類を確認したのは今朝——つまりミオが所謂シュバラウスという名の獣に姿を変えて三日目のことだった。
『やばいよ! 助けてチャム!』
走り書きの伝書はどうでもいいチラシの中に紛れており、それがシェリの魔力署名と分かった瞬間、彼は青ざめた。
そうして本当はやってはいけない魔術による脚力増強をしてまで早朝の街を駆けてきたのだが——。
「よーしよし、もふもふかわいいねぇ!」
嬉しげにシェリの膝に顎を乗せる大型獣は、完全にペットで危害があるようには見えない。チャムは額の汗を拭い、ため息と共に立ち上がった。
彼は学生時代からこれまで彼女の起こす色々な騒動に巻きこまれてきたが、彼女から助けを求めてきたことはあまりなかった。
珍しく伝書を使ってまで知らせてきたのだ、世紀の一大事と思ったが「取り越し苦労だったみたいだね、よかった」と腕組みをした。もちろん顔は笑ってない。
「それで? そのシュバラウスはどうしたの? 王宮が保護する特定魔獣のはずだけど、ミオ師が預かることになったとか?……あ、ってかミオ師に挨拶しなきゃ。どこ?」
「ここだよ」
「え? 隣の部屋ってこと?」
しかし人の気配は感じられない。ミオ師ほどの人物になると本人が抑えない限りぼんやりと魔力が立ち昇ってしまう、チャムは首を巡らしたが近くの部屋にもいないようだと彼女に顔を戻した。
「だからここだって! ほらミオ師、チャムにも挨拶だよ」
「ぐぅ」
「えーなんでさっきは上手にしてたじゃん。おやつあげたらできるかな?」
いま、なんと言った? チャムは己の耳と目を疑った。
艶やかな漆黒の毛並みはシュバラウスそのものだが、先に行くほど青に染まっていくグラデーション。獣には珍しい青い瞳。そしてかすかな、本当にかすかな見知った魔力の残滓。
「嘘だろ、それ……まさか」
「うん、ミオ師だよ。元に戻らなくて困ってるんだよ、ねー!」
「ねー!」でシュバラウス改めミオ師の首に抱きつくシェリに、チャムは完全に引きつった。
一大事どころの騒ぎではなかったからだ。
——遡ること二日。
一応シェリは何度か術を解除しようと努力した。しかし偶然に構築した魔術ほど解術が難しいのは魔術師界の常識、彼女は早々と諦めた。
「ミオ師、本当にすみません。わたし、しっかりお世話します! ペットは飼ったことないけど頑張ってみますから!」
方向違いの宣言に、ミオはがうっとシェリのローブを咥えて引っ張った。異議があったのだろう。
「わっ! いてて……なにするんですか!」
思わぬ力の強さに、彼女は呆気なく尻もちをついた。声を立て振り返ると、ミオはどこか驚いたような表情ではらりとローブの端を離した。四つ足で立つミオと尻もちをつくシェリの目線はほとんど同じで、ごく近くにある獣の鼻面に彼女もギョッとする。
しばし見つめ合い、先に距離を取ったのはミオだった。
彼は長い尻尾を振りながら部屋を出ていくそぶりをした。そしてドアのそばで『ドアを開けろ』とばかりに彼女を振り返った。確かに丸いノブは獣の手では無理だ。
シェリが慌ててドアを開けると、ミオは自室へと向かった。そしてまた彼女にドアを開けるよう見上げ、開いた瞬間にするりと中へ入った。
「お、じゃまし、まーす……」
シェリは初めて入ったミオの部屋をきょろきょろと見回した。味気ない使いこまれた机と椅子、壁の隅に本棚、そしてベッドだけ。カーテンも暗い色で、部屋はまるで朝方のような薄暗さだった。これなら実験室の方が生活感がある。
唯一目を引くのは、壁に飾られた家族の姿絵と若い女性の肖像画。どちらも手鏡ほどの大きさで、雰囲気を変えるほどには至っていないが。
まさか、ミオ師の恋人? ってか絵姿を飾るタイプだったとは!
シェリは女性の絵をまじまじと見、どこかで見たようなと首を傾げた。
ミオはそんな彼女を気にするでもなく、さっさとベッドに乗り上がり踏み踏みし、好きなだけぐるぐる回ったあと、ようやく体を丸めるように伏せた。すぐに静かな寝息が響き始める。
「ミオ師……そっか、そりゃ調子悪いよね」
彼女はぐぐっと魔力を込めて彼を視た——普段彼を包む青みがかった魔力と別の橙色の魔力が揺らぎ合いながら比率を変えている。別の魔力とはシェリのものだ。少しずつ青に橙が勝っていく。
「私が伝書獣に気を取られたから……そのイメージで粒子が構築されちゃったのかな……」
さすがのシェリも罪悪感を覚え、そっとミオの眠るベッドに近づいた。ふっと香ったミオの匂いに獣のものが混ざった。
「これ、いつ戻るんだろ。うぅ分かんないや、こんなに成功したの初めてだし」
厳密に言えば失敗なのだが、術だけ見れば大成功ではある。
問題は術の効力だ。さすがに年単位ということはないだろうが、魔術師として名誉ある職に就く師の仕事に影響してはまずい。それに体に変に影響したらどうしようと、シェリはひとり青ざめた。
そこで彼女は、午前中に会ったばかりの友人に伝書を送ったのだ。うまくいけば夜には来てくれるはずと。
彼女はベッドサイドで眠り続けるミオを見守り続けた。魔力が完全に橙に塗り変わり、人の言葉を話さない獣が目覚めるまで。
——シェリが淹れた飲み慣れないお茶を飲み下し、チャムは唸った。経緯を知れば知るほど突拍子のない展開で、彼は床に寝転がって暴れたい気分になっていく。
「……それでミオ師は完全にシェリの術で形質を書き換えられた状態ってこと? しかも君のつくった無認可の新薬を飲んでるから、さらに術の効力が伸びてる可能性がある……?」
「うん。たぶんね。視ても、もう師の魔力ほとんどないよね」
「ないよねって……なんでそんなに呑気なの。ってか無認可の新薬はこわすぎる」
チャムはシェリが規格外のノーコン魔術師であることをよく知っているので、常識の範疇からはみ出たことをするのにはもはや驚かない。
ただし泥人形がスライムになるのはともく、人間が獣になってしまうのはまずい。彼は頭を抱えた。
しかも目の前の獣はうまそうに燻製肉にかぶりつき、この三日、しっかり排泄もしているらしい。生物としての構造も正常に機能していることも、チャムとしては信じ難かった。
「わたしだって最初は本当にやばいと思ったよ! でも考えたって仕方ないなって。一応、元気そうだし術が解けるのを待つしかないよ」
シェリとしても努力はしたが、術に薬の効果が重なっているため何度試しても解術できなかったのだ。
「うぅ頭が痛い。そういうことじゃないんだよ。……君って本当に困った子だよね」
「なんかの台詞、ミオ師っぽいよ」
「……師のご苦労をお察しする。僕ならこんな弟子いやだ」
とにかく、とチャムは「これからのことだよ」と仕切り直した。
ひとつ、ミオ師は重い病気にかかったということにする。
ひとつ、ミオ師に来ている依頼は先延ばしにするよう、シェリが頑張って謝る。
ひとつ、ミオ師を誰かに見られてはいけない。家から絶対に出さない。
「こんなに大きいんだから、家の中じゃ可哀想じゃない?」
「君、伝書獣のこと忘れたの?」
シュバラウスという獣が王宮の特定保護対象となっているのは、その賢さと人間との魔力相性の良さからだ。王の直轄地で保護飼育されており、いまは野良のシュバラウスなど存在しない。もし街中で見つかった場合、問答無用で王宮に連れて行かれる運命だ。
そして、もし王宮や伝書獣としての勤めの間に術が切れ、ミオ師に戻ってしまえば——。
「そうだよね裸ん坊だ! 変質者で捕まっちゃう……!」
「いやそこじゃない」
びしっと間髪入れずのツッコミにシェリは口を尖らせた。すると肉を食べ終わったミオが彼女の手の甲を甘えて舐めたので、「よしよし」と彼女は彼のたてがみをあやしてやった。完全にペットである。
じと目でその様子を見守るチャムはひどく面倒臭くなり、必要最小限だけ口にした。
「あのさシェリ。このことがバレたら、君もミオ師も確実に王宮に閉じこめられるよ。試験なんて一生受けさせてもらえないかもね」
彼は二年になる王宮勤めで、政治や魔術師の影の世界にも足を突っこみ始めていた。魔術師は実入のいい仕事ではあるが、迂闊な者はいつの間にかいなくなるのが日常である。
人をシュバラウスにする魔術など構築したと知られた日にはボロボロになるまで搾取され、金にならないと分かればポイ。建前は禁忌魔術の行使、そして国外追放。
才能はあるが世間を知らないシェリなど、囲われた先はどこぞの愛人か魔術の使える都合のいい捨て駒がいいところだろうと。
そこまで考え、チャムは可憐な眉をきつくしかめた。
「君もミオ師も、とにかく大人しくしていないとダメだよ。師が元に戻るまで夜に紛れて田舎に逃げてもいいかも」
ぽかんと口を開けて聞いていたシェリは、ようやく事の重大さを理解し始めたように見えた。
「でもわたし、今年こそ試験に受からないと……変幻術も本当に練習したいし」
「あぁ、結婚させられるってやつ?」
チャムはソファの背もたれに少々荒くもたれ、脚を組んだ。
「シェリの場合、誰かに紹介してもらわない限り結婚なんて無理そうだから、むしろ僕は賛成だけど」
片眉を上げ、面倒くさそうな態度を隠しもせず彼は言った。
彼もまだ独身で、愛想の良い人形のような顔つきのため変に言い寄られることが多いので、恋人はつくらない主義だと公言して憚らない。
「話が来るだけいいんじゃないの」
「だって知らない人の家で暮らすとか、苦手な家事とかしろって言われてもできないものはできないし。なにより薬の研究ができなくなるのはヤダな」
「まぁね」
俯いたまま口を尖らせるシェリの顔がまるで本当の子どものようで、チャムはくすりと笑ってしまった。いつまでも学生のときのまま、好きなものを追いかける彼女はいつも好ましい。
「とにかく、この状況を知られたら研究どころじゃないってこと、忘れないで。あ、それから僕さ、明後日から半月くらい遠征研修の予定だから」
「え! 王都にいないってこと?」
「うん。なにかあったら速達の伝書で知らせて。できるだけ返事は書くけど、移動中は難しいかな」
チャムは立ち上がった。
「お茶、美味しくなかったけどご馳走さま」
「チャムぅ……もう行っちゃうの」
頼りになる友人と半月も会えない。
それに師は自我を失ったままで一頭にはできない。ということはシェリも外出せず術が解けるのを待つしかない。自他ともに認める引きこもりとはいえ、話し相手もいないとは。
シェリは突然心細くなった。
「自業自得なんだから頑張りなよ。ケンカしないで仲良くね。シュバラウスは本気出すとこわいから、怒らせないように」
チャムは疲れた顔であっさり出ていった。
シェリは彼を見送り、友のいなくなったリビングで「外出禁止だって」と呟いた。すっかり彼女に懐いた獣は低く返事をし、鼻面を「撫でろ」と手に押しつけた。
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