二つの薬
「変幻の基本理論は粒子の配列を魔力によって変えることだから
ぶつぶつ。
チャムからの助言でシェリは家に帰るとすぐさま実験室にこもった。
結局はどんなズルをしても術は完成させなければいけない。
ただし、薬で魔術効果を持続させることは理論的には可能だと、彼女は希望に胸を高鳴らせた。
試験要項の変幻魔術に関する項目はこうであった。
一、
二、魔術師自身または試験会場に存在する物質を変幻後、五
三、魔術師自身または試験会場に存在する物質を変幻後、並行して魔術の行使をするものとする。なお、魔術規模の大小、属性は問わない。ただし加点評価の対象とする可能性はある。
四、魔術師自身または試験会場に存在する物質を変幻後、その運動機能等を明らかにした場合、加点評価する可能性がある。
二と三、四も薬で解決する気になったところで、結局シェリにとっての課題は『何を何に変幻するか』ということだった。
シェリのこれまでの試験中の実績といえば、路傍の石を爆発させ、水たまりを底知れぬ穴へと変えただけ。穴のときは並行して魔術を発動させようとしたものの、
危険すぎるとミオに指摘され、一年前からは泥人形をなんとかしようと努力してきたが——。
「こうなったら、自分を変幻させるしかない……うぅ、でもいやだぁ」
シェリはこれまで、あまりのノーコンぶりに自分に術をかけることを極力避けてきた。自業自得とはいえ間違っても爆散したくはなかったからだ。
「でも、背に腹は変えられないよね」
事実、変幻の術は身から発する魔力をその身に作用させるため、ミオ師もチャムも『泥人形よりは自分を変幻したほうが楽』と話す。
「よぉし、腹くくる! でもまず薬を作る!」
チャムの言う通りシェリは薬学は得意だと自覚しており、新薬作成は大好きな作業。すぐに取りかかった。
そうしてたった三
*
漂う妙な匂いに、ミオは実験の手を止めた。
「なんの薬だ? まさかミダクダ草を使ったのか」
ミダクダ草は煮出すと強烈な匂いを放つ、防虫剤にも用いられる薬草だ。
自分の研究に妙な成分が混ざっては、と彼は窓を閉め、ふと昨夜のことを思い出した。
あのとき、スライムの術を解いた瞬間、彼女が変幻の練習をしていたと分かってミオは頭を抱えたくなった。まったく自分の力を分かっていないからだった。
シェリは変幻術が苦手なわけではない、むしろセンスだけなら国一番。ミオはそう確信していた。
彼は大きくため息をついた。
「厄介な弟子だ……」
泥人形がスライムに変わったこと自体がその証拠だった。
変幻は本来、魔力によって粒子にアプローチし、泥人形ならば泥のまま形を変えるだけの術。表層の粒子だけに作用する。しかしシェリの術は粒子の形質——形ばかりか性質までも『変化』させる。
これは国内でも一部の魔術師しか到達していない領域。
実際、彼女を弟子にしてから二度の試験結果を確認したところ、やはり試験官は術には高得点をつけていた、単に持続しないことが要項を満たしていないだけなのだ。
再三、理論書を読むよう話しても頭に入っていないところを見ると、学生時代もろくに講義など聞いていなかったとみえる。得意の勘と見様見真似でやっていることも末恐ろしい。もし彼女が魔力の細やかな調整を会得し、試験中に完璧な『変異』の術を披露すれば、確実に王宮から勧誘がくるだろう。
——そこまで考えてミオは口を引き結んだ。彼はそうなることを望んでいない。
「どうしたものか」
あとひと月、とミオは呟いた。
そして少しの間厳しい表情で佇み、
「理論の咀嚼が無理なら……やはり体に覚えさせるしかないか」
と、薬棚から試験官をひとつ持ち上げてシェリの実験室へと向かった。
ミオが部屋に入ったとき、シェリはちょうど、左手に試験官を握りしめ右手には滅多に使わない杖を持っていた。ごくりと唾を飲みこみ、「よ、よぉし」と何度目かの気合いを入れていた。
「なにをしている」
「はッ! み、ミオ師……いえなんでも!」
明らかに怪しい態度にミオはいつもの視線を投げた。この弟子はいつまで経ってもなにをおいても誤魔化そうとする悪癖があると、彼は思う。
「この強い匂いはその薬だろう。効果はなんだ」
あーこれはそのー。橙色の瞳がうろつき、ミオはつかつかと彼女に近づいた。
渡さないとばかりに試験管をかばう様子に、彼は目をすがめた。恐ろしいほど真っ黒な粘度の高そうな代物に対して。
「新しい依頼はなかったはずだが」
ミオとシェリは自分たちの研究費捻出のため、いくつかの商会や民間研究所からの依頼を請け負っている。主に新薬の発明や成分改善。前者がシェリで後者をミオが担当していた。
チャムが噂で聞いた通り、ミオは王宮勤の給料とあわせてかなり儲かっていた。高い素材は買い放題でますます自分の研究は捗る。シェリにも二つ返事で素材を用意できる。
「これは自分用なのでお構いなく!」
「構いはしないが……治験はしたんだろうな」
うぐ、と口ごもった弟子を見下ろし、ミオは青筋を立てた。
「この前の薬は効果は抜群だったが、治験者は五日も眠れなくなったと教えなかったか? 自分で飲むつもりなら、舐めるくらいはしたんだろうな」
シェリは地雷を踏んだと後ずさったが、壁は意外とすぐそこで、体の大きな師に追い詰められた形になった。
「ひえぇ」と隅にしゃがみこんだ。
「えぇぇと、ミダクダ草とヒュン茸が主成分で毒は入れてませんから、その」
「君の魔力でよく分からない変容があるかもしれないだろう、いいからこっちに寄こすんだ」
ぴ、と指を振ったミオによって、シェリは手の自由を奪われた。
「あっミオ師、ダメなのに! 訴えたら負けますよ!」
魔術師は魔術を以て他人を拘束してはならない。
「無許可の爆発薬だと思ったと言えば誰でも納得するはずだ。実際、何度か爆発してるだろう」
ぐぬぬとシェリが唸る間に、ミオは丁寧に彼女の指をガラスから剥がし、件の薬を陽に透かして観察した。そしてひと雫分だけ魔術で手の甲にとり、ぺろりと舐めた。途端、ひどい苦味に顔をしかめる。
「君、この量を飲むのはいくらなんでも無理だ。薄めて蜜でも入れないと……ふむ……自覚症状はないが、かすかに魔力に影響しているな。即効性があるようだ」
シェリはげんなりしつつ、いまや楽しげな師を見上げた。
結局、弟子を危険にさらしたくなかったというよりは、新しい薬に興味があったのだろうと思ったのだ。
「ね、ちょっと苦いだけで大丈夫でしょう? 早く返してくださいよ。ってか、なんですかそれ」
新しい依頼ですか。シェリは立ち上がって手を伸ばしかけ、彼の持っている別の試験管に気づいた。まるで師の目を映したような青い液体が入っていた。
ミオも「そうだった」と肯き、シェリにそれを渡した。昼過ぎの陽光に透けてなんと爽やかに見え、彼女は「すごくきれい」と受けとった。
「服用すると、約十日間ほど強制的に変幻する薬だ」
「え! なんですかそれ! 初めて聞きました」
シャリは師に詰めよった。
「どこで売ってるんですか!」
「治験済みだが、むろん無認可だ。俺が作った」
ミオ師が。シェリはぽかんと口を開け、「あっ」と叫んだ。
「成分を調べさせてください、自分で作って……」
「もし試験で服用したら俺が許さない。いくら謝罪しても永遠に研究職には就けないようにしてやろう」
「み、ミオ師のドボズルギャー!」
ドボズルギャーとは創世の神話に出てくる全身が黒の鱗で覆われた魔物である。師へのひどい悪態にミオは鼻を鳴らした。
「君がそういう態度なら、それは返してもらおう。いいのか? 試験までに一度も正しい変幻を体験できないままだぞ?」
「うぅ……」
シェリは葛藤した。ミオの薬を調べて量産すれば試験などちょちょいのちょいだ。
それにチャムの助言を活かすとすれば、この実験室を爆破しててもこの薬を奪うべき瞬間。
しかし彼女のなけなしの理性は叫んだ、相手は王宮内でも覚えめでたい魔粒子学の第一人者——彼が試験に足を運ぶことはごく自然であり、その上でシェリのズルをひと目で見破ることなど容易だと。
それに事情を知れば彼女を匿う者はいないだろう。
「うぅ撤回します……ミオ師はココモナーヴァさまの再来ですぅ」
ココモナーヴァは創世の天使である。
「分かればいい」ミオは重々しく肯き、持っていた匂いのひどい薬を近くの卓に置いた。そしてぎゅっと栓をすると、窓を開け放った。
シェリはそんなに臭いかなと鼻をこすった。
「さっきも言った通り変幻の効果は十日ほどだ。自身の粒子の状態を体で覚え、発動時に感覚を思い出せれば成功率は上がっていくはず。試験まで君の分の依頼は断ってある、心づもりができたら教えなさい。目の前で変幻したなら、無機物でもスライムでも俺が責任もって生かしてやろう」
「ミオ師……」
シェリは感動した。そこまで考えてくれたなんて、と少し涙ぐんだ。
「ありがとうございます。わたし、ミオ師の弟子でよかったです。頑張ります……!」
弟子の珍しい素直さに、ミオも「そうか」と頬をゆるめた。だがすぐに眉を寄せる。
「ところで君は自分を変幻させたことはあるのか」
「いえ、まだ」
「いい機会だ、いまちょっとやってみなさい。もし破裂してもすぐになんとかしてやる。緊急事態だ、こっそり治癒魔術も使ってやろう。その代わり、その薬を飲んだあとはどんな姿でも手出しするつもりはない」
シェリは一旦試験管をミオに返し、脇にはさんでいた杖をこわごわ握り直した。爆散してもなんとかなるならと。
「変幻に詠唱はいらない。自身の魔力の流れに集中せよ」
彼女はぎゅっと目をつむった。
腹の奥からゆらりと湧く魔力を意識し、血中の魔力の流れを視、自分の表面から蒸発するように放つ魔力を捕まえた。皮膚をぴたりと覆うようなイメージで変える、組み代える、入れ替える——。
シェリの表面がほのかに光り、確かに魔力が影響し始めたことをミオが視認したときだった。唐突に開け放った窓から伝書獣が飛びこんできた。
鋭い爪が木の床を捉えた音、控えめではあれども獣がひとつ鳴いた声が実験室に響いた。すると気が散りやすいシェリはハッと集中を切らし、突然視界に入った黒くて大きな獣に驚いて「わっ」と体のバランスを崩した。
「シェリ!」
倒れかけた彼女を伸びたミオの腕が支えたとき、トンと彼の胸に杖の先が当たった。
「げッ」
思わずシェリはぎゅっと杖を強く握った。それは放出先への調整を欠いた行為となり——ほのかだった光は目を開けていられないほど強くなって、杖へと移りその先端から放たれた。迷うことなく杖の先のミオへと。
「……ミオ、師?」
まだ目の奥がちかちかとするまま、シェリはそっと目を開けた。
なにかをやらかしてしまったのは理解していた。自分に向けた魔術をミオに放ったのだ、どんなお説教をされるかと。
「あれ?」
ミオがいない。いるのは先ほど入ってきた伝書獣だけ。
「うっかり……転移させちゃったのかな」
でもどこに、と首を傾げたとき、おかしなことに気づいた。
伝書獣が二頭もいる。どちらも黒で王宮からの遣いと知らせていたが、彼女のそばにいる片方は文書を留める首輪をしていない。
「あなたはお遣いよね?」
とりあえず遣いの方から文書を受けとり、シェリは窓から素早く出ていった一頭をぼんやりと見送った。
一体、どこに転移させちゃったんだろ。結構遠くにいるかもな。でもミオ師なら自力で帰って来れるよね。
持ち前の軽率さを発揮し、シェリは「なんとかなるよね」とひとり納得する。
「あーでも薬はミオ師が持ってっちゃったのかぁ。よし、そうと分かれば帰ってくるまで変幻の準備しよう!」
ぐっと気合を入れて振り返った。
「……あなた、まだいたの?」
首輪をしていない伝書獣が、静かに彼女を見つめていた。その瞳はどこかで見たような青。それに先の一頭とは色が微妙にちがっている。
「あなた、きれいね」
シェリの腰ほどまである大きな体はしなやかで、美しい。ぴんと立った耳の先や背骨を沿うたてがみ、長い尾の先にいくほど、毛色は漆黒から青へと変わっているのも高貴さがあった。
「なにか用なの?」
彼女が撫でようと手を伸ばすと、タッと後ろへ飛びすさって逃げた。そして足元の布を強そうな脚でタンタンと踏む。これを見ろとばかりに。
「あれ、これって実験用のロー……」
シェリは布を持ち上げ、はたと動きを止めた。広げてみれば、見覚えのあるどころではなかった。それはミオのローブとシャツ、ズボン、そして男物の
見てはいけないものを見てしまい、彼女はバサリと手を離した。そして理解した。
ミオは転移したのではない。
「まさか……ミオ、師?」
青い瞳の黒い獣は、まるで人のようにフンと鼻を鳴らした。
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