師《オジ》をモフにしてしまいました。
micco
シェリとミオ師
シェリは魔粒子学がめっぽう苦手だ。
「ああァァァもういや! 全然できなぁい!」
先ほどまで泥人形だった物体が、見るも毒々しいピンク色のスライムになってしまった。
「かわいいラビリスにするつもりだったのに」
彼女はとにかく感覚派で、理論より実践、魔道具も手引書より触ってなんとかする方が上手くいくタイプ。と、本人もよそ見せずに生きてきた。
いや彼女なりに改善したい気持ちはあるのだが、ここ一番で『つい』癖を出してしまうので失敗を引き起こしてしまう。ちなみにラビリスは耳がつんと長くて可愛い生き物である。
「さっきピッてきた瞬間にギッって圧力かけたのがよくなかったのかなぁ……」
シェリはいつもこの調子だ。
「変幻術なんてもう嫌いだ……」
この世のすべての造形物は人も含めて粒子でできており、ある一定量の魔力を持つ者はその粒子の結びつきに介入し、形を変化させることができる。
公認魔術師であるシェリもその魔力量基準は満たしているはずだったが、恐ろしいほど上手くいったためしがなかった。
「ああっ髪食べないで!」
偶然出来上がった手乗りスライムは意外に行動的で、彼女の豊かな橙色の巻毛にぶら下がっては毛先を食んでいる。彼女の魔力でできたからか親和性が高いようで、ほんのひと鈴分ですでに拳ほどの長さを溶かされていた。
「ちょおぉぉ!」
髪には強く魔力が宿る、できれば減らしたくない部位である。シェリがピンクの端を指で摘み、ポイっと投げたときだった。
「なにを騒いでいる」
「げっ! あーミオ師……えぇとげ、げ、げ……」
「げ?」
気配なく背後から登場した師に、思わず失敬な声をあげてしまったシェリだったが、「あぁゲドロビアンか、最近新種が出たと言っていたからな。早速研究とは目のつけどころがいいな」とミオが納得したのをいいことに調子よく肯いた。
「そうなんです、なのにスライムになっちゃって」
へらりと笑うシェリはゲドロビアンってなんだっけ、と思いつつ指に癖毛を巻きつけた。
するとそれを見たミオは、足元でうごうごするスライムに無言で手をかざした。途端ピンクのドロドロは動かぬ泥人形に戻る。
さっき食まれた彼女の一房がぴょいと人形の頭から飛び出て、まるで毛が生えたようだ。
「あー! わたしの髪……もったいない」
ミオは「ハァ」と深いため息をつくと、シェリを青の瞳でじとりと見下ろした。
あ、これ面倒な感じになるやつ。
シャリはへらりと笑って、彼から後ずさった。
今は夕食後の就寝前。水を浴びてきたかミオの背まで届く長い黒髪はしっとりと濡れ、普段なら毛先になるほど明るい青になるグラデーションも、いまは暗い色調だ。とはいえ彼は夜着ではなく明らかにひと実験、いや朝まで謎の液体か固体で遊ぶつもりの服装。ふた晩ほど睡眠不足のため、顔はかなりくたびれている。
「俺が貸した魔粒子論は読んだのか」
やばい話題きた!
もちろん読んでいたが、彼女は実践となるとイマイチ応用できない。
「あー、あ! わたし明日は朝から王宮でしたー! じゃあ、わたしもお湯浴びてきますっ」
「王宮? なにか行事が?」
「わーこんな時間、ミオ師おやすみなさー」
シェリはバッサァと実験ローブを脱いで壁に掛けると、ほとんど走って部屋を出た。なぜなら夜分、休むために一度私室に入ってしまえばミオは朝まで姿を現さない。逃げるが勝ちなのだ。
というのも、ふたりは師弟といえど独身同士。
ともすれば十代に間違われるシェリだが、背が低く鼻が低いだけで立派な二十五歳。ミオは四十、立派な独身だ。
基本は鈍くて世俗のことに疎いミオも男女のそのへんのことは分かっているようで、シェリがここに下宿を始めた一年前からの暗黙の了解だ。
わざと大きな音を立ててシェリはドアをしっかり閉めた。聞き耳を立て、ミオ師の足音が遠ざかるのを確認する。
「危なかったぁ……う、でも明日出かけないといけなくなっちゃった……」
つい嘘をついてしまった。
明日は王宮に用事などないどころか、彼女は在宅希望の引きこもり派で極力この家から出る気はない。
「ハァ。試験まで、もうひと月かぁ」
ミオが心配して本を貸すのも、朝まで練習を手伝おうとするのにも理由がある。
彼は魔粒子術の研究者で、国で最も『
「……今年も落ちたら、どうしよう」
シェリは髪と同じ色の瞳を少しばかり潤ませた。
火も灯していない夜の部屋は静かでベッドのシーツばかりが白く浮きあがって見える。それが目蓋に残り続ける景色に似ていて、彼女はドアに背を預けたままずるずると床に腰を下ろした。
彼女は魔粒子学の実技で点が取れず、もう三年も採用試験に落ち続けている。どうしてもなりたい、薬学研究職に就くのに必要な試験に。
『今年が最後だ』父の険しい声が聞こえた気がしてシェリは膝を抱えた。
受からなければ夢は諦める。
その約束が現実味を帯びて迫っていた。ミオ師からは充分に教えてもらっているのに、と急に不甲斐なさが襲う。鼻をすすった。
「なんでわたし、全然できないんだろ」
その夜、彼女が立ち上がるのにはしばらく時間がかかった。
*
「泥人形がスライムに⁉︎……んんっ。それあんまり外で言わない方がいいよ、シェリ。引くほど変だから」
ずれた眼鏡を鼻に押しつけながら、チャムはシェリに胡乱な眼差しを投げた。しかし肩で切り揃えた茶髪が彼の童顔を際立たせ、まったく嫌味に見えない。むしろ可愛らしい。
「うるさいなぁ失敗なのはわかってるよ。それに頼まれたって、もう二度とできないんだからやめてよ」
行儀悪くボリボリと焼き菓子を齧りつつ、シェリは彼に言い返した。
昨日ミオ師に『王宮に行く』と言った手前、やはり家にはいられず、数少ない友人のひとりである彼をお茶に誘ったのだ。
「シェリはどんぶり勘定すぎるのがねぇ」
チャムは若くして優秀、シェリと同じ年に公認魔術師になったいわゆる『同期』だったが、その翌年には王宮の基幹結界配属になっている。月に二回、王宮に出入りするかどうかのシェリですら彼の評判は耳にするほどだ。同期がエリート街道を直走っているのは彼女にとっても鼻が高いことだった。
『公認魔術師』とは魔術師として国に認められた状態のことで、単に資格を有した者であり、希望の職に就くにはさらに配属先の資格試験に受からなければならない仕組みになっている。シェリはその試験に苦戦しているので、すでに三年無職で親と師のスネを齧っている状態。
チャムとの収入の差は数年で広がるばかりだった。
「いいなぁチャムは……頭もいいし出力も器用で一定だし。わたしも早く稼ぎたぁい!」
「まぁ君に比べたら小器用なのは認めるけど」
彼はカップを傾けながら軽く肩をすくめた。「でもミオ師と共同でそれなりに稼いでるって聞くけど、どうなのさ」深緑色の目が興味深そうに彼女を見た。
「さぁー? 『金のことは心配いらないから、好きに勉強なり研究に励め』って言われてるから……最近は変幻の訓練と朝ご飯以外は会わないし……」
チャムは呆れた様子で焼き菓子を頬張った。シェリもミオも協調性があるタイプではないと知ってはいたが、これほどとは。
彼は瞬時に聞かなかったことにした。
「それで? 少しは変幻、上達したの?……ごめんダメそうだね」
「うわぁぁぁーどうしたらいいのぉぉチャムぅぅ。わたし、このままじゃ落ちちゃうよぉ」
「いくら自信がなくても、縁起でもないことは言わない方がいいよ」
眉を寄せたチャムは彼女をたしなめ、「でも確かにどうにかしないとね」と目を伏せた。
このとき、朝食どきを過ぎて王宮魔術師用の食堂は空いていた。ちょうど何を話しても誰にも聞こえないほど。重ねてチャムは夜勤明け、紅茶で体が温まり、焼き菓子の甘さによって急速な眠気で目蓋に重さを覚えていた。そして極めつけは、目の前にどんなに毒舌を尽くしても無頓着な気の置けない友人。
彼は思わず口を滑らせてしまった。
「そうだな……もし僕が君なら、得意なことで苦手を補うかな」
「え、得意なこと?」
「うーん君って薬学は首席合格だっただろ。例えば効果を持続する薬を服用してから変幻するとか」
「効果を……そ、それ詳しく!」
目を擦りながらチャムは話を続ける。
「いや詳しくないけど、作れないの? 自分で作った薬の服用なら実力で押し切れる気がするなぁ。なんかあったときのためにレポートを用意しちゃうとか。ふふふ、疑う試験官にレポート叩きつけてぐうの音も言わせないの楽しそうだね」
彼は本来、腹黒く周到な性格である。
そして彼の裏黒さをスルーして、本気で感心するのがシェリであった。
「す、すごいっ! さすがチャム!」
「ふふふ……あ、でもこれは誰にも秘密で始めないとね。賭けみたいなものだから」
賭け上等ッ!
シェリは奮然と立ち上がった。いますぐ実験を始めなければならない。
「そうだよね、結果として変幻できればいいんだもん。ちょっとくらいズルくても気にしない! やっぱりチャム天才! ありがとう、わたし頑張る」
「うん、健闘を祈ってる……僕、ちょっと眠いや」
彼女が騒がしく食堂を出ていった直後、彼は座ったままでうたた寝を始めた。
そうして
まいっか帰ろ。
すっきり記憶をなくしたチャムは、ひとつ伸びて食堂を出た。
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