胸の内
「そうか、状況は厳しいな」
一枚一枚、この十五日間で届けられた王宮からの手紙や通知をシェリが広げ、ミオが確認する作業を経て、彼はまずため息をついた。
ミオがソファの上は狭く床でいいと固辞したので、結局はシュバが彼女の足元に付き従うような位置関係。お互いにしっくりきてしまうことにそわそわしつつ、話を始めたのだったが――。
「すみませんミオ師。わたし、依頼のことをなんにもわかってなくて。つくること以外、ミオ師に任せってきりだったって知りました……」
「いや、君はよくやってくれた。この件が明らかになったら俺も君も、今ごろ拘束塔にでも幽閉されていただろう。助言をくれたチャムくんにも礼を言わなければな」
がっくり項垂れたシェリを慰めるようにミオは彼女の顔に鼻先を近づけようとし、寸前でふいと軌道を変えた。「あーその、まずは王宮に知らせをするか」ぴすぴすっと鼻を鳴らし、彼女から離れる。
先ほどからミオは、鼻先がシェリの膝や顔周辺に自然と近づいてしまう現象に悩まされていた。実を言えば昨夜からずっとなのだが頑張って我慢している。
内なるシュバラウスの意識がそうされるのは明白だったが、ミオの意識は四十の独身男、しかもシェリは若い弟子。間違っても不用意に触れていい相手ではない。例え鼻先であっても!
「俺の薬の効果は十日。そこに君の薬の効果でさらに十日というところだろう。とすれば、おそらく俺はあと数日はこの体だ。……昨日よりは魔力の巡りが改善されてきている。手が獣では実験や手紙を書けやしないが、魔力署名くらいならできるだろう。まずはそれで事を収められれば」
「え! 戻れそうな感じがあるんですか!」
「……おそらくと言っただろう。体感でしかないから期待はしないように」
確かに、とシェリも慎重に肯いた。何かの拍子に均衡が崩れればまた中身ごとシュバラウスになってしまう可能性はある。
「はいわたし、絶対余計なことはしません」
拳を握って決意するシェリを横目に、ミオは玄関先に立つ宿木を見上げた。グラーダの置いていった猛禽がきろりと彼を見返す。
「手の空いたときに来てくれ、グラーダ」
言葉の最後、ミオは何事か唱えると獣の口先でふうと息を吐いた。それは魔力署名の一種で、魔術師の純粋な魔力の塊であり、ごく簡単な契約方法のひとつでもある。特殊な紙に封ずれば文字に置き換えることも可能で、緊急性の高い場合に用いられる方法だった。
猛禽は『いいのか?』と確認するように首を傾げ、ミオが肯くのを見るやぐわっと嘴を開けた。そしてミオの魔力を咥えると豊かな白い羽を翻した。刹那、猛禽は霞のように消えた。
「すごい……」
王宮管理の伝書獣でさえ転移はしない。
「眷属のようなものだからな、今ごろ伝言を受け取って高笑いしてるだろう。借りを作ったようなものだ……ハァ仕方ない」
その言い方が実に気の置けない様子とも、辟易しているようにも感じられ、シェリは急に喉の奥が詰まって息苦しくなった。
「へへ、ミオ師は……グラーダ師と随分仲良しなんですね」
誤魔化すために紡いだ言葉はどこか皮肉に響いた。彼女の表情に気づいたミオは、人間であったなら軽く眉を顰めただろう。
「まぁ仲がいいかどうかなら、そう評されることの方が多いな。私生活にも口をつっこんでくる少々扱いづらい相手ではあるが、当然実力に関しては尊敬している。今回の件もグラーダになら王宮の方は任せておいて間違いない」
「そう、ですか」
辛うじて肯定したシェリの目蓋には、あの輝かしい女性の微笑みがちらついた。
「それよりも我々は依頼の方をなんとかせねば。こちらは一度信用を損なったら仕事は回してもらえなくなる。そうだな、君がもし……」
「わたし?」
言い淀んだミオに、シェリは首を傾げた。しかし獣は表情を変えず「いや」と返した。
「君は試験もあるだろう。依頼を優先すると、ゆっくり変幻の練習をする時間はなくなってしまうが」
「あ、それは大丈夫です」
「大丈夫、とは」
弟子お得意の誤魔化しの気配を感じ、ミオは四つ足で彼女に近づいた。
圧に気づいた弟子はソファの上で尻を滑らせ距離をとった。
「えぇーと。……わたしの試験よりまずは依頼をしましょうってことです。ミオ師がシュバラウスになっちゃったのはわたしのせいなんですから。それに……試験までまだ十日以上あるじゃないですかっ! え、なんかいける気がしてきた! よぉし、ちゃっちゃと依頼やっつけましょうよ!」
ミオはしばし奮起したようなシェリを見つめ、尻尾をゆっくりと往復させた。
「……そうか。では早速実験用のローブを。今夜は眠れないと思いなさい」
はぁい! ばたばたと自分の部屋に駆けこんだシェリは、ドアを乱暴に閉め、そのまましゃがみこんだ。膝を抱えてうずくまる。
「大丈夫」
廊下の奥を、獣の足音が遠ざかっていった。まだぐずぐずしていたかったが、ミオの実験室のドアは丸ノブ。彼女はのろのろと立ち上がり、壁にかけたローブを手にとった。久しぶりのそれは、やけに湿って手触りもよそよそしい。
シェリはもう一度「大丈夫」と唱えた。
「意外と結婚もいいものかもしれない」
*
元々請け負っていた依頼は、無認可の新薬の治験と成分分析のみ。
各取引先にミオの署名付きで問い合わせをしたところ、ほとんど進捗していないということで幸いにも再依頼となったものもあったが、問い合わせ自体を拒否する相手もあった。
初めこそ、シェリは「うぅわたしのせいだぁ」と落胆を隠せず、ミオは「いいから手を動かせ……くそ、俺にも乳棒くらい持てれば……」と苛立ちを隠しきれない有様だったが、それも半日過ぎれば落ち着いてきた。
するべき作業が目の前にあることで、余計な思考は抑えられる。ミオは方々への伝書を、シェリは成分分析に集中した。
「よしすべての返答が来たな。再依頼は十三件、急ぎは五件。睡眠を削れば終わらない量ではない……シェリ、君の進捗は」
鼻先に眼鏡を乗せた獣がシェリを振り向いた。どうも文字がぼやけて見づらいと、試しに昔の眼鏡を掛けたところ具合が良かったからだ。
「うへへへ……この薬ヤバいですよ。治癒か毒か判別できないなぁと思ったら酒に混ぜるという条件でうへへ……」
シェリの目はイっていた。
「君、その楽しくなると酔ったみたいになるの、どうにかならないのか」
「うへ、うへへ……ハッッ! なんですかミオ師、なにか言いました?」
「いいや。……休憩をしよう。お茶、いや俺には水を頼めるか」
すでに夜半を過ぎていた。
シェリは瞳に漲らせていた魔力を瞬きで落ち着かせると、ポットを傾けて深皿に水を張った。ミオは「助かる」と言い、シュバラウスらしくそれを飲み干した。
「ふう。味覚が違うのだろうな、人間のときよりも水が美味い」
「へぇ! それは興味深いですねぇ! 魔力の巡りはどうなんです、全身毛むくじゃらだからやっぱり違うんですか」
毛むくじゃら。少しばかり傷ついたような声色で言い、ミオは少しの間黙りこんだ。
シェリはお茶をカップの中で揺らし、答えを待った。彼は自分の機嫌で話を無視するような人物ではないと知っていたからだった。
それと同時、この安心感の上にのみ成り立つ沈黙を——師との間に横たわる幸福を、永遠に封じられればいいのにと静かにお茶をすすった。
「……血液中や体内の巡りの感覚はそこまで差異はない。しかし魔術として放出することは引っかかりがあるな……ふむ、詠唱が解決しそうだが、俺のように言葉を解するシュバラウスでなければ無理だろう。筋力にアプローチする
「ってことはやっぱり動き回る方が向いてるってことですか」
「うむ……さまざま試してみたい……まずは仕事を終わらせなければ」
悔しげに瞑目する獣にシェリは思わず吹き出した。「もしかして」無礼にも師を指さした。
「シュバちゃんの体、研究したくなってる……?」
「当然だろう! いま俺はシュバラウスの構造粒子を体験してるんだぞ! これを研究しないで誰がわふっ、ばう、ばうう……⁉︎」
興奮しすぎてシュバ化したミオを、シェリは腹を抱えて笑った。「なん……わふっ」「いやもう寝る時間なんですよ、ミオ師ぃ」ほらほらと彼女は実験室のドアを開けた。
「シュバちゃんのときも睡眠時間長めでしたから、無理しちゃダメですよ。ここはわたしがやっときますから!」
「しか、くぅーん」
強情な獣もいたものである。「仕方ない、これは最終手段ですよ」シェリは彼の鼻に乗っかった眼鏡を勝手に外すと、腰を少しばかり屈めた。
「ほぉーらシュバちゃん、ハウス!」
わふんっ!
「よーしよし、えらいなぁ。じゃあお部屋に行こうねぇ!」
首周りをもっふっもふもふ撫でまわし、シェリは最後に顔周りもごしごしした。
「な、ごろごr……君はわふっごろごろごろ……」
ミオは器用にも一度に悲壮と恍惚を表現したのち、最後は本能に屈服した。
弟子の言うことを従順に聞き、一緒に自分の部屋に入った。促されるままベッドに登るとまた褒められまくって喉を鳴らして寝入ったのだった。
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