花が咲く頃には
浅葱
約束はしていませんでした
表へ出ると、甘い香りが漂ってきた。
金木犀の香りだ。
またこの季節がやってきたと、その姿を探す。
「金木犀は、雄株がほとんどなのだそうですよ。だから自生している木はとても少ないんです」
そう、隣の家の彼は教えてくれた。
「じゃあ、貴方の家の金木犀はどなたかが植えたものなのですね」
「そうですね。いい香りがするから、先祖の誰かが植えたのでしょう」
あの小さい橙色の花が好きで、私はこの季節になると彼の家に入り浸った。
「男の家にそんなに来てはいけませんよ」
「私は貴方のお嫁さんになるのだからいいのです」
そう言うと、彼は静かに笑んでいた。
大好きな香りと、大好きな人。
縁側に出ると香りが強くなる。そこでお茶を飲みながら、彼の落ち着いた声と金木犀の香りを楽しむのが好きだった。
ある年、彼は軍服を着て遠くへ行ってしまった。
「貴女が好きなあの花が咲く頃には帰ってきたい」
「帰ってくる、ではないのですね」
「こればかりは私が決められることではないですから……」
そう言って彼は切なそうに笑った。
終戦を迎えて、私は毎日駅へ通った。
彼が帰ってくるのをただただ待ち望んで。
駅には、私のような人が何人もいた。顔見知りにはなったけど、お互い特に声はかけなかった。
ただ、大事な人が帰ってくるのを待っていた。
その日、家を出るとふわりと甘い香りが漂ってきた。
「花が咲きましたよ」
私は呟いた。
”花が咲く頃には帰ってきたい”と彼は言った。
彼なら、その望みを叶えられるのではないかと思った。
「花が、咲きましたよ……」
返事は求めていない。顔を俯かせてただ、そう言いたかった。
涙がこぼれた。
まだ終戦から二月も経っていないじゃないかと涙を拭った。それでも、どこそこの息子さんが無事帰ってきたとか、どこの子は残念だったとか聞くと、たまらない気持ちになった。
”帰ってくる”と約束してほしかった。
私の元に。
熱いものが何度も頬を伝った。
「行かなくちゃ……」
彼を迎えに。
どうせ今日も空振りかもしれないと、駅までの道を俯いて歩く。あちらからもこちらからも金木犀の香りが漂ってきて、私はもっと泣きたくなった。
と、その腕を誰かに掴まれて、反射的に顔を上げた。
私は目を見開いた。
「……ああ、その……なんと言ったらいいか……」
……今日の声は落ち着いてはいなかった。
あの日、かっちりと着ていた軍服はくたびれているように見えた。ところどころの綻びが、几帳面な彼らしくないと思った。
それよりも視界がぼやけて、彼の顔がよく見えないのが悔しかった。そこは「ただいま」でしょうとか、言いたいのに言えなくて。
「……待って……た……待って……」
「……待たせてしまいました。嫁にきてください……あっ……」
彼はさらりとそう言ってから、いつになく頬を真っ赤に染めた。
「あ、ええと……」
狼狽している彼に私も動揺したけれど、せいいっぱい笑んだ。
ここが往来だとか、周りに人の姿があるとか、そんなことはもう何も考えられない。
金木犀は、そんな私たちを祝福しているようにいつまでも香っていた。
おしまい。
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★30 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
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