宵月の奏者は世界を奏でる
第19番 「仕方がなかったんだ。可愛い弟子に上目遣いで頼まれて、断れる奴がいると思うか? 不可抗力ってやつだ。安心してほしい。一線は超えてない。だからお願い犯罪者とか言うのは本当にやめてくださ」
第19番 「仕方がなかったんだ。可愛い弟子に上目遣いで頼まれて、断れる奴がいると思うか? 不可抗力ってやつだ。安心してほしい。一線は超えてない。だからお願い犯罪者とか言うのは本当にやめてくださ」
温かい蒸気が充満する蒸し風呂──
湯気と木材の香りが鼻腔を擽る室内の中央、白い布が一面に敷かれた床で胡坐を掻き、僕は鈍痛が響く頭に片手を添えた。
結論を先に告げよう。
押し切られてしまった。
少し前、庭園で入浴を一緒にと求められた僕は分厚い倫理武装で、お願いを拒否しようと試みた。
だが、何と頑固で意固地なことか。
落葉は僕の倫理武装を正面から突破しにかかり、彼女の勢いと口撃に圧され、僕の武装は薄氷のように粉砕されていった。
このままではまずい。
そう思った時には既に遅く、僕の武装が完全に崩壊するという時に、落葉の『駄目でしょうか?』という破壊力抜群のおねだりが炸裂。
それがとどめの一撃となり、僕は『そこまで言うならッ!』と首を縦に振って了承してしまったわけである。
「チョロ過ぎんだろ……僕」
多くの汗が浮かぶ額に手を当て、僕は自分の意思の弱さに落胆した。
何がそこまで言うなら、だ。駄目だろ。普通に考えて。嫁入り前の娘が男と一緒に入浴って……何考えてるんだ。犯罪だよ、これ。
明日からどんな顔で俊陰様に会えばいいんだよ。
貴方の娘さんと一緒に入浴しましたって顔? 無理無理無理。その場で斬り捨てられても文句言えないぞこれ……。
「いや、逆に考えろ。湯浴みじゃなくて良かったって」
罪悪感と現実から逃れようと、僕は思考を変えてみる。
ここは全裸になって湯に浸かる湯浴み場ではなく、黒い
まだマシだ。
これならばまだ、犯罪とは言われない。
本当にギリギリ大丈夫なところに──。
「し、失礼します」
控えめな声。
不意に聞こえたそれが僕の鼓膜を揺らした一秒後、ギィ、と入口扉が音を立てて開かれ、落葉が入ってきた。
彼女が身に纏うのは、僕と同じ黒い湯帷子。
長い銀糸の髪は後頭部で団子状に纏められており、流石に恥ずかしいのか、紅潮した顔を逸らしている。
その恥じらう姿が、妙に艶めかしかった。
普段とは印象が異なる落葉は、とても可愛く、魅力的だった。
特に髪型は新鮮で、不覚にもドキッとしてしまった──と。
「し、師匠……ッ」
「え?」
視線を正面にいる僕に向けた途端、大きく目を見開いた落葉は両手で口元を押さえ、その場に膝をついた。
急にどうした。
まさか、体調でも悪いのか? 修行の蓄積した疲労が、こんなところで?
とにかく傍に。
心配した僕は落葉に駆け寄ろうと、片膝を立て──。
「身体……い、いやらしいが過ぎます……ッ」
「何を馬鹿なことを言っているんだ、君は」
僕は立てた膝を元に戻した。
「心配して損したよ……」
「す、すみません……お隣、失礼します」
アハハ、と笑って謝った落葉は僕の隣に腰を落とし……僕に礼を告げた。
「ありがとうございます、師匠。私のお願いを聞いてくださって」
「かなり強引に首を縦に振らされた感じだったけどね。案外、落葉は押しが強いんだね」
「申し訳ありません」
「別に悪いことじゃないよ。自分の要望や願望を押し通そうとする気概は、奏世師には必要な素養だし……ちょっと待て落葉。何処を見てるんだ」
「し、師匠の淫靡な体液が流れる鎖骨を……」
「言い方」
僕の鎖骨部分をジッと、ゴクリと喉を鳴らして見つめていた落葉に、呆れの溜め息を吐く。
何で意味深な言い方をしたんだ、この子は。別に僕の汗は淫靡でも何でもないだろう。あと汗を体液って言うな。間違ってないけどさ。
異性の身体に興味を持つ年頃とはいえ、流石に思春期が過ぎる。
一緒に入ったのは失敗だったかもな……これ以上身体についての話をするわけにはいかない。話題を変えよう。
「落葉はどうして、僕と一緒に風呂に入りたいと思ったの?」
「そ、それは、乙女の口から説明するのは酷なことと言いますか……そんなことを、言わせようとしないでください!」
「ねぇ待って本当にどんな理由!?」
少しだけ怒り気味に、そして羞恥に赤く染まった顔を、落葉は抱えた膝に隠してしまった。
気になる。彼女が僕をここへ招いた理由。
しかし、僕の直感は告げていた。追及するべきではない。きっと、男が知ってはならない乙女の秘密に抵触することであるからと、訴えている。
僕の直感に従おう。
何故なら、よく当たるから。無理に聞き出して、関係が悪化するようなことは避けたい。そっとしておいてあげよう……。
代わりに、ポン、と僕は落葉の頭に手を置いた。
「この話は終わりにして……さっきも言ったけど、今日の修行は素晴らしかったよ。『がしゃどくろ』を倒すのはもっと先になると思っていたのに、凄まじい成長だった。不完全ながら、龍奏も奏でられていたし」
「ありがとうございます。師匠のご指導のお陰です」
「そう言って貰えると嬉しいよ……でも」
僕は自分の顎に手を当て、落葉が創りあげた世界を思い返しながら、考えた。
「これまでの雪輝白龍豪に比べて、今日の世界は明らかに精度が上がっていた。それも、格段に。僕の教え以外にも、君を成長させる要素があったように思えるんだけど……心当たりはない?」
「えっと……」
僕の問いに、落葉は蒸気が滞留していると天井を見上げて考え……やがて、告げた。
「本を、読んだんです」
「本? どんな本?」
「海の向こうの世界……外国を旅した人の旅行記です。三年くらい前に一度読んだんですけど、もう一度読み直したんです。特に、それに記されている──月輪帝様の演奏を聴いた、感想記を!」
「ふぐ──ッ」
落葉の口から飛び出した名前。
あまりの不意打ちに僕は思わず吹き出してしまった。
「げ、月輪帝……?」
「はい! 世界最高。幾千の世界を奏で、あらゆる音色を操る奏世師です! ご存じですか?」
「な、名前は」
光を内包しているのではないかと思うほどにキラキラ輝く瞳に気圧されながら、僕は何とか頷いた。
事前に俊陰様から月輪帝に憧れていると聞いてはいたけど、予想以上。
もはや憧れというよりも、崇拝に近い。
「感想記によると月輪帝様は輝く銀の三日月を背に、凍える雪原、白波の立つ大海、燃え盛る溶岩湖、緑が生い茂る草原、満天の星空、五つの世界を同時に奏で、また複数の龍を躍らせていたと言います。そのあまりの迫力に涙を流す者が大半で、中には気を失う者もいたとか」
「へ、へぇ……」
「あの旅行記に記されていた月輪帝様が奏でた雪原の世界を思い浮かべて、演奏しました。津々と降り続ける、凍える世界を。そうしたら……これまでで一番の世界を奏でることができたんです!」
ズイ、と身体を僕のほうへと乗り出して言う落葉。
心も身体も熱くなったせいだろう。彼女の肌には多量の発汗が見られ、それを吸収した
浮かび上がった身体の線の、何と艶めかしいことか。
見てはいけない乙女の秘密を目の当たりにしたような気持ちになり、僕は慌てて視線を逸らした。
「私もいつか、月輪帝様にお会いして、その世界を聴いてみたい。でも、鎖国された状態では不可能なのです」
「じゃあ、諦めるしか?」
「いいえ、一つだけ方法がありますよ」
フッと笑い、落葉は言った。
内に秘めた野望を。
「位決めの儀で一位になれば、嘆願の権利を獲得できます。それを使って、私は帝様に直接お願いするんです。月輪帝様を、この国に招いてくださいって」
「了承されるかな」
「帝様だって世界最高の奏世師の演奏は聴きたいはずです。きっと、叶えてくださると信じていますよ」
「そうか……叶うといいね」
言葉を返す僕の脳裏に、一つの疑問が生まれた。
ここで僕の正体を明かしたらどうなるのだろう。君の憧れた人物は、今目の前にいるッ! 素性を全て曝け出したら、落葉はどんな反応をするのだろう。
勿論、そんなことはしない。
僕の生死に直結する情報なのだ。簡単には開示できない。
これはあくまでも妄想だ。
僕の内に生まれた、危険な好奇心に過ぎない。
素性を明かすことができるのは、この国の鎖国が解かれた時以外にないのだ。今はまだ、落葉の前では、僕はただの奏世師──彗明だ。
「あの、師匠」
「うん?」
話を終えた落葉は僕の肩に触れ、尋ねた。
「どうして、そっぽを向いているのですか?」
「……自分の身体を見て」
「え? ……ッ」
そこでようやく、自分の姿に気が付いたらしい。
汗で濡れた湯帷子が身体に張り付いたことによって浮かび上がった女性特有の曲線、身体に前のめりにしたことによって緩くなった胸元。滴る肌によって濡れた肌が、こちらの情欲に刺激を与える。
十五歳の生娘とは思えないほどの色香を、今の落葉は漂わせていた。
できるだけ彼女を見ないよう顔を逸らしつつ、僕は言う。
「ちょっと……目のやり場に困るかな」
「も、申し訳ありません! お見苦しいものを……」
「いや、別に見苦しいものじゃ。寧ろ綺麗……あぁ、ごめん、なんでもないから忘れて」
「綺麗……」
僕が口走った単語を復唱した落葉は緩くなった胸元をギュッと片手で押さえながら、何を思ったのか、僕との距離を詰め──耳元で囁いた。
「……見ますか?」
「見ないから誘惑するのやめなさいッ!!」
弟子と一緒に風呂に入るのは、これが最初で最後にしよう。
心の中で決めながら、僕は理性を総動員して叫んだ。
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