第18番 確かな才能と成長

怪奏かいそう──冥晦髑髏房めいかいどくろぼう


 三日月が空の頂に到達する目前の深夜。

 屋敷の庭園に敷かれた畳に座る僕は手元の琵琶──『月桜』の弦を弾き、重低音を鳴らし、幻奏世界を創った。


 何処までも続く暗闇。

 背後で生まれた骨の音。

 感じる大きな存在感。


 暗黒世界の主役である怪物──『がしゃどくろ』が誕生した。

 怪物は四肢の関節を軋ませ、上下の歯をカタカタと打ち鳴らす。


 具現化した恐怖は長大な腕を前方に伸ばし、相対する落葉に向かって突き進んだ。その若く小さな命を摘み取るために。刈り取るために。真っ直ぐ。


 しかし。


「……フゥ」


 迫る死の象徴を前にしても、落葉は以前のように恐怖することなく呼吸を整える。

 次いで、覚悟を決めたように表情を引き締め、眼前に置いた琴──『双子百合』に両手を伸ばし──。


龍奏りゅうそう──雪輝白龍豪せっきはくりゅうごう


 弦を弾き、音色を生み出し、世界を奏でた。


 雪原。

 落葉が奏でた世界は、頭上から降り注がれる白雪が積もる、白銀の世界だった。


 津々と降り続ける白雪は勢いを増し、大地に降り積もったそれらは吹き付けた風に攫われ宙を舞う。

 冷え切った領域。

 そこがどれだけ寒いかは、落葉の白く凍り付いた吐息を見れば想像ができた。


 暗闇の黒い世界と、凍える白い世界。

 誕生した二つの唄の世界は衝突し、せめぎ合い、殺し合う。

 互いに存在を否定し合う。

 消えろ。生き残るのは自分だ。

 互いの世界が叫び合った──と。


「──来てッ!」


 唄を奏で続ける落葉が高らかに叫んだ瞬間──雪雲に支配された天に孔が穿たれ、そこから、凍える世界の主役が姿を現した。


 白龍だ。

 純白の龍鱗で全身を覆った白龍が降臨した。


 大きさはやや小さめだが、僕の『がしゃどくろ』と同等と言える。

 力強い目、獰猛な牙、鋭い爪。伸びる髭はとても凛々しい。


 現れた天空の覇者は頭上をぐるりと一周した後、その勢いを殺すことなく、咆哮を上げて『がしゃどくろ』へと襲い掛かった。

 大口を開けて頸椎けいついに牙を突き立て、爪で肋骨を握り砕く。骨に亀裂が生まれる音が鳴り響き、『がしゃどくろ』は進行を止めて苦悶に暴れた。


 しかし、負けてはいない。

 両腕で白龍のしなやかな胴体を殴りつけ、両手で尾を掴み、引き剥がそうと──違う、引き千切ろうと抵抗する。殺しにかかる。


 人の身では到底敵わない、怪物同士の戦い。

 二つの世界の境界線上で繰り広げられた決闘は、数十秒後──両者の身体に亀裂が入り、同時に消滅するという形で決着がついた。


 勝者なし。

 痛み分けの引き分け。


 一般的には腑に落ちないと言われてしまう決着だが、僕は全く落胆せず。

 寧ろ、大きな喜びを胸に抱きながら、暗闇の世界を消滅させた。


「驚いたな……まさか、こんな短期間で『がしゃどくろ』を殺せるなんて」


 幻奏世界の消滅により、現実に戻った周囲の景色。

 毎日見ている馴染み深い光景を見ることもなく、僕は内心の嬉しさに口角を上げ、荒い呼吸を繰り返している落葉に駆け寄った。


「凄いよ落葉! こんなに早く『がしゃどくろ』を倒せるなんて……本当に凄いっ!」


「あ、りがとう、ございます……でも」


 額に浮かんだ玉の汗を拭い、落葉は喜ぶ僕とは対照的に、悔しさの滲んだ表情で首を左右に振った。


「まだ、まだ駄目です。確かに『がしゃどくろ』を倒すことはできましたけど、相討ちでした。私の龍も殺されてしまいましたし……何より、私の龍奏は不完全でした。師匠の世界には遠く及ばない……」


「だとしても、死ななかった。大きな進歩だよ」


 僕は落葉の肩を軽く叩き、労った。


 今日は五月二十五日。

 僕の世界と戦う修行を初めてから、約三週間。

 修行を始めてから、一ヵ月と少し。

 通算死亡回数は四百六十回。


 僕が想定していた成長速度よりを、格段に上回っていた。

 千回は死ぬ経験をすると思っていたのに、実際はその半分。二倍の成長速度だ。

 才能には恵まれていると思っていたけど、まさかここまでとは思いもしなかった。


 才覚の面だけを見れば、落葉は僕をも凌ぐ。

 恐ろしいな。これだけの才能が、誰にも見つけられずに消えようとしていたなんて……。


 弟子の成長をとても喜ばしく思い、また僕自身も小さな達成感を覚えながら、落葉に言い聞かせる。


「落葉の言う通り、君はまだ未完成だ。相討ちは勝利とは言えないし、龍奏の羽衣が顕現しなかったということは、まだまだ不完全な世界であるということ」


「……はい」


「でも、決闘まで一ヵ月以上ある。この成長速度なら、君は必ず龍奏を完成させられるよ。心配しなくていい」


「わかりました……じゃあ、もう一度──っ」


 再び世界を奏でようと落葉は『双子百合』に両手を伸ばす。

 しかし、奏でることは叶わなかった。

 伸ばした彼女の両手が、微細に痙攣していたから。


「あれ、なんで……」


「創唄は体力と精神力を摩耗すると教えただろう。最高位の龍奏は、その中でも段違いに疲労する。今日はこれで終わりだ」


「……」


「そんな顔しないで。僕は満足だよ。君が『がしゃどくろ』を倒せたんだから」


 一つの目標を達成したのだ。

 とても大きな目標を。

 今日の修行はこれまでで最も有意義で、素晴らしいものだったと思う。

これまでの努力が報われた瞬間だったのだから。


「あの、では、師匠」


 修行の終了を告げられた落葉は食い下がることなく『双子百合』を虚空に消し、頬を紅潮させ、微かな恥じらいと大きな期待を宿した瞳を僕に向け、言った。


「今日のご褒美、お願いしてもよろしいでしょうか?」

「勿論いいよ。おいで」


 求めに応じて頷き、僕は両手を広げる。

 と、落葉は躊躇うことなく僕の胸に飛び込んできた。そのまま、僕の胸に顔を押し当て、背中に回した両腕で抱きしめ、体重をこちらに預ける。


「師匠……今日の私は、どうでしたか?」


「最高だったよ」


 この回答はあらぬ誤解を招きそうだな……。

 そう思いながらも、僕は質問に正直に答える。


「唄の完成度も高かったし、『双子百合』に向き合っている時の表情も、雰囲気も素晴らしかった。そして期待以上の成果を出してくれて……文句なしだよ。君は僕の自慢の弟子だ。君以上の才能は、この世界には存在しないように思える」


「ふへへぇ……」

 

 僕の称賛を受けた落葉は気の抜けた声を零し、僕の胸に更に強く顔を押し当て悶絶した。見えないが、彼女の口はだらしないほどに緩み切っていることだろう。


 これがご褒美である。

 修行を頑張ったら、僕が思う存分に褒めちぎってあげるという、厳しい修行とは正反対、究極の飴。


 これまで褒められることがほとんどなかった落葉にとって、尊敬する師からの称賛はどんな物品よりも価値があるのだそうだ。


 一度了承した手前、断ることなどしない。

 それに今日の修行は本当に、お世辞抜きに素晴らしいものだった。期待に応え、努力を実らせた弟子には最大の賛辞を。おー、よすよす。


「ねぇ、師匠……」


「ん? なに?」


「今日はもう一つ、お願いをしてもいいですか?」


 蕩け切った甘えた声。その中には微かな緊張が含まれていた。

 普段は頼みにくいお願いでもするのだろうか。


 僕は一瞬首を縦に振ることを躊躇したが、即座に拒否の選択を捨て去った。

 今日はめでたい日なのだ。落葉が一つの目標を達成した、素晴らしい日。

 そんな日に、弟子からの頼みを断るなどあってはならない。

 彼女の師匠として、深い懐で聞いてあげよう。


「いいよ。何をしてほしい?」


「えっと、その……」


 尋ねると、落葉はもじもじと恥ずかしそうに身動ぎをし、声を出すのを何度も躊躇い……やがて、覚悟を決めた様子で『よし』と呟き、顔を上げて僕に言った。


 とんでもない、お願いを。


「あの……一緒に、お風呂に入っていただけませんか?」


「……」


 …………………………………え?

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