第16番 【緊急】ご褒美制度導入

 翌朝。

 空が白み、遥か彼方、海洋と天空の境界線に陽が現れた頃。


「この音色は……」


 薄暗い寝室。

 深い眠りから覚め、重い瞼を持ち上げた僕は襖の外側から聞こえてきた琴の音色に意識を向けた。


 緩急のついた律動。

 高低が混ざり合い、調和した音色。

 一定以上の技量は認められるが、まだ粗削りな部分が多く感じられる唄。


 完全な覚醒前ということもあり、視界も意識も靄がかかった状態ではあるが……わかる。これを奏でているのが誰なのかは、明確に。


 わからないはずがない。

 何故ならこの唄は、この二週間、毎日聴いていた唄だから。


「やり過ぎは逆効果だって教えたはずなんだけどな」


 とりあえず、行こう。

 掛け布団を払い除けて寝室を出た僕は無人の廊下を歩き進んだ。


 行き先は、屋敷の庭園。

 今この瞬間も鳴り響く唄は、そこから生まれている。

 つまり、あの子はそこにいるのだ。恐らく庭園の、昨晩の場所に。


 冷えた空気で肺を満たし、眠気を飛ばし、意識を完全に覚醒させ──。


「いた」


 予想通り庭園の中央に敷かれた畳に彼女は──落葉はいた。

 真剣そのものの表情で手元に置いた琴──『双子百合』を一心不乱に弾き鳴らしている。


 周りは全く見えていないようで、廊下に立つ僕にも気が付いた様子はない。

 いや、それどころか、朝が来たことにも気が付いていないのかもしれない。神奏楽器が幻奏世界を創り出すのは、月が出ている夜だけ。にも拘わらず、唄を奏で続けているなんて……。


「……やれやれ」


 弟子の頑張る姿に嬉しさを覚えつつ、僕は下駄を履いて庭に降り立ち、砂利を踏み鳴らして落葉のほうへと歩み寄った。


「これじゃ駄目だ……ここはもっと強く弦を弾いて、龍の偉大さを表現しないと……」


「落葉」


「こんな唄じゃ、逆に倒されて──ぇ?」


 真正面に座り込み、至近距離から声をかけられ、ようやく僕の存在に気が付いたらしい。

 弦を弾く手を止めた落葉は汗が伝った形跡のある顔を上げた。

 次いで、驚く。


「し、師匠!? いつの間に……」


「たった今来たばかりだよ」


 質問に答えた僕は、懐から取り出した清潔な白い手拭で汗の滲む落葉の額を拭き、そのまま、彼女に問うた。


「いつから練習してるの?」


「い、一時間程前です」


「思ったよりはやってなかったか。昨晩はよく眠れた?」


「あまり、眠れませんでした」


「だろうね。目の下の隈を見ればわかるよ。僕もそうだった」


 落葉の頭を撫で、僕は十年以上前──初めて幻奏世界で死んだ時のことを思い出した。


「初めて幻奏世界で死んだ日の夜は、僕を殺した武者が夢に出てきて全く眠れなかった。落葉も、夢に『がしゃどくろ』が出てきたのかい?」


「はい。その……食べられました」


「それは酷い。眠れないわけだよ。でも……練習のやり過ぎは良くない。前にも教えただろう」


 落葉の頭から手を離し、僕は俯く彼女に言い聞かせた。


「創唄は体力と精神力を削る。やる気があるのは良いことだけど、考えてやらないと今日の修行に影響が出る。寝不足で、尚且つ疲れた状態で、厳しい修業に耐えられる?」


「む、無理……ですね」


「だろ。気を紛らわせたいのはわかるけど、僕がいない時には創唄の修行はしないこと。いいね?」


「……」


「? 落葉?」


「駄目なんです……」


 返事をせずに黙り込んだ落葉。

 何か思うことがあるのだろうか。そう考えて名前を呼ぶと、彼女は首を左右に振り、言葉を……思いを零した。


「私は、誰よりも練習しないといけないんです……このままじゃ、間に合わない」


「いや、そんなことは──」


「あるんです!」


 バッ! と勢いよく顔を上げ、落葉は僕と視線を衝突させる。

 その瞳には、恐怖が宿っていた。

 昨夜、僕の『がしゃどくろ』を前にした時に見せたものとは別種の恐れ。

 これは──敗北や失敗に対する恐れだ。


「使える時間は僅かしかありません。私は出遅れているんです。戦いの舞台に上がる他の奏世師の遥か後方にいます。視界に映りすらしない、遠くに。使える時間は全部使わないと負けてしまうんです!」


「落葉……」


「昨夜、沢山殺されてわかりました。私は弱い。弱すぎる。休んでいる場合じゃない。死に物狂いで練習しないとッ!」


 必死に訴える落葉を前に、僕は自分の失敗を悟った。

 死を伴う戦いの修行。どうやら、それが裏目に出てしまったらしい。


 この修行は実際に死の恐怖を体験することで、それから逃れようとする生物の本能に働きかけ、急速な成長を促す目的がある。

 一応、その目的は達成されている。昨晩だけで、彼女は二歩、三歩と成長した。


 だがその一方で、あまりにも早く成長しなくてはならないと思うあまり、過剰に努力しようとしてしまっている。

 自分の弱さを痛感し、早く成長しないと負けてしまう、いつまでも死から逃れられないという考えに支配されてしまっている。


 そして、早い成長=多く練習する、と安直に考えているのだ。

 間違ってはいないが、同時に、間違ってもいる。

 焦って修行をしても成長しない。質が悪くなるから。


特に創唄に関しては、闇雲に反復練習をすれば良いわけではないのだ。それでいいなら、今頃落葉は強い奏世師になっているだろう。


 だが、言い聞かせたところで今の落葉は聞かないだろう。

 きっと、僕の目を盗んで練習をし、疲れ、そのまま僕の修行をする。質の悪い修行を。


 なら、どうするか。

 落葉が僕の言うことをきき、尚且つ、質の良い修行をするためには……。


 少し考えた末、僕はとある結論に辿り着き──落葉の肩を掴んで、それを告げた。


「ご褒美制度をつくります」


「………………はい?」


 僕の宣言。

 困惑した表情で固まった落葉に、僕は詳細を語った。


「奏世師の修行で必要なのは量よりも質だ。だから、幻奏世界で殺されないため以外の、君が頑張る理由を作ろう。その日の修行の頑張り具合を見て、僕がご褒美を上げる。その代わり、勝手な朝練は禁止。どう?」


「どうって……」


 ゴクリ。

 口内の生唾を喉に通した落葉は、瞳に宿していた恐怖を消し、代わりに光を宿して僕に問うた。


「ご、ご褒美の詳細は?」


「それはまだ決めてないな。あ、高価なものは勘弁してもらえると──」


「でしたら!」


 瞳を輝かせながら僕の片手を両手で掴み、落葉は前のめりになって、欲しいものを告げた。


「修行が終わったら、沢山、私を褒めてください!」


「え、そんなことでいいの?」


「はい! でも、ただ褒めるだけじゃないです。沢山、沢山、私の良かったところを言って、頭を撫でて……あ、甘えさせてください」


 言っている内に恥ずかしくなったのか、頬を赤らめ、落葉は少し俯いた。


 え、待って、やばい、ヤヴァイ。

 僕の弟子、可愛い。父性、庇護欲が爆発しそう。

 この際アレだ。我慢するのも身体によくない。いっそのこと、爆発してもいいですか? 勿論厳しくするところは厳しくするけど、めっちゃ甘やかしてしまってもいいですか? 溶けるくらいに褒めちぎっても構いませんか?


 いやぁ、待て待て待て。落ち着け僕。深呼吸をして冷静になるんだ。

 甘えさせてとは言われたが、あまりにも度が過ぎると嫌われてしまう。ここは一旦落ち着き、冷静に、節度を守り、適切な距離を保って。

 僕はあくまでも師だ。父親じゃない。一定の距離感は大切だ。


 暴発しそうだった父性を沈め、僕は落葉の頬に触れた。


「勿論いいよ。これまで、あまり褒められることもなかったんだろう? 今まで冷たいことを言われて来た分だけ、僕が君を褒めてあげる。温かい言葉をあげるよ」


「や、約束ですからね!」


「うん。但し、一生懸命頑張ったらね」


「はい!」


 元気よく、子供のように無垢な笑顔で頷き、落葉は僕と小指を結んだ。


 こうして、僕と落葉の間でご褒美制度が導入されたわけだが……後に、このご褒美制度導入を後悔する時があるとは、この時の僕は思いもしなかったのである。

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