第8番 寒空の下、湯けむりの立つ場
散花が忽然と姿を消した後。
三日月の位置が天の頂に近付き、より一層夜が深まった頃。
「はぁ……気持ちいい」
屋敷の裏手にある、足湯場にて。
揺れる水面から濛々と白い湯気が立ち込める熱い湯に足を浸した僕は、その心地良さに全身を弛緩させて呟いた。
入浴自体は既に済ませてある。
食後すぐに一番風呂を頂いており、身体の汚れは綺麗さっぱり落としてある。
けど、僕は身体が温まった入浴後に外の縁側で落葉の演奏を聞き、更には散花と出会い話をしたため、冷えた夜の空気に当たられ身体を冷やしてしまったのだ。
折角温まったのにもったいないことをした。
と、後悔しながら布団の敷かれた客室に戻ろうと廊下を歩いていたところ、鉢合わせた使用人の女性がここへ案内してくれたのである。
湯加減は完璧。寒空の下で温まるのには丁度良い温度だ。
あまりの心地良さにこのまま眠ってしまいそうになる。
「この時間くらいは、何も考えなくてもいいかもな……」
ザブ。
湯に浸した足を動かして水面を揺らし、僕は独り言を零した。
考えなくてはいけないことは沢山ある。
悩まなくてはいけないことは山積みだ。
決断しなくてはならない選択肢は目の前にある。
けど今は、極楽浄土にいるかのような心地良さを堪能している今この時だけは、頭の中を空っぽにして、この快楽に身を浸しても良いのではないか。
なんて、現実逃避を始めた時だった。
「あ、彗明様……」
ガラッ。
扉が開く音と共に聞こえた声に、僕は背後に振り返った。
落葉だ。
扉の前には、桜があしらわれた白い着物に身を包み、驚いた表情を浮かべている彼女が立っていた。
彼女も足湯に浸かりに来たらしく、着物を捲って白く細い素足を曝け出している。
「え、えっと……」
僕がいるとは思っていなかったのだろう。
落葉はやや緊張した様子で視線を下に向け……決心した表情で僕に問うた。
「お隣、いいですか?」
「うん、勿論」
断る理由なんて何もない。
僕が頷くと、落葉は小走りでこちらに駆け寄り『失礼します……』と小声で言って、温かい湯の中へ足を浸した。
「ふぅ……あったかい」
「寒い夜に入る足湯は最高だよね。よく入るの?」
「ほぼ毎日。幼い頃に一度入ってから、やめられなくなってしまいまして」
「夢中になったんだ。いやぁ、気持ちは凄いわかる。こんなに気持ちがいいんだから、虜になるのは仕方ないよ。僕も今日ここで足を浸して、魅了されてしまったし」
「みたいですね……あの、彗明様」
「ん?」
「先ほどは申し訳ありませんでした」
落葉は頬を羞恥に赤く染め、また、心の底から申し訳なさそうに言った。
「あの時は、その、自分でも何をしているのかわからないほどに動揺してしまっておりまして……我を忘れてしまったといいますか、自分を見失ったといいますか。えっと、彗明様の身体を目の当たりにして……」
「あー……うん。大丈夫。言いたいことはわかるから、無理して言わなくていいよ」
「欲情してしまいまして!」
「言わなくていいって言ったろ」
僕は思わずツッコミを入れた。
なんで言ったんだ。しかもかなり大きな声で。
親馬鹿な俊陰様が聞いたら卒倒するんじゃないか? ていうか大丈夫だよね。聞こえてないよね?
一抹の不安を抱えつつ、僕は赤面している落葉に尋ねた。
「落葉は今、十五歳だっけ?」
「はい」
「その年頃なら、異性の身体に興味を持つのは普通のことだ。ああいうことをしていても不思議じゃない。けど、眠っているとはいえ男のすぐ傍でやるのはやめよう。あんなの、襲ってくださいと言っているようなものだからね?」
「……(ごく」
「喉を鳴らすな」
どうやら、僕が思っているよりも相当、落葉の頭の中は桃色で染まっているらしい。
まぁ、仕方ないか。性に過敏な時期だし。流石に彼女ほどではないけれど、僕にもそういう時期はあったからね。異性を意識する時期が。
でも、いつまでもこんな話ばかりしているわけにもいかない。折角落葉がここに来てくれたんだ。この機会に、大事な今後についての話をするとしよう。
「君の唄、聴いていたよ」
「!」
「少し前に、縁側に座ってね」
「……どうでしたか?」
不安と期待を宿した瞳で、落葉は僕を見つめた。
言葉は濁さない。誤魔化しもしない。忖度もなしだ。
正直な評価を伝える。
「とても綺麗な唄だった。凄く良かったと思う」
「ほ、本当ですか?」
「うん。独学であれだけの唄を奏でられるようになったのは凄いことだ。素質は申し分ない。しっかりと鍛え上げれば、君は奏世師として大成する」
だけどね。
口角を下げ、僕は落葉に厳しい現実を告げた。
「独学で到達できる領域はここまでだよ。これ以上の成長を望むのなら、絶対に指導者が必要になる。金剛石の原石である君が輝くためには、ね」
「指導者、ですか……」
落葉は着物の端をギュッと握った。
「薄々、わかってはいたんです。自分一人では、これ以上成長することはできないって。他の名家の奏世師に勝てるだけの力を身に着けることは、できないって」
「壁に当たっていたんだね」
自分でそれがわかるなら大したものだ。
独学で物事の習得に励む大半の者は、今が自分の限界にあることもわからず、努力を積み重ねればいずれは何とかなる、と闇雲に反復練習を続ける。
無駄な努力をいつまでも。
自分を客観的に見ることができる者は少ない。
しかも、十五歳。その時点で有望株だ。
「お父様から聞きました」
「ん? 何を?」
「彗明様に、私の師匠になってくださるよう頼んだと」
「あぁ……うん。頼まれたよ。頭まで下げられた」
「……意思は固まりましたか?」
「残念ながら、まだだ」
僕は両手を組んだ。
「君を教えるのが嫌なんじゃない。寧ろ、磨けば光る宝石の原石を輝かせたいと思う気持ちは強いし、僕にも位決めの儀で第一位になりたい理由がある」
「では、どうして迷っているのでしょうか」
「僕たちの神奏楽器は違う」
僕は先ほど聴いた、琴の音色を脳裏に思い浮かべた。
「僕の神奏楽器は琵琶。君は、琴だろう?」
「はい。お母様──双命家先代当主から継承した、『双子百合』です」
「基本的に師弟は同じ種類の楽器を用いる。当然だ。琵琶の達人が琴を教えることはできない。つまり……僕では、君の師匠としては役不足なんだ」
唄の指導はできる。世界を語ることはできる。
けど、肝心の奏で方は教えられない。これでは師匠失格だ。
落葉の師匠に相応しい者は、僕じゃない。
その事実が、僕を迷わせている。
「君の師匠になるべき者は少なくとも、君と同じ琴を用いる奏世師だ。琵琶使いの僕では、君の真価を引き出せないかもしれない。君にはもっと相応しい人がいる。だから、迷って──」
「私は彗明様に師匠になってほしいです」
僕の言葉を遮り、落葉は言った。
「彗明様が奏でた世界は、私がこれまでに見た中で一番綺麗な世界でした。美しくて、厳かで、一瞬で人の心を奪い去る暴力的な魅力に溢れた、塗れた世界。あの時、思ったんです。この唄こそ、この世界こそ、私が求め続けた、目指し続けた領域なんだって。この世界で私は──頂点に立ちたいって」
「……そっか」
「それに、私の師匠に相応しい人は他にいませんよ。これまでに何人も私を見に来た人はいましたけど、見込みがあると言ってくださったのは彗明様だけでした」
湯に足をつけたまま立ち上がった落葉は僕の正面へと回り、僕の片手を両手で包み、真っ直ぐに視線を合わせて言った。
「お願いします、彗明様。どうか、私に唄を教えてください。私の師匠になってください。私にできることならば何でもします。時間も、身体も、全て差し出します。ですから、どうか……」
「……フフ」
あまりの必死さに、僕は思わず笑ってしまった。
情熱の宿る瞳。緊張に震える声と両手。過剰に力が籠められた双肩。
どうやら落葉は僕が想像している以上に、僕に師匠になってもらいたいらしい。この懇願に、人生を託しているらしい。でなければ自分の全てを差し出すなんて言葉は出てこない。
十五の乙女がここまで言った。
この必死さ。恐らく、双命家の存続以外にも目的があるのだろう。彼女をここまで必死にさせる理由が。
「……まず、一つ」
「はい。なんで──いたっ!」
僕は落葉の額に手刀を落とし、叱る。
「さっきも似たようなことを言ったけど、簡単に自分を差し出すみたいなことを言わないように。もっと自分を大切にしなさい」
「は、はい……」
「とはいえ、熱意は伝わったよ。色々と不安なことはあるし、それらは全く解消していないけれど……それをどうにかするのが師匠の役割か」
腹は括った。
年下の少女がここまで勇気を出したのだ。
彼女よりも長い時を生きている僕が日和ってどうする。
できない言い訳ばかり並べるな。悩める乙女の一人くらい救って見せろ。
散花に言われた言葉を胸中で復唱し、僕は自分の答えを落葉に伝えようと口を開いた──瞬間。
「落葉様」
扉が開かれ、女性の使用人が入ってきた。
神妙な面持ちをしており、彼女もまた、先ほどの落葉と同じように緊張しているように見えた。
近付いてきた使用人に、僕の手を離した落葉が尋ねる。
「どうかしたの?」
「大至急、寝殿の間へお越しください。分家の方が、お見えになっております」
「──ッ」
その報告に落葉は目を見開き、そして苦々し気に口元を歪めた。
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