第3番 頂の奏世師
僕の呼びかけに応じて虚空より顕現したのは、美しい琵琶だ。
世に二つと存在しない、六本の弦を持つ特殊な琵琶。
瑠璃色に染まる胴には咲き誇る桜と、片端が桜の花びらで隠された黄金の三日月が描かれている。
傷や汚れの存在しない表面は部屋の端に灯る燭台の明かりを反射し、輝いていた。
そこいらの琵琶とは訳が違う。
これは、楽器は、特別な代物だ。
無知な者でも一目で理解できる神々しさを放つそれは僅かな時間、宙を漂った後、僕の手中に収まった。
早く奏でろ。君だけの世界を創れ。
琵琶に触れた途端、僕の心には急かすような意思が伝わった。
「それは──
唄を奏で、世界を創る奏世師が必ず持つ、世界創造の楽器──神奏楽器。
僕が召喚した琵琶を見た少女は驚きに声を上げ、白刃の先端を足元に向ける。
その隙は逃さない。
琵琶の弦に指をかけた僕は一秒で呼吸を整え、乱れた精神を統一させ──手元に意識を集中させて弦を弾いた。
「
遅い律動で音階の幅の狭い高音と低音を弾き鳴らし、鮮やかな音色を奏でる。
速度は不要。焦る必要はない。荒々しさもいらない。
求めるのは、生きとし生ける全ての者が心を落ち着け、荒ぶる感情を沈める癒しの世界。
ならば必然、奏でる音楽の曲調はゆったりとしたものになる。
「こ、これは…!」
空間に反響し、浸透する音色に聴き入っていた少女が興奮を沈めて呟いた途端──世界が産まれた。
僕と少女が立ち尽くす場所は、先ほどまでの薄暗い部屋ではない。
大海原。穏やかに波打つ夜の大海の上に、僕たちは立っている。
頭上を見上げれば揺らめく極光と眩い白光を放つ三日月が主役を務める夜空が広がり、何処からともなく吹雪いた桜の花びらが宙を踊っている。
雄大な海は何処までも続き、白波が奏でる音は聴き入る全ての者を癒す。
「なんて、綺麗な……世界」
少女は舞い散る花びらに触れようと手を伸ばすが、その全てが彼女の掌を擦り抜けた。
触れることは、叶わなかった。
当然だ。この海も、夜空も、花びらも、全ては偽物に過ぎない。
幻想であり、夢想であり、空想の産物だ。実在するものではない。
これが僕の唄──僕の世界だ。
国一番の奏世師に与えられる称号──『月輪帝』の名を冠する者が生み出す、偽物の世界。
「……凄い」
ガシャン。
世界に圧倒された少女は羞恥と興奮を忘れて刀を落とした。
もう大丈夫だろう。彼女が再び刀を手にして自分へ襲い掛かってくることはない。
少女の様子からそう判断した僕は弦を弾く手を止め──演奏を止めた。
途端、周囲の世界は泡となって消滅し、元居た部屋に戻った。
海も、月も、花びらも、残っているものは何もない。
周りを見回す少女に、僕は片手を腰元に当てて声をかけた。
「落ち着いた?」
「ぇ……あ、は、はい」
「よかった。もう殺そうとしないでくれよ」
まともに会話のできる状態になったことを喜ばしく思いつつ、僕は小声で『ありがとう』と感謝の言葉を述べ、手中の琵琶と撥を消滅させる。
次いで、その場に胡坐を掻いて座り、少女に尋ねた。
「君、名前は?」
「あ、えっと、
「ご丁寧に年齢までありがとう。僕は──」
「奏世師だったか」
名乗る直前、部屋の入口から一人の男が現れた。
灰色の髪をした彼は、三十代半ば頃の外見年齢をしている。あまり肉付きはよくなく、身体も悪いのか、杖を突いている。
ただ弱々しい印象を受ける肉体は違い、纏う雰囲気は厳格そのもの。彼が現れた途端に部屋の空気が重くなり、緊張が走ったほど。
入室した彼を見た少女は、表情に焦りを滲ませた。
「お、お父様……」
「落葉、何をしているんだ。刀など抜いて」
「こ、これはですね。えっと、その……」
落葉と呼ばれた少女は父である男の質問への回答を考え始めた。
まぁ、馬鹿正直に答えることはできないだろう。傍で自慰をしていたことがバレたので殺そうと思いました、なんて言えるはずがない。赤の他人に言うことも恥ずかしいのに、よりにもよって親だ。嘘を吐く以外の選択肢はないだろう。
どんな言い訳をするのだろう。
僕と男が答えを待つこと、数秒。落葉は畳に落ちた刀を拾い上げた。
「そ、そうです。刃の手入れをしていたんです! 最近は手入れができていなかったので!」
いや苦しすぎるでしょう。
仮に手入れをしていたのなら、必要不可欠な道具である油や拭紙、打粉などが近くにあるはず。それがない以上、この嘘はすぐにバレてしまう。
こんな言い訳、通用するはずが──。
「そうか。今後は刀の手入れは定期的にやるんだぞ」
「は、はい!」
え、納得するの? 厳格なのは雰囲気だけか?
「落葉。すまないが、少し外に出ていてほしい。彼と話がしたい」
「え? わ、わかりました」
どうして自分がいてはいけないのか。
そんなことを思っていそうな顔をしながらも、首を縦に振った落葉は部屋を出て行った。
パタン。
襖が閉じ、足音が遠ざかったことを確認して、男は僕のほうへと向き直った。
「身体は大丈夫か? 海岸に打ち上げられている君を見つけた時は、随分と水を飲んでいたと聞いているが」
「あ、はい。身体のほうは何とも。助けていただき、ありがとうございます」
「礼なら娘に言ってくれ。君を見つけたのは、あの子だ」
「そうだったのですね。ではあとで、しっかりとお礼を言わないと」
どうやら、彼女は命の恩人だったらしい。後ほど、お礼を言わなくては。
……命の恩人に殺されかけたって、変な話だな。
なんてことを考えていると、眼前の彼は床に敷かれていた座布団の上に座り、僕にも座るよう促した。
「自己紹介が遅れたな。私は双命家の現当主、双命ノ俊陰だ」
「ご丁寧にどうも。私は陽円ノ国の奏世師──
「月輪帝だと?」
正座をした僕が名乗り、頭を下げた瞬間。
俊陰様は驚いた様子で目を見開き、何度も復唱した。
「月輪帝。まさかとは思うが、あの月輪帝なのか!?」
「えっと……あの、と申しますと?」
あのってなんだ?
言っている意味が理解できずに問い返すと、俊陰様は説明した。
「世界最高、史上最高傑作と評される奏世師のことだ。千を超える創唄を奏で、あらゆる世界を完璧な精度で創ることができるという、全奏世師の頂点。祖国である陽円ノ国だけには留まらず、その唄と世界を各国で披露しているという、あの」
「世界最高を自認しているわけでも、自分が奏世師の頂点に立つ者だとも思ってはいませんが……まぁ、そんな風に呼ばれていることは知っています。私以外に月輪帝という名前を持つ人はいないでしょうし、貴方の言っている人は私でしょう」
「やはりか!」
大きな声で言い、すぐさま、俊陰様は顎に手を当てた。
「これは想定外。絶好の好機。まさか世界最高の奏世師がこの国に流れ着くとは……神があの子に味方をしたのか? 今年で取り潰しを覚悟していたが、これはもしやもしやか──」
「あ、あの~?」
僕のことを放置して思考の海に旅立ってしまった俊陰様に声をかけるが、彼は全く反応を返さなかった。
変なことになったな。まさか月輪帝という名前だけで、こんなにも考え込むとは。
ただ、俊陰様の反応から推察できることもある。月輪帝という名前が知られているのは主に、僕の祖国である陽円ノ国の周辺諸国だ。
ここが何処なのかはわからないけれど、祖国からはそう遠くないはず。
近いようなら、帰れるかもしれない。
「彗明殿」
思考の海から上がったらしい。
俊陰様が僕を呼び、忠告した。
「今後はどんなことがあろうとも、月輪帝という名前は明かしてはならない。勿論、外の国から来たということも」
「え、どうして?」
理由を尋ねると、俊陰様はスッと目を細め──低い声で、僕を脅すように言った。
「──殺されるからだ」
……え?
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