第2番 間近で行われていた乙女の秘め事
一体、どれくらいの時間が経過したのだろうか。
「ぁ──っ、ん……ぅ」
暗闇に沈んでいた意識を浮上させた僕がまず五感で捉えたのは音であり、それは熱に浮かされたような乙女の嬌声だった。
男の情欲を掻き立て、劣情を増幅させる淫靡な声。
それに加えて、微かに水音も聞こえる。
少量の水に弱い力で触れているような、小さな音だ。
もしかして僕はまだ、海にいるのか?
いや、それにしては身体は濡れていないし、水に触れている感覚もない。
じゃあ、この音の正体は? そもそも僕は今、何処にいるんだ?
意識の覚醒と共に湧き上がる、数々の疑問。
その答えを求めて、僕は下ろしていた瞼を持ち上げた。
「……ここは、何処だ」
完全な覚醒前ということもあり、微かに霞む視界に映ったのは、知らない木目調の天井だった。
室内は薄暗く、遠くにある光源の明かりで辛うじて視界が確保されている。
僕は確か、渡航中に大嵐に巻き込まれて、海に投げ出されて──そこから先の記憶は存在しない。
けれど建物内にいるということは、海を漂流していた僕は誰かに助けられたということだろう。一体誰が僕を助けてくれたのか──。
「ぃ……あ、うぅ……はぁ」
「……」
駄目だ。なるべく気にしないようにしていたけど、流石に無視することはできない。まずはこの嬌声の正体を確かめよう。
そう決め、僕は布団の上で横たわっていた身体に力をこめ、上体を起こして声が聞こえるほうへと顔を向け──驚愕に目を見開いた。
「……綺麗だ」
無意識の内に、僕は言葉を零した。
幻想的な少女だった。
年の頃は十五といったところだろうか。
夜を照らす月光を具現化したような白銀の髪に、黄金色に輝く二つの瞳。着崩れた着物の隙間から覗く肌は不純物の見当たらない乳白色で、細身の肢体は均整が取れている。筋肉による凹凸の少ない身体は、彼女が女性であることを強く意識させた。
天女と見紛う、絶世の乙女。
僕の視線を釘付けにする美貌の少女の頬には今、薄い朱が差している。
もぞもぞと身体を揺らしながら乱れた呼吸を繰り返し、蠱惑的な吐息を幾度も零す。酩酊しているように蕩けた虚ろな瞳は何処に焦点が合っているのかわからない。
もしかして、風邪でも引いているのだろうか?
明らかに普通ではない少女の様子に、僕は一瞬そう考えたが……彼女の両手を見やり、それが間違いであることを悟った。
何故なら、彼女が両手を伸ばしている先は──謂わば、乙女の聖域。身も心も捧げた者にしか触れさせてはならない秘部なのである。
水音の発生源もそこだ。彼女の手の動きと連動して、微かに鳴り続けている。
これだけの情報があれば、十八年という年月を生きている僕には、彼女が何をしているのか理解できる。
要するに──身体を慰めているのだ。
いや、待て待て待て。
一体何をしているんだ、この娘は。
見たところ年頃だろうし、性に感心を持ち、そういった行為に興味を持つのも理解できる。
けれど、性的な欲の発散は本来、誰もいない静かな部屋で行うものであり、間違っても見知らぬ男の傍で行うものではない。こんなの、襲ってくださいと言っているようなものだ。いや僕は襲ったりしないけど。
え、どうしよう。
僕は本気で悩んだ。
彼女のことを考えるならば、見て見ぬふりをするのが一番だと思う。けど、僕はもう身体を起こしてしまった。これで何も見ていないというのは無理がある。最善の選択である寝たふりでやり過ごす、ができなくなってしまった。
いや、それもまずいか。
こんなに間近で女を意識させられたら、健全な青年である僕の子孫繁栄本能が覚醒してしまう。
何より、気まずい。
はてさて、本当にどうしたものか。
と、徐々に明瞭になってきた視界に少女を映したまま、僕が長考していると。
「ん、ぅ……へ?」
「あ」
僕と少女の目があった。
確実に、完璧に、互いの視線が衝突した。
空間の時間が停止したかのように、僕たちは互いに動かない。
特に少女は僕のことを大きく見開いた目で凝視したまま硬直しており、現実を認識できていない──否、現実を受け入れることができていない様子だ。
この状況での、最善の行動は……。
時間の経過と共に、頬に朱が差していく少女を見つめたまま思案した僕は、やがてゆっくりと右手を上げ、可能な限りの笑顔を作って言った。
「こ、こんにちは。その……続けて、いいよ?」
「!$#%!?$#&%#”%?!」
僕の台詞で、自分の痴態を全て見られていたことを悟ったらしい。
少女は発狂するような声を上げ、着物を着崩したまま真っ赤に染まった顔を両手で覆った。
何と声をかければいいのかわからない。
いや、わかるわけがない。
自慰がバレた乙女に対する声のかけ方を学ぶ機会なんて、あるわけがないのだから。
「う、うそ、やだ、いつから起きて……もしかして全部見られて、ずっと? ううぅぅぅぅ──」
あまりの羞恥心に耐えられなくなっているようで、少女はブンブンと頭を左右に振り、ブツブツと何かを呟いている。
恐らく後悔の言葉だろう。なんで自分は見知らぬ男の傍で自慰をしていたんだと。
それについては本当に反省して、存分に後悔してほしい。今後、同じ過ちを繰り返さないように。
「さて」
ただ、傍に人がいたのは好都合だ。
聞きたいことが山ほどある。
ここは何処なのか、僕はどうしてここにいるのか。
それらの答えを彼女が持ち合わせていることを期待しているのだが……果たして。
「ねぇ、君──」
僕は少女に声をかける。
すると──。
「こ、ここ……殺す」
「……え?」
今、何て言った?
小声でとんでもなく物騒なことを口走っていたような気がしたんだけど……。
困惑し、同時に身の危険を感じた。
第六感が反応し、僕に警戒するよう告げている。警鐘を鳴らしている。
ジリ。
僕が畳の上で後退りすると、少女は空いた距離を埋めるように一歩前進し──いつの間に手にしたのか、立派な一振りの刀を握りしめ、抜刀。
おい……ま、まさか?
物騒なことを口走り、物騒なものを構えた少女。
彼女が一体何をするつもりなのか。それを理解した僕は慌てて両手を正面に突き出し、彼女を落ち着けるための言葉を連ねた。
「お、落ち着いてッ! 羞恥心は理解できるけど、何も人殺しに手を染めるようなことじゃないからッ!」
「あ、貴方を殺して……続きをしてから、私も死ぬッ!」
「続きはするのかッ!? どれだけ溜まって──あ、ちょっと本当に待って冗談抜きで死ぬから刀を振り回すなぁ──ッ!!」
「うがあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
僕の静止の声は全く聞こえていないようで、少女は構えた刀を僕に目掛けて全力で振り下ろした。
身を捻り、床を転がり、迫る白刃を何とか回避する。
やばい。本気だ。この子は本気で僕を殺す気でいる。
冗談じゃないぞ。自慰がバレて羞恥心で我を忘れた乙女に斬り殺される最期なんて、笑い話に……ギリギリなりそうなのが嫌なところだな!
「に、逃がしませんよ……」
ズボ。
畳に埋まった白刃を引き抜いた少女は、次は殺す、と再び構える。
まずい。本当にまずい。
このまま斬り殺されるのは嫌だ。
ならば行動を起こすしかない。死の未来を回避するために、今の僕にできることは──一つしかない。
互いに視線を衝突させ、様子を窺うこと、数十秒。
僕は右腕を横に広げ──呼んだ。
「おいで──
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