第1番 母なる海原での不幸
「良い夜だな……」
暗闇に沈んだ天の頂、円環を成す鮮やかな緑色の
浸りたくなるほどの素晴らしい夜だ。
春の澄んだ空気は夜空を彩る月や星々が放つ光を阻害することなく地上へ届け、その美しさを余すことなく伝えてくれる。
風に当てられた絹と同じように揺らめく極光は既に見慣れたものではあったが、何度見ても圧倒される。まるで天女の羽衣のようで、僕の視線を引き付けて離さない。
また、場所も良い。
僕が天空の絶景を鑑賞しているのは、大海原を進む大船の甲板。
心を落ち着け癒す
場所も、時間も、環境も、全てが揃った絶好の月見日和だ。
眠気は既に襲ってきているけれど、もう少しだけこの時間を堪能したくて、僕は重い瞼を持ち上げ続けている。
「ここいたんですか、月輪帝様」
「
足音と声を発してこちらに歩み寄ってきた青年──僕の付き人である勇助を見やり、僕は彼に問いかけた。
「こんな夜遅くにどうしたの? また船酔いで眠れないとか?」
「違いますよ。寝床に貴方の姿が無かったので、心配して見に来たんです」
「心配し過ぎだ。僕はもう十八だよ。海に落ちたりなんてしないさ」
「と言いつつ、一年ほど前に転落していましたよね」
「昔の話。人は一年でとてつもない成長を遂げるものなのさ。憶えておくといい」
「ああいえばこういう……」
呆れと諦めの目を向けてきた勇助に『まぁ座りなよ』と促すと、彼は僕の隣で膝を折った。
「こんな寒空の下で星空観賞なんて、冷えますよ」
「大丈夫さ。寧ろ、この寒さが心地良い。いい具合に眠気も誘発してくれるし」
「ここで寝落ちしたら間違いなく風邪ひきます。夜の海風は信じられないくらい冷たいんですから」
「知ってる。けど、やめられないんだ」
僕は再び天上に視線を向ける。
三日月、極光、星々、流星。昼間には見られない夜の役者たちが勢ぞろいしている空は、あまりにも魅力的過ぎる。快晴の夜に空を見ないなんて選択肢は、僕の中にはないのだ。
僕と同じように夜空を見上げながら、勇助は退屈そうに言った。
「よくもまぁ、毎夜毎夜、変わり映えしない空を長々と眺めて居られますね。一分で退屈になります」
「変わらないということは、美しさもそのままということさ。人は美しいものに魅了されるものなんだから、僕が夜空の役者たちに惹かれるのは何もおかしなことじゃない。君だって、美しいものは好きだろう?」
「金とか銀とか、そういうものなら」
「それはちょっと違う。どちらかというと、金銭欲のほうだから」
どうやら、勇助には星空の魅力は理解できないらしい。
こればかりは仕方ない。人の感性はそれぞれ異なるもの。無理に理解しろというのは、あまりにも酷なことだ。
共感してもらえないなら、別にそれでも構わない。
僕は一人で楽しむから。
これ以上、空の話をしても勇助を退屈にさせるだけなので、僕は話題を変えて彼に尋ねた。
「あとどれくらいで、目的の国には到着するんだい?」
「三日と言ったところでしょうか。ここまで順調に進んでいるので、予定よりも早く到着しそうです。低麗ノ
「そっか。それは何より」
「いやぁ、楽しみですね」
笑みを深め、勇助は楽しそうに言った。
「世界一の奏世師である、月輪帝様の唄と世界を初めて聴くわけですから。きっと、客は皆こぞって驚くと思います。こんな唄は聴いたことがない、こんな世界は見たことがない、と」
「そんな反応をしてもらえると僕も嬉しいよ。あと、月輪帝は世界一ではなくて祖国──
「相変わらず謙虚ですね」
「僕が謙虚? まさか。奏世師は皆、傲慢だよ」
そうでなくては、やっていけない。
言って、僕は水平線の彼方を見つめた。まだ見えないその先にある、目的地を。
「……ちょっとした疑問なんですけど」
「ん?」
不意に、勇助は僕に尋ねた。
「月輪帝様は、かなり昔から称号の獲得を狙っていましたよね。異様なほどに執着して。なんでなんです?」
「異様と言われるほど執着していたとは思っていないけど……そうだね」
何と答えようか。
少し悩んだ末、僕は過去の出来事をわかりやすく要約して、説明した。
「昔、僕が五歳の時に、約束したんだ」
「約束ですか」
「うん、僕の初恋の人とね。僕はいつか世界一の奏世師になって、再会した君に世界を披露するって。その約束を果たすために、幼い頃の僕は躍起になって修行に励んだんだよ」
「うわぁ、甘酸っぱい約束ですね」
「同時に凄く重い約束でもあったよ。世界一の奏世師になるなんて、普通に考えたら不可能だからね。だからこそ、僕は死ぬ気で頑張った」
「才能と努力の賜物ってわけですか」
「そうだね。どちらか片方でも欠けていたら、月輪帝の称号は得られなかったよ」
「でしょうね。それで、無事に世界一の奏世師にはなれたわけですが……その初恋の子と再会することはできたんですか?」
「まだだよ。そもそも再会できるかどうかは、神様だけが知っている。僕たちの努力だけではどうにもならないことだからね」
「? どういうことです?」
「さぁ、どういうことだろうね」
はぐらかし、僕は立ち上がって大きく伸びをした。
「そろそろ眠るよ。君も夜更かしせずに、寝るように」
「誰のせいで起きたと思っているんですか……」
不機嫌そうに言葉を返して立ち上がった勇助に笑いながら、僕は寝床へ向かった。
三日後に到着する目的地、低麗ノ国のことを思い浮かべて。
◇
結果から述べる。
僕は低麗ノ国に辿り着くことができなかった。
原因は、翌日の早朝に発生した大嵐。
青い快晴が広がっていた空は瞬く間に曇天に覆われ、殴りつける強風によって海面は荒れに荒れ、叩きつける大粒の雨が視界を奪った。
如何に頑強に造られた船であっても航海は不可能なほどの悪天候。
暴れる海と風の猛威に大船は耐えることができず、暴走したのだ。
頻繁に船頭の方角を変え、荒波に上下し、左右に揺れ、何度も沈みかけた。
進路を気にしている余裕なんてない。船員は大船が海中に沈んでしまわないように神へ祈り、また振り落とされることがないように、大船のあちこちにしがみついた。
海の藻屑となり、魚の餌にならないように、必死に、懸命に。
しかしそんな皆を嘲笑うかのように、波は容赦なく荒れ狂い、雨は強さを増していく。全員の体力と体温を着実に削っていく。
人間は自然には勝つことができない。
そんな当たり前の現実を突きつけられた僕たちはやがて、大船にしがみつく体力すら底を突き──。
「桐姫様……」
航海を共にした仲間たちが次々と海に落ちていく姿を目の当たりにしながら、かつて再会を約束した最愛の少女の名を呟き──荒れ狂う海に落ち、意識を手放した。
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