宵月の奏者は世界を奏でる
安居院晃
第一節
プロローグ
「そろそろ、お迎えが来るみたい」
広大な敷地面積を有する屋敷の一室に、生命力の枯渇した弱々しい声が木霊した。
新しい畳が敷かれた、居心地の良い部屋だ。蝋燭に灯る火などの光源はないけれど、開け放たれた廊下側の襖から齎される月光のお陰で十分に明るい。
そんな部屋の中央に敷かれた布団の上に、声の持ち主は横たわっていた。
齢九つ。
まだ親に縋り、甘えていても何ら不思議ではない子供だ。美しい白い髪が特徴的な、精霊のように可憐で儚い少女。荒い呼吸を幾度なりとも繰り返し、必死に笑みを作る顔の色はとても悪い。
誰がどう見ても、健康とは程遠いと判断するだろう。否、不健康どころか、もうじき死んでしまうとすら思うはずだ。
くたびれた花のように、彼女は弱々しい。
「……やめてください、
少女の枕元で正座をしていた僕は膝の上に乗せた手の甲に幾つもの涙を落とし、濡らし、しかしそれを拭うことなく、喉奥から震えた声を絞り出した。
「迎えが来るなんて、死ぬなんて、言わないでください。まだわからないではありませんか……まだ、まだ、生きられるかも──」
「無理だよ、
希望に縋る僕に、桐姫様は悲しい現実を突きつけた。
「私が助かることはない。自分の命のことだもん。死神様のお迎えがすぐそこまで来ていることは、私が一番わかってる」
「でも……でもッ!」
「泣かないの。かっこいい男の子でしょう?」
感情を隠すことなく溢れさせる僕に苦笑しながら桐姫様は言い、細く白い腕を僕の頬に伸ばした。
だが、持ち上げたそれを維持するだけの力を、彼女は持ち合わせていない。伸ばした途端、腕は力なく掛け布団の上に落ちた。
それに気が付き、僕は桐姫様の冷たい手を自分のそれで包み込んだ。
自分の体温を分け与えるように、痩せ細った手を慈しむように、優しく。
「桐姫様……」
僕は桐姫様の手を包む両手の力を微かに強めた。
胸の内側で悲しみの感情が強くなる。それを意識する度に、自覚する度に、形になった感情が目から零れ落ちる。止まることなく、次から次へと。
泣くのは当然だ。
今にも生命活動を停止させてしまいそうな彼女は僕にとって、自分の命よりも大切に想っている相手。数え切れないほど沢山の尊い思い出を作った仲であり、自分の初恋を奪った相手であり、姉のように慕っていた家族。
世界で一番大切な人との、永劫の別れだ。
大人たちからは早熟で年齢不相応な内面をしていると言われるけれど、僕はまだ齢五つの子供。僕にとって桐姫様は精神的な支柱。心の拠り所を失った後、何に縋ればよいのか、何を頼りに生きればよいのか……。
「約束しよっか、彗明」
唐突に、桐姫様は僕に言った。
「もしも、もしも、私が輪廻を巡って、再びこの世に生まれ落ちることができたら……私たちは必ず、再会しよう。そして、その時は、もう一度貴方の世界を聴かせて。世界一の
「……はいっ」
潤んだ目元を片手で乱暴に拭った後、僕は首を縦に大きく振った。
断固とした決意を、心に宿して。
「約束します、桐姫様。僕は必ず、世界一の奏世師になって……生まれ変わった貴女に唄を、世界を、披露します。例えどれだけの時間がかかろうと、必ず」
「うん。いい返事だね……楽しみにしてる。私の彗明」
僕の返事を聞いた桐姫様は満足そうに頷き、視線を天井の木目に移した。
瞳に宿る生者の光は薄い。荒かった呼吸も弱くなり、絡めた指から伝わる心音が小さくなっていく。
桐姫様は、本当に、もう……。
非情な事実に、現実に、僕の瞳には再び涙が現れた──と。
「ねぇ、彗明」
天井を見つめたまま、桐姫様が僕に言った。
「最後に……貴方の世界を、聴かせてくれないかな。今の貴方が、創る……美しい世界、を、私に」
「……勿論です」
最愛の人の、最後の願い。
それを叶えるため、僕は傍らに置いていた多弦の琵琶を手に取り、弦を弾き、それを奏でた。
桐姫様に贈る──最後の世界を創った。
◇
まもなく、桐姫様は永遠の眠りに就いた。とても穏やかで、安らかな御顔のまま。
彼女が九年という短い生涯に幕を下ろした後も暫く、僕は琵琶を奏で続けた。天に召した彼女の魂に音色が届くことを願って。
いつの日か、生まれ変わった彼女と再会できることを祈って。
そして……この日から丁度十三年の年月が流れた頃。
桐姫様との誓いを果たし、世界一の称号を手にした僕の人生に──大きな転機が訪れた。
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