優しい人

一の八

優しい人



「ここのコーヒー好きなんだよね」テーブルの上には、運ばれてきたばかりのホットコーヒーが2つ置かれていた。

私は、この店の雰囲気も好き。それも相まってか余計にここのコーヒーが美味しく感じる。




「そうなんだ。いつもと同じように感じるけどな」

ケンタは、一口飲んで答える。


先ほど頼んだコーヒーが湯気を上げている。


「優しい人と、優しくない人。どっちがいい?」


目の前に座るケンタは、いつもと違う、真剣な眼差しで私を見つめていた。




「え?急にどうしたの、それ。心理テストか何か?」


いつもの冗談交じりの会話だと思っていた。普段から少し変わってるところがあるけど、

それも含めて私はケンタのことが好きだ。

だから、いつも通りの軽口だろうと考えていた。


「どっちがいいか、ちゃんと教えて。」


いつもなら微笑んでいる彼の顔は、無機質なアスファルトのように固く閉ざされている。

コーヒーの香りが鼻を抜ける中で、その緊張感だけが異質感じる。


「もちろん、優しい人に決まってるじゃん。」


そんなの、わざわざ聞かなくてもわかってるよね、と軽く返すつもりだった。

でも、彼の反応は違った。何かが違う。


「そっか……優しい人ね。」


ケンタは小さく息をついた。




まるで何かが終わったかのような、重い息。次の瞬間、彼の口から出た言葉が私の心を一瞬で凍らせた。


「じゃあ、今日で俺たち、別れよう。」


「……え?」


その一言が、頭の中で何度も反響する。


理解できない。たった今、優しい人がいいって話をしたばかりじゃないか。別れる?なんで?


「なんで、急にそんなこと言うの?」


私の声は震えていた。彼の顔をじっと見つめるけど、ケンタは視線をカップのコーヒーから離さない。


「前からずっと考えてたんだよ。」

ケンタは、声を抑えながら話す。



いつも穏やかだった彼の声が、今日は遠く感じた。


「私たち、うまくいってるじゃん。何も問題ないよね?」


言いながら、自分の言葉が空回りしているのを感じた。確かに今まで大きな喧嘩はなかったし、笑い合う時間もたくさんあった。なのに、何が足りなかったんだろう?


「うまくいってるように見えるのは、外からだよ。でも俺の中では、ずっと違和感があった。」


「違和感って……?」


ケンタが何を言おうとしているのか、言葉を探しているように見えた。その沈黙が耐えられなくて、私は彼を問い詰めたくなる。


「美咲は、優しいよ。本当に優しい人だと思う。だから、俺もその優しさに甘えてたんだと思う。」


彼の言葉に胸が締め付けられる。甘えていた?それって、どういうこと?


「でも、俺は……。」


ケンタは一度目を閉じて、大きく息を吐いた。私は、耳を塞ぎたくなった。

この先を聞かなければこのまま関係性が続くかもしれない。そんな淡い期待があったから。


「俺は、本当は男の人しか好きになれないんだ。」


その瞬間、何かが崩れる音がした。



いや、崩れたのは私自身かもしれない。彼の言葉が蛇口の水のように、ただ、流れていた。


自分に向けられた言葉だと理解するのに時間がかかった。


「……男の人?」


言葉が喉に詰まって出てこない。ケンタの顔を見ているのに、まるで見えない。現実が曖昧になっていく感覚。目の前にいるはずの彼が、遠い場所にいるような気がした。


「そう。だから、君とは一緒にいられないんだ。」


その一言が、すべてを突き放した。私の心に穴が空いたように、ケンタが私の世界から消えかかっている。何をどうすれば、この状況を戻せるのか、頭の中は真っ白だ。


「そんなの……。」


言葉にならない。自分の中で何かが壊れていくのを感じながら、必死に思い出そうとする。私たちはずっと一緒だったはずだ。何が違ったんだろう?いつから?


「優しい人がいいって言ったじゃん……。」


言葉を絞り出した。これ以上、何を言えばいいのかもわからない。彼はいつも優しかったはずなのに。


「美咲には、もっとちゃんとした優しい人が必要だよ。俺みたいに、嘘をつく人間じゃなくてさ。」


ケンタの声は優しかった。


でも、その優しさは今の私にとって、ただの冷たさでしかなかった。


「だから、君に本当の優しさを返せなかったんだ。」


私はもう、何も言えなかった。


涙がこぼれるのをこらえるのに必死だった。ケンタの告白は、私の中にあるケンタと思い出をひっくり返した。彼を責めたい気持ちも、理解したい気持ちも、全部がぐちゃぐちゃになっている。


「この後、予定があるから、先に出るね。」


ケンタは伝票を手に取り、立ち上がった。いつもの穏やかな顔で、いつものように去ろうとする。


「お金は払っておくから。」


「……ありがとう。」


私は力なく答えた。それだけが私にできたことだった。彼は立ち去り、私を残して店を出て行った。


カップを手に取る。冷めたコーヒーが、喉を通る。まるで私の中の感情を反映するかのように冷たい液体が体を冷やしていく。


「温かいの、頼もうかな。」


そう思ったけど、やめた。まだこんなにも残っているから。ケンタが最後に奢ってくれたこのコーヒー。




だけど、その温かさは、

…もう戻ってこない


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優しい人 一の八 @hanbag

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