第11話
シユとお母さんの二人は観念して階段を下っていた。
「ってか、よく考えたら、この手があったわ! そのために持ってきたといたのを忘れてたわ」
とある作戦を思い付き、お母さんは大変、上機嫌であった。
現在、シユとお母さんの前方には、ドローンが飛んでいる。
ドローンを先に行かせ、その映像を後方の二人が確認しながら進むという作戦である。
階段の怖いところは、階段部分と階段部分の間……踊り場付近で、毎回、下階側が死角になるところである。だが、
「これなら急に天使に出くわすこともないし、安全! 流石、我が社、サイバードリーム社製の製品だわ!」
「お母さん……なんて皮肉を……」
死角になる箇所でドローンを先に行かせる。
そうすることで、天使とばったり鉢合わせるリスクを大幅に軽減することができたのだ。
この作戦は功を奏し、二人の階段下りは順調に進行する。
そしてついに1階まで到達する。
「あぁー、足だるいよぉ」
「そうだね……」
二人とも緊張感もあり、かなり疲れていた。
「でもお母さん、この扉を開けたらいよいよエントランスホール、もうひと頑張りだね」
「そうね」
階段部分からエントランスホールへ出る前には重い扉があった。
「はぁ……扉は毎回、ドキドキするわね……ドローンの偵察も使えないし」
「そうだね…………今度は私がやろうか?」
「え? いいの!?」
お母さんは飛びつく。
「うん……やるけど……」
「あー、でもやっぱりいいや、私がやる」
「え? でもお母さん、怖いんじゃ?」
「怖いさ……でも、私はお母さんだからさ……」
そう言って、お母さんは前に出る。
「よし、いくわよ…………3、2、……1、GO!」
お母さんは掛け声のわりにゆっくりと扉を開ける。
「うーん、あれ……?」
お母さんは素っ頓狂な声をあげる。
「どうしたの? お母さん」
「うーん、意外と天使いなくて」
「え? 本当?」
シユもお母さんの背中越しに首を伸ばす。
「本当だ! ラッキーだね!」
「ちょっと拍子抜けだけど、楽できるならそれに越したことはないわね」
そう言って、二人はエントランスホールに出る。
そして出口を目指す。
「あぁー、よかったね、お母さん、これでひとまず第一関門クリアー……」
シユが意気揚々とそんなことを言いかけた時だった。
「シユ、止まって」
「えっ!? ちょ、うわぁああ!」
お母さんがシユに覆いかぶさるように押し倒す。
「えっ、お母さん、どうし……」
と聞きかけた時に、ドーンという衝撃音がエントランスホールに響き渡る。
「やっぱりそう簡単にはいかないみたいね……」
お母さんは、シユの上ですでに腰を上げ、振り返るように出口方向を見つめていた。
シユもその方向に目を向ける。
「っ……! な、なにあれ……」
そこにはウネウネと触手のようなものが八本生えた奇妙な生物がいた。
しかし、背中には翼、頭には光るリングがある。
体格もそれほど大きいわけではなく、人間と同じくらいだ。
「おそらく……天使かしら……」
「うそ……あんな奴、今までいなかった……それに一体どこから……」
「タコみたいに周囲の色に混じって身を隠していたのかも……見て、あの
お母さんは身震いする。
と、ほぼ同時に奇妙な
「うわぁ、来たぁあ」
お母さんは情けなく叫びながらも、次々に襲い来る触手を刀で切断する。
だが……、
「嘘でしょ……」
お母さんは思わず呟く。
蛸天使の切断された触手が瞬く間に修復されていたからだ。
そして、蛸天使はすぐに攻撃を再開する。
「あぁ、もう勘弁してよぉお」
お母さんは迫りくる触手を懸命に迎撃する。
その様子は鬼気迫るものであった。
「わ、私も……!」
シユも刀を強く握り、一歩前へ出ようとする。
しかし……、
「シユちゃん、ごめん……!」
「えっ……? きゃぁあ!」
シユは、お母さんに
幸い、背負っていた枕が衝撃を吸収し、シユ自体に被害はなかった。
だが、その拍子に背負っていた荷物を落としてしまう。
「お、お母さん……?」
「シユちゃん、逃げなさい」
「え……?」
お母さんは触手による激しい攻撃を迎撃しながら背中越しにシユに指示を出す。
「ドローンにつかまって、2階から飛び降りるの。あなた一人ならきっと大丈夫」
「そ、それならお母さんも……!」
「ごめんね……それがちょっと難しそうで……」
「っ……」
よく見ると、すでにお母さんの身体には無数の傷がついていた。
その姿からシユにも母の意図することはわかった。
「で、でも……お母さんだって怖いんでしょ!?」
「怖いさ……」
「なら……!」
「怖くても、震えあがっちまっても、それでも……子供の前で格好つけたがるのが親ってもんさ」
「っ……!」
二人が会話している間も、蛸天使は攻撃の手を緩めることはない。
ただ淡々と決められた役割をこなすだけのプログラムのようで、シユは底知れぬ恐怖を覚える。
「行きなさい……〝ジュエル〟……お願いだから……」
「っ……! お母さん……っ……」
そんなのは絶対に嫌だけど……、
だけど次の言葉がもしかしたら最後の言葉になるかもしれない。
そう思うと言葉が出てこなかった。
「あ、シユちゃん、行く前に一つ伝えたいことがあった。私の部屋にノートパソコンあるでしょ?」
「え……?」
「あのパスワードが……」
なんで今、それを?
シユは少し怒りすら覚えた。
そんなのは絶対に嫌だけど……、
だけど次の言葉がもしかしたら最後の言葉になるかもしれないのに。
だが、お母さんは続けている。
「Tjps92#jd98f$daS……最初と最後だけ大文字で、あとは全部小文字だから……」
「え……? あ……」
「それじゃあ、シユちゃん、行きなさい! 振り返るんじゃないよ!」
「っ……!」
シユは駆け出す。
必死だった。
シユの頭の中、そして感情はぐちゃぐちゃだった。
ただ、一つ、お母さんに伝えたかったことがあった。
ごめん……お母さん……ごめん……、
そんな長いパスワード、覚えられないよぉおおお!
シユはお母さんの指示通り、2階からドローンに捕まり飛び降りる。
このマンションはデザイン性のためか1階の天井が非常に高く設計されていた。
だから2階といってもかなり高くて、飛び降りるのには決心が必要であった。
荷物は1階に落としてしまっており、残っているのはドローンと刀だけだった。
そうしてシユはお母さんの言いつけ通り、振り返ることなくスーパーマーケットへ向かったのである。
シユはスーパーマーケットでお母さんが来るのを待った。
だが、お母さんが来ることはなかった。
◆
「その後、結局、どうしても眠ることができなくて……それで、マンションに枕を取りに戻ったんでした……」
「「……」」
ラミエルとリスナーは真剣な眼差しでシユの話を聞いている。
「そうしたらですね……お母さんも蛸天使さんもいませんでした。でも、枕だけはありました。それも綺麗な状態で。私はお母さんがいなくなったことが受け容れられなかったのか……記憶がちょっとあいまいになってたのかもしれないですね……」
シユは苦笑いする。
と……、
「え……? あ……ちょ……ラミちゃんさん……?」
そんなシユを、ラミエルは思わず抱きしめていた。
「……よく……頑張ったな……シユっこ……」
「……えへへ……そうですか? ありがとうございます……」
シユはラミエルの旨に顔をうずめる。
「ありがとう…………ありがとう……って伝えたかったなぁ……お母さんに……」
「……」
ラミエルは旨の辺りが冷たくなるのを感じた。
だから、より一層、強く抱きしめた。
シユは最後に何も言葉が出てこなかったことを後悔していた。
……
その後、三人はイカダ作りの作業をすることにする。
リスナーとラミエルは、シユに今日くらい休んでもいいんじゃないかと提案した。
しかし、シユは「前向きなことが取り柄ですから!」と作業をしたがった。
イカダは簡易なものであれば、それほど難しくないことがわかった。
ものすごく省略して言うならば、
浮力となるもの(ペットボトルやポリタンクなど)の上に木材を乗せれば出来上がりだ。
幸い、ホームセンターは材料や工具に困ることはない。
三人は、それぞれ分担し、イカダの工作をしていた。
そんな時……、
「あ……そうだ……、さっきの話の中で、やっぱりお母さんはちょっと何かを知っているような感じでしたよね……? 免疫のこととか……」
シユが思い出したかのようにリスナーとラミエルに尋ねる。
「「……そうだな」」
リスナーとラミエルは同意する。
「…………となると、やっぱり手がかりはお母さんの部屋のノートパソコンかな……中に何かデータが残ってるってことですよね……」
「まぁ、そういう期待はしちゃうよな……」
ラミエルが同調する。
「じゃあ、やっぱり一度、うちに戻らなきゃですよね……ただ、問題は…………パスワード全然覚えてないんですよね……最初と最後だけ大文字で#と$が入ってることだけ覚えてるんですけど……あー、困ったなぁ……もう一回、夢にでも出てくれないかなぁ……」
シユはそんなことを呟く。
その日は、そのことについてはそれ以上、話さなかった。
……
翌朝のことだ。
シユは目を覚ます。
「あぁ、おはよう……シユっこ」
目を覚ますとラミエルがすぐに声をかけてくれる。
ドライで淡白な声質であるが、シユにとってはとても安心する声だ。
「おはようございます、ラミちゃんさん……リスナーさんは?」
「さぁ、まだ寝てるんじゃない?」
確かに近くにカジロイドがあるが、機能停止しているようだ。
とはいえ、リスナーは普段から朝は割と遅かったりするので、その日が特別というわけでもなかったが……、
と、シユは自分のデバイスに一通のメッセージが来ていることに気が付く。
【Tjps92#jd98f$daS】
「最初と最後だけ大文字で#と$が入っている……こ、これは!?」
それはお母さんのノートパソコンのパスワードであった。
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