2.千代丸君

 その日、壱蔵は嫡子・千代丸に呼ばれていたのだった。


 千代丸がしているのは屋敷の奥、庭園に面した日当たりの良い部屋であるが、秋風に当てる事を心配した生母によって障子は閉め切られていた。部屋の空気は陰鬱なまでに澱んでおり、壱蔵は下座で平伏しつつ顔をしかめたのであった。


「お召しにより、参上仕りました」

「見苦しき姿で相済まぬ。皆の者、外せ」

 布団の中で上体を起こした千代丸は、しきりに彼の世話を焼いていた生母のお蘭の方と、何かと家臣を呼びつけては小煩い命令を下す江戸留守居役・御子柴主膳を遠ざけた。

 人払いを終えて千代丸と二人きりになって尚、壱蔵は下座に座したまま動かなかった。

「構わぬ。聞き耳を立てている者には好きに致させよ。千代はのう、嫡子の座等誰かにくれてやっても良いと思うておる」

「若君」

「近う、近う参れ」

 千代丸の請いに、壱蔵は遠慮がちに膝を進めた。が、突然千代丸が咳き込んだため、目付という身分を忘れて思わず上段の間に駆け上がり、千代丸の痩せた背中をさすっていた。


 18になった千代丸だが、嫡子とは表向きで、その病弱故に父・明憲にあまり愛される事の無い少年であった。大名家の嫡子でありながら、千代丸はまだ元服とて迎えていない。


「おいたわしや……」

 生まれてこの方滅多に陽の光を浴びる事の無かった肌は白く透き通り、食の細いその体は少女のようである。子供のような前髪姿といい、どう見ても千代丸の外見は15、6、下手をすると壱蔵の末弟で15になる志免よりも幼く見える。

「私は父上の眼鏡に叶う息子にはなれなんだ。だが、加山の血を受ける者として、この家を取り潰すような愚は何としても避けたい。私の死でこの藩が救えるのであれば、壱蔵、今すぐこの命を奪ってたもれ」

「埒もなき事を」

「私に弟がいると聞いた。幾つになる」

「御年15に」

「そうか。壱蔵は、弟達が可愛いか? 」

 壱蔵ははにかむような照れ笑いを見せた。

「兄弟とは良いものだ。私も、その鶴丸とか申す弟に会うてみたい。そして、この加山の家の行く末を託しておきたい」

「若君……」

「母上と御子柴が何を致そうとも、おまえは加山の命運を守ってたもれ。必ずや弟を嫡子として届け、公儀の手から守ってくりゃれ」

 壱蔵は、さすっていた手を背中から回し、骨と皮だけの痩せた手を掴んだ。そして、そのまま両腕で小さな体を抱き締めた。


 この少年は既に、自らの死期を悟っているのだ。故に、こうして自分が決して加山家の害とならぬよう壱蔵に遺言しているのだ。父に愛される事の無かった子だというのに、残り僅かな命を賭して家の礎になろうと思い定めているその心が健気で、哀れでならなかった。


「この千代丸の、最初で最後の下知じゃ」

 仁介ならば、こんな時に気の利いたことを言って励ますのであろうが、生憎と壱蔵には、空々しい言葉を紡ぐだけの肚がなかった。

「母と御子柴の策から、弟を守ってたもれ」

「愛洲壱蔵、一命に代えましても」

 腕の中で、千代丸が息を乱した。

 壱蔵は壊れそうな体を包みながら、ゆっくりと綿布団に横たえた。

「壱蔵のような兄が、欲しかったのじゃ」

「私のような無骨者が兄では、さぞ退屈なされましょう」

「楽しや。壱蔵でも軽口を言うのじゃな」

「弟には唐変木と言われました」

「じゃが、壱蔵は一度も、千代に嘘は吐かなんだ。故に、お前が好きじゃ」

「さぁ、あまりおしゃべりをなさるとお体に障ります故」

「甲賀の里とは、どのようなものであろうのう。千代はこの屋敷しか知らぬ。今度、連れて行ってたもれ」

 壱蔵は答えられなかった。

「わかっておる。私にその刻は無い。だから正直者だと言うのだ、壱蔵は」

「若君……お許しを」

「庭が、見たい」

「しかし……いや、暫しお待ちを」

 壱蔵は頷き、上段の間の襖を開け、続いて下段の障子を全て、がらがらと開け放った。

「何を致す、気でも触れたか! 」

 廊下で聞き耳を立てていたであろうお蘭の方が金切り声を上げたが、壱蔵は頓着しなかった。

「今日は秋晴れの良き日でござる。このように閉め切った部屋では気力も増しますまい。如何でござるか、若君」

 上段を振り仰ぐと、千代丸は横たわったまま、青白い顔だけを庭の木々に向けていた。


 グッと涙を堪えるように唇を噛み締め、壱蔵はお蘭の方の罵声を背中に浴びつつ部屋を立ち去ったのであった。




 

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