2・若君
1.唐変木
近江国水目藩2万1500石・江戸上屋敷。
規模としては小藩に属する所帯ながら、藩祖である
数えて3代目である当主・
加山家は徳川家への忠節篤く、武芸を重んずる家系である。故に明憲も度々鷹狩りを行うなどをして臣下の武芸鍛錬に力を注いでいたが、先日、国許から程近い伊賀の峠道への遠駆けの際に落馬し、床に付いていた。
まだ39歳という若さでありながら、その憔悴ぶりは激しく、長年明憲を補佐していた国家老の
譜代の大大名が軒を連ねるここ駿河台に、水目藩は上屋敷を与えられていた。
質実剛健を旨とする加山家らしく、華美な庭園とて持たぬ簡素な邸宅であった。
江戸詰めの目付職として多忙を極める愛洲壱蔵は、公務に取りかかる前の早朝に、弟の仁介を執務室に呼びつけていた。
壱蔵は藩士として邸内に長屋の一間を与えられているが、仁介は、程近い堀沿いの
一町隣りの
早朝兄の呼び出しに応じて現れた仁介は、江戸生まれの江戸住まいらしく、
「兄上、仁介にございます」
屋敷の女中達が手本にしている程の柔らかな物腰で、仁介は壱蔵の了解を得て居室に入った。中では、愛洲の
「遅い」
甲賀生まれの甲賀育ち、かの柳生新陰流の祖といわれる愛洲陰流
既に妻帯して国許に愛妻と一男一女を残している。
「朝から
壱蔵が、仁介の出で立ちを一瞥してそう呟いた。早朝からしっかりと裃姿に身支度を整えている人物の苦言に、仁介は反論無用とばかりに肩を竦めておどけてみせた。
「昨日、柳沢様のお召しがあったと聞く」
お召しとはまた、奥歯に物の挟まったような言い方をする……仁介の中で悪戯の虫が頭をもたげていた。
「はい。今朝まで一度も寝かせては頂けませなんだ。ああ、眠いやら腰が痛むやら」
ふわぁと欠伸をして見せる仁介の前で、壱蔵は咄嗟に難しそうな書物に目を向けて耳まで顔を赤らめた。
次期江戸留守居役とも称される出世頭だが、どうもこの方面には免疫が無いようである。故に、政治的な駆け引きに男女の情やら色やらの匂いを嗅ぎ付けると、壱蔵は決まって仁介に押し付けるのであった。
「柳沢様は美形なら誰でも取って食べてお仕舞いになるような色狂いではありませぬ。兄上にはまさか触手を伸ばすこともございますまい。一度お目にかかれば宜しいのに」
軽口なのか嫌味なのか解りかねる口調で、仁介がからかうように言った。
「おまえは前置きが長い。結論を申せ」
照れ隠しに、壱蔵がその切れ長の眼を三角にした。黙っていれば苦味走った中々の美丈夫だが、いかんせん滅多に消える事の無い眉間のシワとこの三白眼が、余人を引き寄せぬ難し気な雰囲気を作ってしまっていた。
「はいはい。結論から申せば、柳沢様は全てお見通しでございました」
「やはりな」
「望月のお爺様が手元にて殿の
「声が高い。この屋敷には千代丸君がおわすのだ」
「その若君御病状まで、あの方の耳に。亡くなられた後で鶴丸君を御次男、御嫡子として届けようとも、公儀は到底、受理できぬと」
「難癖をつけて取り潰しの名目にする腹か」
「ええ。で、若君のご容態は」
「芳しゅう無い。お蘭の方様や御子柴様も手を尽くしておられるが、何とも」
「然様で。して、国許からは何か」
壱蔵が、襟元から一本の
「
燦蔵とは、壱蔵と仁介の弟で、甲賀望月流の上忍として水目藩国許にて忍の差配に当たっていた。彼らには今一人、志免と言う弟もあり、燦蔵の手元で修練を積んでいた。
「やはり、殿へのお薬に微量の毒が混入されておりましたか」
「うむ。だが、殿の密命にて、黒幕の追及はお預けとなった。今は国家老の八千沢様が医師にまで目配りなされてご病状はご回復の兆しにあらせられる。この後は速やかに鶴丸君を江戸藩邸にお迎えし、御次男として公儀に届けると同時に改嫡の手配りをとの御心だ」
「賢明にございます。まずは国許やこの上屋敷を望月衆にて固め、公儀の犬を一歩たりとも入れぬ事。柳沢様は、次なる御取り潰しの狙いをこの水目藩に向けようとなされております。何としても、守らねばなりませぬ」
「無論だ。藩祖良明公は、伊勢五カ所浦の豪族でありながら織田信長に討ち滅ぼされた我が愛洲の血筋を、水目藩転封の折に高禄で御取り立て下された。御当代様は、若くして他界した父に代わって出仕した14の私を、ご厚情を以て御導き下さり、そして……」
仁介は黙って懐紙を差し出した。この話になると決まって壱蔵は号泣するのである。
「兄上、さぁ兄上、我ら弟三人、兄上の教えは心にしかと留め置いてございます故、ご安心を」
壱蔵は派手に鼻をかみ、汚れた懐紙を丸めて天井に投げた。
ことりと音を立てて天井の板目に当たった懐紙が落ちるより早く、壱蔵は刀を抜いて刃先を天井の板目に突き刺した。
仁介は、先程から話を伺っていた天井裏の鼠が、壱蔵の見事な一撃によって絶命した事をその気配で確信した。
「余り間は無い。私は表向きは御子柴に従う風を装い、一派の動きに目を光らせる。おまえは燦蔵を助け、暫くは繋ぎに徹してくれ」
が、仁介の顔はあまり乗り気では無い風で、柳眉を歪めて不平の意を露にしていた。
「田舎は嫌だ等と申すなよ」
愛洲の嫡男として厳しく育てられた壱蔵に対して、仁介は早くからその美貌を生かすべく江戸の望月衆の元で育てられた。侍としての生き方というよりは、技芸者としての自由さが染み付いており、嫌なものは嫌だと顔を顰めて口にしてみせる。
「田舎も嫌ですが、あの単細胞のお守りをするかと思うと……」
「仁介」
「その上、例の鶴丸君、ウチの
「これっ」
「単細胞に泣き虫に性悪」
「そういうおまえは道楽者ではないか」
しつこい我儘につい壱蔵が返してしまった途端、仁介の美しい眦がキッと釣り上った。
「唐変木の誰かさんに言われたくはありませんね」
「とうへ……仁介っ! 」
壱蔵が拳を振り上げるより早く、仁介は風のように執務室から姿を消していた。年頃の娘のような扱いづらさに、壱蔵は深く溜息をついたのだった。
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