壊れたもの


 ――――週明け。

 いつもより早く登校したわたしは、例の祠へ行こうと校舎裏に回った。

 でも祠へ続く道には立入禁止のロープが張られていて、ロープの真ん中には手書き文字で『整備中』と書かれた紙が下がっていた。

 どうやら話していたとおり、あのあとすぐ作業をしてくれていたらしい。

 わたしはなにも出来ないもどかしさを覚えつつも、素人が余計なことをして事態を悪化させるわけにはいかないと、踵を返した。

 だいぶ早く来たから当然だけど教室には誰もいなくて、遠く下のほうにある職員用玄関や職員室、部活の朝練がある体育館の声が良く聞こえてくる。日常を過ごす場のちょっとした非日常感が新鮮で、机に突っ伏して目を閉じた。そうするとより聴覚が研ぎ澄まされて、心地よい雑音に包まれる。

 どれくらいそうしていただろうか。うっかりウトウトしていたわたしの耳に、扉を開ける音が飛び込んできて反射的に体を起こした。

 わたしが思いの外勢いよく跳ね起きたせいか、入ってきた人は目を丸くして入口のところで立ち止まっている。


「あ……お、おはよう……?」

「え、うん。おはよう」


 教室に入ってきたのはいかにもな真面目ちゃんって風貌のクラスメイトだ。背中の真ん中辺りまで伸びた黒髪を低い位置で二つ縛りにして、スカートも規定の長さで、おまけに眼鏡。まるで委員長の素材イラストをそのまま抜き出したみたいな子。

 困惑しながらも挨拶してくれるくらいには、性格も真面目っぽい。

 真面目ちゃんは自分の席について、鞄から教科書を含む今日の授業で使うものを、まるで手品みたいに次々取り出した。わたしは不真面目ちゃんなので教科書は学校に置きっぱなしだし、持ち帰るとしたら課題が出たものだけだ。普通に重いし。

 それからチラホラと登校してくる生徒が増え始め、教室だけでなく廊下も賑やかになっていった。非日常感は儚く消え、よく知る喧騒が学校内を満たしていく。


 朝のHRが始まるまでの時間は、生徒にとって貴重な雑談タイムだ。

 わたしも例外じゃなく、十分前くらいに登校してきた友人たちと何でもない雑談に興じていた。


「そーいえばさあ、昨日三年の先輩が事故ったんだってね」

「え……?」


 三年の先輩、という言葉に、心臓が嫌な音を立てた。

 友人は「笹本先輩ってんだけど」と前置いて、聞いた話を並べていく。


「西区で遊んでたら駅近くでナンパに遭遇して、振り払おうとしたらバランス崩してこけて、そんで近くの花壇かなんかに頭ぶつけたんだって。いま入院してるらしい」

「えーヤバいじゃん」

「ねー。しかもナンパ男は救急に通報しないで逃げたんだって。最悪じゃね?」

「西区の男なんかゴミしかおらんじゃん。妥当っしょ」


 友人は完全に他人事って感じだけど、わたしはそれどころじゃなかった。よろけて頭をぶつけただけで入院なんて、そんなことになるだろうか。それともぶつけたのが頭だから、念のための検査入院とか?

 あれこれ考えていたら、友人がわたしの顔をじっと覗き込んでいた。だいぶ近くで見られていて、思わず体が仰け反る。


「な、なに?」

「や、ちょっと顔色悪いよ? 大丈夫?」

「あ……うん、大丈夫。確かいま西区駅のとこにある花壇って煉瓦っぽかったから、痛そうだなって想像しちゃっただけ」

「あーね」


 うちの市の西区は、繁華街エリアが広がっていて治安が悪い。特に女子は母親から西には近付くなと教わって育っているくらいに。

 そんな西区が、少しでも治安を改善しようと緑化したり、色々がんばってるうちの一つが駅前花壇だ。でも植え込みにゴミをねじ込んだりP活の待ち合わせスポットになったりで、効果はいまひとつみたいだけど。

 そんな話をしていたら、今度は別グループの会話が耳に入ってきた。


「高橋先輩さあ、妊娠発覚して退学なったってマジ?」

「マジマジ。うちの部の先輩が言ってた。同クラなんだって。しかもあの人、ヤッた男の一人に迫ったら俺だって証拠あんのかとか言われて、いまメンヘラなってるよ。アカウントが確か……ほらこれ。キショくね?」

「うわヤバ。めっちゃポエム。自業自得過ぎてウケんだけど」

「てかヤリマンのヤニカスでしょ? 寧ろなんでいままで学校きてたんって話。元々うちの部にいたんだけど、マンカスのせいで評判悪くて最悪だったから消えてくれて清々したわ」

「あー、一時期女バスのこと悪く言う奴いたもんね。全員簡単にヤれるって噂されてマジ迷惑そうだったわ」


 聞き耳を立てるつもりなんかなくても、大して広くもない教室の中。しかも会話の主である二人組はわたしたちの斜め前。普通の声量でも充分聞こえてしまう。


「高橋先輩、部活関係で話したことあるんだけどさ」


 友人の一人である沙帆が、声を潜めて呟く。その顔は不快感を全面に表していて、続く言葉を待つほんの数秒が長く感じた。


「年中煙草臭いのは皆も知ってると思うんだけど、あの人たまに変な薬っぽい、妙に甘いような臭いがしてたことがあって……」

「それって香水とかじゃなくて?」

「違うと思う。香水の匂い方じゃなかった。もっとこう……体臭みたいな……上手く言えないんだけど、病気の人みたいに体の奥から臭ってくる感じ」


 沙帆は偏頭痛持ちで、臭いに敏感だから気付いたんだろう。わたしも、高橋先輩の煙草の臭いは知っていた。あの日も吸ったばかりなのかと思うくらい臭ってた。でも薬っぽい体臭にまでは気付かなかった。


「私、あの人と同じ室内にいるだけで頭痛くなるから、同学年だったらしんどかっただろうなぁ……」

「沙帆、夏場とかスプレーの臭いでもしんどそうだもんね」


 机に伸びている沙帆の肩をポンポン叩いて宥める。

 それにしても甘くて薬っぽい臭いなんて、先輩はなにをどうしているんだろうか。

 朝だけで二件もとんでもない話が流れてきて、しかもその二人が昨日わたしを祠に呼び出した人で、どう考えても無関係とは思えなくて。怒濤の情報量で、既に放課後並みに疲れたのに。


「ねえ聞いた!? 浅間先輩逮捕だって!」

「はぁ!?」


 教室に飛び込んできたクラスの女子が叫び、教室にいた誰かが大声で反応した。

 逮捕という二文字にクラス中が食いつき、何故なにがどうしてと飛び交い始める。ネットニュースになっているとの言葉で友人がスマホを開き、暫くして「あった」と机の上にスマホを置いてわたしたちにも見せてきた。

 其処には『女子高生が、深夜にクラスメイトの男子生徒宅を訪ね、付き纏い行為を行う』の見出しがあった。

 ニュース記事には、知ってる人が見たら浅間美佳先輩とわかる薄いモザイク処理が施された女性が警察に取り押さえられている画像が掲載されていた。記事本文には、昨晩二時頃、浅間美佳がクラスメイトの男子生徒宅を訪ね、インターフォンを数度に渡って鳴らした上、大声で喚いたことで近隣住民に通報されたとあった。浅間先輩は執拗に「付き合って」「あたしのこと好きなくせに」「あーあーあー」などと叫び、警察に取り押さえられながらもひどく暴れて、髪を振り乱しながら男子生徒の元へと駆け寄ろうとしたらしい。しかもこのとき近くにいた近隣住民が動画を撮っていて、その動画が早速SNSで拡散されていた。

 友人が、SNSを開いてトレンドワードの『ストーカー女』をタップした。するとワードトップに一番拡散されている動画の記事がすぐに出てきて、投稿者は『夜中にいきなりキ※ガイ現れてビビったw』と動画に添えていた。

 動画を再生すると、いくら何でも正気とは思えない叫び声がスピーカーをぶち割る勢いで響き渡り、友人は慌てて音量を下げた。周りでも同じ動画を見ているようで、輪唱のように叫び声が聞こえてくる。


「ねえ……もうやめよう……?」

「あ、うん。そだね……あんま気分いいもんじゃないし」


 人は正気を失うとどうなるのか。

 その答えの一つが其処にあるようで、震えが止まらない。

 最初こそ面白がっていたクラスメイトたちも、見知った先輩の豹変した姿に顔色を悪くしていた。

 これが仮に、見も知らない何処の人ともわからない他人ならまだ他人事として見ていられたのだろうが。二学年上とはいえ同じ学校に通う人物で、普段からそれなりに目立っていた女子生徒だったため、想像以上にメンタルを削られてしまった。

 その後に行われたHRでは、担任教師から三年生のある女子生徒が事件を起こしたこと、また別の女子生徒が事故で入院したことが簡単に伝えられた。当事者の名前を伏せたのは一応でしかなく、担任も皆が知っていることを把握しているようだった。

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