彼女の風景

どんぐり男爵

彼女の風景

 明日は何の日か知っているだろうか。別段大した日じゃないから、わからなくても仕方ないかなとは思う。でも、明後日くらいはわかって欲しい。明後日は父の日で、同時に、あたしの結婚日だ。




 父の日に結婚する。父の日に、家を出る。


 これはなかなかの皮肉になるんではないだろうかと思い、彼に相談してみたところ「いや、さすがにそれはまずいんじゃないか」と言われたが、強引に押し通した。頑固なのはあたしの特徴の一つで、同時にあたしが持つ短所の中でもっとも厄介なものだった。


 この性格はどこから来たのだろう?


 答えには簡単に行きつく。母は事なかれ主義で、あたしには兄弟や祖父母の類はいない。そうなればあの憎き父親しかいない。正直、父親と呼ぶのも厭だ。

 そんな父親は「頑固親父」と聞いて想像できる通りの風体をしている。角刈りだし、極太眉毛だし、いかついし筋肉質だし、案の定声はでかいし。あたしは幼少のころからそんな父親が嫌いだった。とは言っても、そのころはまだ苦手意識くらいだった。


 一 番印象の強い――悪い意味で――行事と言ったら小学一年生のときの授業参観だろうか。そのときの授業は数学——ではなくて算数だった。今ではどうなのか知ら ないが、当時は筆算で三ケタの足し算や引き算の授業をしていた。

 あたしは幸いなことに成績は良かったため、先生が前日に配ったプリントをもうやってきてし まっていた。それを使って授業をする予定だったのだが、まわりのみんなが先生の言うとおりにプリントに書き込んだりしている間、あたしは暇で暇でしかたなかった。

 天気もよくて窓際の席だったため、つい大あくびをしてしまったのだ。そこでブチ切れたのがウチのクソ親父だ。


『なーにボケッとしやがってんだこのアホウがぁッ‼ さっさと先生の言うとおりにしろい!』


 唐突の怒声に、ウチのクラスどころか隣のクラスまで動転。授業参観という大事な日に子供たちは泣き出す始末。先生は日ごろのあたしを知っていたので、もうとっくにプリントが仕上がっていることも承知だったのだが……クソ親父はその話を聞いても納得しない。というか、自分の勘違いを引っ込めない。


『関係ねぇや! どちらにしろ先生サマがありがたーいお勉強の話をしてんだ! それを大あくびたぁふざけるのも大概にしやがれぃ!』


 父親があたしのそばに来て拳骨を振りおろそうとするのを必死で止める先生。先生を振りほどこうと、さらに怒り狂う父親。恐怖で怯え、泣き出す子供たち。泣きながらも恐怖で身が竦んで動けない自分。そして——


『ぷしゃあああっ』


 もう嫌だ。あの事件を歴史から消し去れるというならあたしは数百万円でもつぎ込むだろう。要するに、それほどのトラウマ。ちなみに次回からは母が来るようになった。詳しくは知らないが、学校からもやんわりと何かあったようだ。案の定である。


 小学六年生の卒業式。父親は出席しないように母親に再三に渡って頼み込んだ。お願いだから父さんは呼ばないで、と。それを前日に知った父親が怒る怒る。地震雷火事オヤジというけどそれは間違いだ。まず先頭にオヤジがこないと。

 とにかく、それほどの激怒だった。

 だがあたしも父親が来ることに賛成を唱えるわけにはいかない。頭には前述どおりのトラウマがあるのだから。あたしは泣きながら抗議した。


『父さんが来たら、またちょっとした勘違いで怒鳴り出すでしょ⁉ そういうの、迷惑なの!』

『誰がいつ勘違いで怒鳴った!? なにでたらめぬかしてんだこのガキャア!』

『アンタ馬鹿!? あたしは小学校一年のときの授業参観忘れてないのよ!』

『父親に向かってアンタとか馬鹿たぁ何事だッ、このっ——』

『きゃあああ!  やめて、離してよ! 馬鹿ばかバカ! きゃああああああ!?』

『そこで反省してろぃこの馬鹿娘!』

『ちょっと、出してよ! 暗い! だーしーてーよーっ! お母さーんっ‼』


 結局、母親は父親の言いなりで、あたしは翌日になっても倉庫から出してもらえなかった。卒業式は一人だけ、一日遅れで校長室で行うこととなった。

 もちろん、その間にごはんや飲み物はなし(実際は知らないが、おそらく父親が母親に食べ物を与えないように言ったのだろう)。あたしは倉庫の中でずっと泣き続けて いた。


 そして春休みの間にも数回喧嘩をして、喧嘩の度にあたしは泣いて、中学生となった。

 入学式は、父親はどうしても抜けられない仕事があったために母親が来ることとなり、あたしはとても安心したものだった。このころから、あたしは父親には苦手意識だけでなく、嫌悪を抱くようになる。同様に、母親にも。



 中学生と小学生の学校での活動で一番大きく違うものと言えば、部活動だろう。あたしは女子サッカー部に所属していて、それなりに活躍していた。勉強の面でもきちんと学年で三十位以内には入っていたし(一学年で三百人から四百人いた)、成績もたいてい五段階評定で5だった。4がつくのは技術や家庭科、美術の類である。


 頑固なところは父親から受け継いだのだが、器用なところは受け継ぐこともなく、残念なことに母親から不器用というバッドスキルを頂戴してしまった。

 とは言っ ても成績が悪くて父親に怒鳴られるのも我慢がならないので文句が言えないように、たとえば次の授業が裁縫であるならば家で懸命に練習して、翌日は指に穴がいくつも空いた状態で登校していた。

 痛くて、情けなくて、目は赤くはれ上がっていたように思う。よく、友達に心配されたから。



 父親の不審な点に気付きだしたのは、中学二年の夏休みのころからである。

 あたしの中学時代には男とはあまり縁がなく、女友達とばかり遊んでいた。もちろん男友達がいなかったわけではないが、妙なところが潔癖だったのでプライ ベートまで付き合うという意味での男友達は一人もいなかった。


 そういうわけで友達とウインドウショッピングに行っていると、なぜか父親を見つけたのだ。それも、男であれば絶対に入らないような女性モノの店に。そんな空間に、これまた前述どおりの頑固親父がいれば、当然浮く。めちゃくちゃ浮く。しかも周囲の 視線もついでにゲット。

 だがそんなことはどこ吹く風で、父親は女性の店員に話しかけたりしてアクセサリーを買ったりしていた。


 母親がそれを身につけていることは、なかった。


 あたしはそれがなんだかとても空恐ろしいことに思えて、母親に言えなくて、ひとりで膝を抱えていた。夜中に安眠できるようになるまでにひと月かかった。枕カバーは頻繁に取り換えた。

 それから数カ月して、友達が妙な話をしているのを耳にした。いわく、ひどく場違いなお店へ中年のおっさんが、これまた場違いなほどきれいなお姉さんを連れてやってきていたという話。あたしはそれを確かめるべく、中学生であるにも関わらず学校に無断で、コンビニでアルバイトをしている友人と和やかに交渉を重ねた結果手にしたインスタントカメラを片手にそのお店へ向かった。


 噂は、事実だった。

 どこからどう見ても、そのままテレビの頑固親父として出演できそうな中年のおっさんが居た。おとなし目の化粧をしている母とは違い、少々きつめのお姉さんと一緒に。彼女は以前目撃したアクセサリーを身につけていた。こっそりと聞き耳を立てていると、彼女が父親の職場の部下であることがわかった。

 なんやかんやで、父親は部長のポストにいる。いくら中学生でも、それくらいの意味はわかった。なぜか、このとき涙の出番はなかった。

 あたしは写真を現像して母親に言った。


『離婚しよう! 浮気なんて最低だよ。きっと、母さんが父さんに強気な態度をとらないから調子に乗ってるんだよ。もっとはっきり言わなきゃだめだよ! ドラマみたいに「実家に帰らせていただきます」って。あたしも中学生だし、親権って母親の方が強いんでしょ⁉ あたし、お母さんについて行くから!』


 あたしは一生懸命に、これ以上ないほどの剣幕で母親にまくし立てた。小学校の卒業式より、激しかったように思う。

 それでも、母は少し自嘲したように『お父さんにだっ て、きっと考えがあるのよ』なんて気の抜けた台詞を口にした。同時に、理解する。あたしのお母さんは、こういう人なんだ、と。自分の主張が、自分の強い信念がないから、我を持つ人についていく。そうやって、きっとこれからも、生きていくんだろう。


『もしかして……母さん気づいてたの? 気づいてて何も言ってないの? そんなのありえないよ! お願いだよ、あたしのために強くなってよ。母さんッ‼』


 母さんがあたしの言うことを聞いてくれたことは今までどおり、なかった。

 あたしは、やっぱり、ひとりぼっちで泣いた。



 順調に中学校を卒業して、地元の県の中でも進学率の高い高校へ入学。このころから父親は式について何も言わなくなったし、あたしも家ではヘッドフォンとウォークマンとだけ話していた。

 部屋からは必要最低限のもの以外どんどんなくなっていって、ベッドと机とコンポと空っぽの本棚くらいだった。残りは段ボー ルにいつも詰め込んでいた。教科書や、衣服、趣味など。いつでも出かけられるように。


 高校生になってようやく色気づいてきたあたしは、男とプライベートでも遊ぶようになった。自分の顔の出来がそれなりに良いというのを自覚し出したのもこの辺りからだと思う。

 とは言ってもあたしの部屋にあがらせることはなかったし、夜遅くまで男の部屋にいることもなかった。男の居る部屋に外泊したのは三年間 で、片手で数えられるくらい。それも、ほとんどは別の女友達といたときだ。男の人数より、女の人数が多いときだけ、あたしは泊まることにしていた。


 高校二年生の文化祭で、軽音楽部のバンドを聞きに行った。そこで、ある一人の人物と出会った。


『たばこを吸っちゃいかんよ』

『……先生こそ。ここ、学校ですよ』


 申し訳ないほどにバンドの演奏は期待外れで、ヤツらはほぼ確実に、モテるためだけにやっていた。その分ルックスはまあまあだったから、一緒に行った友達たちは演奏の会場——体育館に残っていた。あたしはというと、体育館の裏手にまわり、たばこをぷかーとふかしていた。


『オーケー、細かいことはよそう。それより、いいとこでやめとけよ。今回は黙認しといてやるけど、いいことないぜ。知られるとやばいわ常習性がつくわ、歯はヤニで黄色になるわで』

『その割に、先生は真っ白な歯をしてますね』

『ああ、これ? 昨日歯医者に行って削ってきたんだよ』

『…………』


 軽音楽部の顧問の先生は、やる気がなかった。基本的に生徒の好きにさせる教師で、そういうわけで生徒からの信頼や好感度は高かった。若くて年が近いし、ぼさぼさの髪を整えて不精ひげをきれいに剃れば、まあまあ見れるようになるような、そんな先生。

 彼はヘマをしないよう監視していなきゃなのになぜかあたしと 並んでたばこをふかしていた。


『まあ、大丈夫ですよ。習慣ってわけじゃないですし』

『そうなの?』

『そうなんです』


 本当だった。父親に怒鳴られて、怒鳴り返して、頭を拳骨で殴られて部屋で泣いて。そんな風にして朝を迎えた日は、休み時間とかにここでたばこを吸うことに しているのだ。だから、たばこ本体やライターはここの雨に濡れないところに放置している。

 それにある種のストレス解消のためなので、すごく軽いやつだ。重いってのがよくわからないけど。

 つまるところ、悪いコトをしている自分に酔っていただけなのだろう。


『まあ、それでも』

『あっ』

『ボッシュート』

『先生古い……』

『ほ、ほっとけ』


 それから、あたしは昼休みになると毎日そこへ行くようになった。嫌なことがあっても、なくても。

 先生はたまにそこへ来る。だいたい平均すると週に三回の ペースで。愛煙家からすれば昨今の迫害精神は常軌を逸してると思うんだ、などとよくわからないことを話したり、聞いたり。

 先生はそこへ来るとき、決まってあたしから取り上げたたばこを持ってきていた。ある日中身がなくなって不安になっていたら、次のときに新しいのを買ってきてくれていた。

 そんな風に月日を重ねていって、あたしと先生のこころも重なるのは自然なことだった。


 高校生という年代は、ちょうど大人と子供の境目に値するらしい。あたしはまわりの友達たちからすれば大人びていたように思えたけれど、それでも、大人からす ればやはり子供だったのだと思う。

 結局のところあたしは高校生で、他の何者でもなかった。先生とこころを重ねても、いくら同じごはんを食べても、どれだけ時間や秘密を共有しても、身体はあたしが高校生で先生が教師である限り重なることはなかった。


『先生って我慢強いよね』


 ある休日、あたしは先生の家に遊びに来ていた。先生はノートパソコンでプリントを作成しているようだった。たしか、あれは冬のことだった。


『どのあたりが?』

『手を出さないあたり』

『法律っていう網は結構なもんでな。一度破っちまうと、その糸が体に絡み付いて離れないんだよ。だから、絡まないように頑張る必要があるわけ』


 あたしは先生の発言をすぐそばから聞いていた。先生を後ろから襲いかかっている構図になるのだろうか。先生を信頼していたのだと今は思うけれど、もしかしたら、先生にだったら襲われてもいいと思っていたのかもしれない。


『タチの悪い麻薬だ。タバコよりひどい』


 先生はそう言ってあたしを引き離して作業に没頭した。あたしはおとなしく本を読むことにして、そうして時間をつぶした後、あたしは家に帰った。

 たぶん、高校生時代が一番泣かなかった時期であるように思う。そのことに先生が関係しているのは間違いないだろう。


 まあ、とはいえ。卒業式に先生の胸元でその分の涙を零してしまったから、合計で考えると大差ないのかもしれないけれど。とにかく、あたしが多少歪んだ家庭で育ってきたのにあまりひねくれていなかったのは、先生のおかげだと自信をもって言える。




 大学は地元の国立にした。いつでも家を出れるようにしていたのに出て行かなかったのは、きっと母親の存在が気がかりであったからだ。彼女はきっと弱い人だ と思った。父親には見放されつつあるし、これ以上、あたしが見放したらと思うとぞっとした。だから、結局今までどおりの生活と変わりはしなかった。


 四回生の半ばになると、就職活動で焦る人が出てくる。あたしは父親に小言を言われることに当然腹を立てていたから、もうとっくに就職先を決めていた。だから、多少ゆとりを持って卒業論文の深い資料を集めることができた。


 少し古びた図書館は、ひどく昔を思い出させるにおいがした。四回生ではもう平気になっていたけれど、入学時はひどいものだった。ほぼ無意識のうちに涙がぼろぼろと流れてくるのだ。

 たぶん、ウチの倉庫の中と似たにおいだからだろう。トラウマが刺激されたのだ。まったくをもって難儀なものである。


 そんなわけで 平気になることはなったが、あまり長居したい場所ではないので、必要な書類の在り処を調べて貸し出してもらい、すぐに出ることにした。それが、運命だったのだろう。彼に出会ったのは。


 彼はあたしと同じタイミングで図書館から出ようとしていた。そして、同じタイミングで順序を譲り、互いに苦笑。バレーボールなんかでいう、いわゆるお見合いだ。

 そして彼から苦笑まじりに同じゼミをとっている人なのだという衝撃的な事実を知り、一緒に学食へ行くことにした。


『おまえ、とっつきにくいイメージあるからな。だから話しかけなかったんだけど、案外そうでもないな』


 これがまともに交わした初めての会話である。たぶん。……あたしはなぜこんなやつに惚れてしまったのだろうかと結構真面目に悩んだが、結局答えは出やしなかった。

 彼は当然ながらあたしと同じ学年なのだが、一年留年していたためにひとつ年上だった。そして、いまだ卒業論文の明確な結論も立てておらず、就職活動もやっていなかった。


『そんなんで、卒業したらどうするの?』

『まあ、なんとかなるだろ。ならなかったら叔父のところで車の整備でもしてるさ。一応整備士の資格は持ってるしな』


 その言葉通り、彼は現在叔父の下で整備士をやっている。彼の叔父は一応小さいながらも社長なのだが、彼とあたしが結婚すると聞き、「嫁さんができるなら、もうちょいまともなことができなきゃな」と彼に地獄のような修行を課したしたらしい。もっとやってやって!


 彼の卒業論文は、あたしが半分やってあげたようなものだった。最初から論文に取り上げる題材を複数考えてから一つに絞るのが一般的なやり方だ。あたしもそ の例に洩れなかったため、余った題材を彼に流出させた形となる。

 だけれど、それのおかげで彼と親密な付き合いとなったので後悔はしていなかった。


「ねぇ、薫。ちょっと来なさい」

「どうしたの。母さん」


 母さんに小さな声で呼ばれて、部屋を出る。こんな風に母さんからあたしに呼びかけるなんて何年ぶりだろう。たぶん、母さんの姿を知ってからだろう。だいたい八年くらいか。


 乞われるまま薄暗い階段を降って、六畳一間の和室へ。ここが我が家のリビングにあたる。もうすぐ日付が変わり、あたしにとっては復讐の日となるのだろうか。 こんな時間になっても、父親は帰ってこない。彼のこともたいして聞いてこないし、もうウチには愛想を尽かしているのかもしれない。


「なんの用? あたし、明日のことで忙しいんだけど」


 結婚式は今のところする気はない。大学を卒業して就職して二ヶ月ちょっと。そんな時期にわざわざ開く必要もない。第一、お金もないし。だから明日は婚姻届を出し、新居に本格的に移住することになる。


「あなたに聞かせておきたいことがあって」

「……聞きたい話なんて特にないけど」


 ああ、だめだ。無意識のうちに、声がこわばって、尖ってしまう。


「あなたね、頑固でしょう」

「…………まあね」

「お父さんも」

「…………異常なほどね」

「わたしからすれば、同じくらいよ」


 そう言って、寂しそうに母親は笑った。


「それと。あなた、泣き虫でしょう」

「……知ってたんだ。知らないと思ってたよ」

「知ってるわよ。枕に顔を埋めて、声が漏れないようにして泣いているでしょう。わたしを誰だと思っているの」


 いつもと——昔と比べて、母親は饒舌だった。


「母さんは、母さんだよ。あたしの産みの親」

「そうね。そして、お父さんの奥さんよ」


 その言葉に、反射のレベルでしかめっ面になる。

 なぜそこで笑えるんだろう。もっと憎んでいいんじゃないの。そんな信頼なんて必要ないでしょう。なんであんなヤツのことを話すのに、笑ってるの。


「あなたね、お父さんとほんとによく似てる」


 それは、父の日を結婚する日にしたあたしに対する皮肉なんだろうか。


「お父さんと一緒で頑固で、それでいて泣き虫で」

「へ?」


 泣き虫? 誰が? あたしが? いや、あたしはそうだけど……あのクソ親父が?


「こっちにちょっと来なさいな」


 母親はあたしを引っ張って父親の寝室へと連れて行く。小学校一年の参観日の授業以来、一度も来たことのないこの部屋。その部屋は、確実にあたしの記憶より歳をとっていた。


「ええっと。ああ、これよ」

「これって……」

「そう。あなたのアルバムよ」


 結構な分厚さがある、上等な革製のアルバムだった。

 最初のページを開いてみると、「薫・3か月。ようやく俺にも笑顔を見せるようになる」と書いてあるのが 目に入った。

 続けて、ページをぱらぱらと開いていく。幼稚園、小学生。そこには、中学校や高校の制服を着たあたしがいた。


「これ……って」

「お父さんね、中学の卒業くらいから何も言わなくなったでしょう。口に出したら止まらなくなっちゃうからって、抑えていたそうよ」

「そ、そんなの言われても……。母さんが写したんじゃないの?」


 そう言うと、母親は高校の入学式の写真を指差した。


「ここにわたしがいるでしょう。そして真ん中に、あなたがいる」

「う……」


 本当だった。正真正銘、これはあの頑固親父が撮りためたアルバムだったのだ。


「お父さん、毎回泣いてたのよ。あなたを叱ってから、自己嫌悪で。気付かなかったでしょう」


 全然、知らなかった。


「ちょっと触ってみなさいな」


 そう言って、母親は父親の枕をこちらによこす。こわごわと触ってみると、あたしのと同じような、塩がたまって乾いて、洗っても洗っても長い年月の前で固くなってしまった感触だった。

 自分の枕と同じだからこそ、触っただけで、わかってしまう。


「浮気の件もね、わたしは最初から全部逐一知っていたのよ。あなたは知らないでしょうけど、お母さんね、子供を産めないの。あなたを産むときにちょっと難しくなって帝王切開をして、そのときにいろいろあってね」

「そんな……」

「もうあなたもそんな歳だから話すけど、お父さんも若かったのね。だけど、わたしはその相手ができなくなった。それからずっと我慢してきたらしいんだけど、お父さんも男ね。珍しく泥酔して、今の女の人と同禽しちゃったらしいの」


 母親は……母さんは、手を頬にあてて少し困ったような顔で続ける。


「それで帰ってくるなりわたしに土下座して。それで、わたしはいい機会だからと思って、いっそ浮気しちゃいなさいって言ったのよ。だけどあの人、それ以降は一 回も寝てないみたいよ。彼女に対して罪滅ぼしでいろいろ贈ったらしいけど、それもあなたが高校二年のころまでね。浮気にしては長続きしたのかしら」


 そんなことを、今更言われても。


「今、お父さんがどこに行ってるか知ってる?」


 首を横にふった。

 声なんか、自由に出なかった。


「昨日、あなたの結婚相手の明内さんから電話があって……。彼、いい人ね。あなたが頑固で、わたしたちを嫌ってるのを知っているからあんまり詳しく伝えていないだろうからって。お父さんとお話がしたいと連絡があったのよ」

「……じゃあ、」


 母さんはうなづいた。


「今、彼と話をしているんじゃないかしら。意気込んでいったわよ。『碌でもねぇヤツに薫はくれてやらん!!』って」

「うあっ」


 そこが、限界だった。

 あたしは、今まで父が使っていた枕で、泣いた。

 父さん、と。もう二度と言えないと思っていた単語は、待ち望んでいたようにあたしの口から飛び出した。




「じゃあ、いつ行く?」

「お盆でいいんじゃないかな」

「そんなんでいいのか?」

「いいの。同じ県内なんだし。いざとなったら土日を使えば会えるでしょ」


 あたしは彼と、いつあたしの実家に帰省するかの日程について話していた。


「お義父さん、喜ぶだろうなぁ」

「ああ見えて、案外子供好きだからね」


 彼と見守る先では、今年で四歳となるいたずら坊主がにやーと笑っていた。


「拓未はお祖父ちゃん好き?」


 尋ねてみると、少し考えた様子でこう言った。


「じーちゃん、おこったらすっげーこわいけど、いろいろ買ってくれるから好き!」


 即物的な、と彼が苦笑した。


「じゃあ、拓未。お祖父ちゃんに特製パスタ一緒に作ってあげようね」

「うん! 母さんと一緒に作る!」


 拓未は素晴らしいことに、あたしからの血を受け継がず、彼の遺伝子の方が強かったのか、器用である。しかも料理好き。……追い越されないように、最近レパートリーを増やしつつある。

 まあまだ子供だから、大したことはできないのだが、子供ゆえの吸収力の高さといえばいいのだろうか。食材ひとつから作れるレシピを発想する速度や種類に関しては既にあたしを超えている気がする。将来有望といえばいいのか恐ろしい子といえばいいのか……母親としてはちょっと微妙なところ。嬉しいけど、負けてられないし。


「父さん、元気かな。なんかこの前電話したらお腹壊したらしいけど」

「歳だからなぁ。まあそれを言っちゃうと『年寄り扱いするな! まだ俺は現役じゃ!』って怒鳴られるんだけど」


 そう言って、彼は笑った。

 拓未も、そして――あたしも笑う。


 今からでも遅くはない。時間ならまだまだ十分にある。

 頑固だからなかなか笑わないかもしれないけど、あたしだって頑固だ。帰省してる間中には絶対に笑わせてみせる。拓未と協力したら、きっとうまくいく。


 うん、それがいい。そう決めた。

 今からお盆が楽しみになってきた。

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