濡れた快楽

濡れた快楽 ー雨宿りをしにいくー


…―――



突然の雨に襲われ木造アパートの部屋へ逃げ込んだ。



カバンを置き、素肌に張り付く靴下をすぐさま脱いだ。


自分の家では無い。


しかし部屋の主は見当たらない。



太陽を隠した暗がりは夜とは違う闇に覆われる。


光がないのにハッキリと自分とその周りの風景を認知できる。


だが、ガラスに乗る雨跡の影が床や自分の素足に映すには充分の暗さだった。



かおるは机の上に広がっている原稿用紙やらペンやら資料の本の山に対し、自身はブルドーザーになったつもりで、端から端までゆっくりと押しのけていく。詰め寄せられた物達は山を作り、やがて限界を迎え机から溢れるように逃げていった。



そうして木造の机の上には何一つも残らなくなった。



床には散らばるように物がひとつひとつ落ちていき転がったが、元より整頓されていないこの部屋の床にさして変化はない……という郁の主観により、それらを少しも直すことなくそのまま放置した。



何も無い机を満足げに眺めたあと、制服が皺になることも気にせず、その上に仰向けで寝転がる。



すらっと細く長い手脚を持つ郁の体がその長方形に収まることは出来ず、脚だけ投げ出すようにダラリとさせた。



郁は見つめる。



窓ガラスを。


そこへ次々と打ってくる雨を。


そこにできる雫を……ただジッと。


大きくなった雫達は次々に流れていく。



「……『私達がひとつになる瞬間はきっとこういう結末だ』」



独り言ひとりごちていたら、蝶番ちょうつがいに油が足りない音が耳に届き、ここの住人が帰ってきたことを告げる。



「……何してんだ」



無精髭ぶしょうひげを生やす男はこの豪雨に直撃したらしく、甚平じんべいは重たげに水分を含んでいた。



「傘持っていってなかったの?不運だったね」


「……その前に何か言うことあるだろうが」


「おかえり」


「違う」


「……おじゃましてます?」


「違ぇよ。人ん家に勝手に入ったことをまず謝れ」


「鍵空いてた。不用心だね」


「ちょっとコンビニに行ってただけだ。だからって勝手に入っていいわけあるか」


「私の為に開けて行ってくれたのかと」


「違うから」



男は買ったらしい何かを入れているビニール袋を床に投げた。



「次にこれ」



男は機嫌が直らないまま床を指で差した。



「……俺の仕事道具一式が机から一掃いっそうされているんですが?何か言う事は無いのか?」


「この窓で雨を眺められる特等席は此処なんだ。この机に寝ようと思うと、其れって邪魔だと思わない?」


「お前……かたくなに謝らない姿勢かよ」


「……私って雨が嫌いだったんだけど」


「……は?」


「だって私のショートカットもねまくって、全然まとまらなくなるし、傘さして何処か行くことも何かすることも動き辛くて何でも億劫おっくうになっちゃう。だから雨って嫌だった」


「じゃあ帰れば?」


「でもセンさんの『アレ』を読んでから、雨が好きになった」


「……そんなこと言って誤魔化すな。謝れ。そして帰れ」


「照れた?」


「全くもって違う」



せんと呼ばれた男は手近にあるタオルを取り、濡れている自身を拭いた。


そしてもう一枚のタオルを郁に投げた。


軽すぎる其れは、いまいち届かず、郁の脚に引っかかった。



「……しかもお前が言ってるのって出版してるヤツじゃなくて勝手に俺の書き留めノート見たやつだろ?マジでやめろ。物書きのネタ帳を勝手に覗く奴は万死に値する」


「……別にそもそも世に出すつもりも無い詩でしょ?」


「は?」


「冒険、アクションジャンルを中心に活動してるセンさんなのに」


「……」


「センさんもあんな文章書くんだーってすっごく意外だった。アレ、プライベートのものでしょ?」


「慣れないものを書いたから、完成度は酷いもんだけどな」


「でも……クオリティよりもセンさんの心を覗いた気がして、私はアレもいいなって思うよ」


「あ、そう。……で、」


「ん?」


「満足したか?じゃあ早く帰れ」


「雨止むまでいいじゃん」



男はしばらく郁を睨むように見下ろしていたが、やがて諦めて溜め息を吐き、床に落ちた物を拾い始めた。



「ねぇ、センさん」


「なんだよ」


「……ねぇ」


「今日はしねぇぞ」


「……ケチ」



郁は脚に引っかかっているタオルを脚と一緒に揺らして遊ばせた。



「あの詩ってさ……不倫の詩だよね?」


「……」


「センさんの前の恋人って人妻だったんだ?」


「……ちげぇよ」


「……違うんだ」


「でも」



扇の指がおもむろに郁の額に伸びてきて、しっとりと湿っている肌を撫で、短い前髪を優しく掻き上げた。



「良い解釈だ。お前にしては良い考察なんじゃねぇの?」



覗き込んできたその顔は微かに笑っていた。


それは決して郁を馬鹿にしたわけではない素直な笑顔だ。


郁にもそれがわかった。


こうした考察、議論を好むのかこの手の話を振ると、良し悪しも浅い深いも関係なくこの男は笑うのだ。


郁は目を細めた。



「……キスしようよ?」



扇は笑顔を消し、彼女の額から手を離した。



「やだね。そんなちゃっちい誘いで、コッチはそんな気分になりゃしねぇよ」


「酷いなぁ」


「エロを覚えたての子供のむさぼりに付き合ってやる程、暇じゃない、若くない、理由もない」


「あーぁ。子供扱いしていいの?後からになっても知らないよ~」


「……めんどくさ」



視線を窓から天井へ、天井から男のうなじへと移した。


物を拾うために、しゃがんでいる男の後ろ姿は机で寝転がっている郁の視点からでも容易に見下ろせた。


その襟足をツンと摘んだ。



「……私は大人じゃないけど、無垢でもないよ」



小声のせいで掠れて、掠れたせいで泣いているように聞こえたかもしれない。


別に悲しい感情でもなかったのに、扇がきちんと「……へぇ」と優しく相槌を打ってくれたものだから、小声だけど彼の耳に届いたのだと思うと、不思議と切なくなった。



「……私はあるよ、不倫経験」


「……………………あ?」



ようやく此方を向いてくれたことに満足した郁は片方の口角を上げた。



「相手は学校の先生」


「……」


「部活の顧問でもある人」


「……ふーん」


「……でも結局は奥さんの話ばっかりでさ。ヤキモチ焼く私を見たいからって。最終的にそれが嫌になったから数ヶ月前に別れちゃった」


「……お前」


「あ、センさんに会う前の話だよ?」


「……」


「ん?何?意外だった?ビックリしちゃった。ゴメンね、実はこんな女で」


「嘘だろ」


「え……」


「その話は嘘だろ?お前は不倫してない」


「え、何それ。嘘じゃないし!!」


「既婚者はお前みたいな人間を選ばないよ」


「どういうこと!?」



その言葉は女としての価値を舐められたようで、少しばかり腹を立てた郁は上体を起こして扇を睨んだ。



「お前はすぐに顔に出るし、構ってもらいたがりだ。それでいて妙に勘も良い」


「褒めてるの?馬鹿にしてるの?」


「俺がもし既婚者で浮気するなら、こっちのてのひらで完全に自在に出来る程に頭が悪い女か、相手の幸せを平気で考えられる自己犠牲の激し目の……いびつな方向で聡明な良い女……かな。」



睨んできた郁に向かって、扇は笑った。



「お前は無理。お前を浮気相手に選ぶとかデメリットだけだ。本命諸共破綻する」


「……」



楽しいそうにニヤつく扇に郁はゆっくり顔を寄せて至近距離で扇の瞳を覗き込んだ。


瞳の中の女と見つめ合う。



「……褒めてるの?馬鹿にしてるの?」



わざと鼻と鼻を少し触れさせて扇は口角を上げた。



「あー、褒めてる褒めてる」


「……うそだね」


「お前は賢くめんどくさい女だって言ってるだけだ。充分褒めてるじゃねぇか」


「……ひど」



クククッと笑う扇のえらに手を添えて、逃がさないために定めた。


そこからほんの少しあごを突き出すだけ。


それだけで互いの唇が当たる。


郁は扇の下唇をゆっくり咥えて甘噛みしてみた。


扇はされるがまま間近の郁を見つめるだけで、抵抗もせずただ眉をひそめた。



「……センさん、さっきの話。不倫の話」


「……ん」


「センさんの言う通り、嘘。でも全くの作り話ってワケでもない。捏造」


「……」


「先生じゃなくて、部活の先輩。……で、彼女持ち」


「あー……なるほどな。ヤキモチ焼く顔が見たいから本命の話って行動がやけに幼すぎると思ったんだよな……」



扇は郁の肩を強めに押して、机の上に寝ろ転がし「……まぁ、高校生の中でも更に幼い行動だけどな」と覆い被さりながら笑った。



「……今日はしないんじゃなかったの?」


「しないよ」



そういうくせに男は郁の首筋に緩く噛んで、舌でなぞる。


ムズ痒い刺激が物足りないぐらい弱くて、少し呻き声が漏れた。

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