第7話 どうせこういうわたしだもんな②
わたしは重い身体を引き摺りながらキャンパスに辿り着き、何とか大教室に滑り込んだ。電車を三本も見送ったせいで授業開始ギリギリになってしまった。五分前だ。教授ももう教壇についている。
「あっ」
しかし、ラッキーだ。イツキは一階席の前方、普通なら誰も座りたくない席に座っていた。イツキもわたしに気づいたようで、顔を上げて「あ」と口を開いていた。
「イツキー!」
わたしはすぐに駆け寄り、イツキの隣の席を確保した。百人単位が受講する大教室の授業で、二階席や後方の席はパンパンなのに前方の席がガラガラだ。わたしも今までは後ろの方の席でぼうっとしていた勢だった。初めて前の席に座ったな。
「ねね、イツキ。朝ぶり。ちゃんと帰れた?」
「うん、おかげさまで。ちょっと寝れたし」
「ね、分かる。顔スッキリしてる」
朝の五時くらいにうちを出て、イツキの家がどこにあるのか知らないけど、三限は午後一時半からだから、八時間くらいしかないはずだ。それなのに、寝て、さらにしっかりメイクまでして、服だって気を抜いていない。すごい。わたしだって少し手を抜いたのに。
かわいいしかっこいいなぁ……。毛先が紫のウルフカットもピカピカサラサラで完璧だ。
本当はその細い顎のラインに触ってみたかったけど、メイクした顔に触られるとわたしはムカつくので止めておいた。
「それでさぁ、セフレの件だけど」
「お前バカか!?」
一瞬で顔を赤くさせたイツキに大声で制された。教室の目線がわたしたちに注がれた気がする。
「こ、こんなとこでそんな話すんな! 目立っちゃうだろ!」
「誰もわざわざ聞いちゃいないだろうし、イツキの方が目立ってんよ。声でか」
「あぅ」
イツキは細い肩をさらに小さくさせた。恨みがましくわたしを見つめてくる。かわいい。てか「あぅ」て! かわいすぎる!
「で、どうなの?」
「……授業始まるから。終わったらね」
「終わったらね! 了解! あ、四限会社法取ってる? 一緒にいこうよ」
「ん……まぁ、いいけど」
なんか照れてるみたいだ。まだわたしがここで「セフレ」って言ったこと引き摺ってんのか。襲うみたいにセックスしてきたくせに初心なんだな。意外だ。
「はい、それでは授業を始めます。今日は重要条文である民法177条についてです。ここでは二重譲渡という論点を勉強します……」
そんなことを思っているうちに授業が始まった。百人単位が受講している講義のため、誰かに当たることは無い。この教授はレジュメに授業の全てを書くタイプで、正直この授業はレジュメの音読大会だ。ついつい眠くなってしまうし、板書するためのパソコンの裏でスマホを弄ってしまう。
LINEが来ていた。ユウヤさんからだ。『さっきはごめん。おれも言い過ぎた。もう会えないのかな、おれたち』。……おれ『も』ってなんだよ、わたしも悪いみたいな言い方しやがって。
でも、悪いのかな……。少なくとも、わたしも言い方と別れ方をミスった気がする。でも謝ってまた関係が続くともタルいな……。
「じゃあ、そこの一番前の女の子。分かるかな」
「……えっ」
視線を感じて顔を上げると、教授がわたしを見つめていた。あれよあれよと言う間にマイクが渡される。
「今スクリーンに映ってる問題、どう考える?」
「……えー……」
まずい。授業なんにも聞いてなかった。たしかにスクリーンには【設問】と書いてあるスライドが映し出されている。パソコンに表示されているレジュメを見ると、わたしが最後に見たところから五枚も進んでいた。わたしは心臓をバクバクさせながら設問を素早く読んだ。
「えー……と、えと、その」
「Yの方が先に登記を具備してるから所有権はYにあります」
わたしが困っている間に、隣のイツキがマイクを奪い取って答えた。え、なにその華麗な泥棒……ルパン三世かよ。
「YはXA間の売買契約の存在を知っていた点については?」
「177条は単純悪意の第三者でも登記をした順番で所有権が決まるので……この場合でもYに所有権です」
「悪意が許されている理由は?」
「経済的観点と、登記懈怠で買主の帰責性が認められるからです」
「そうだね、素晴らしい。ここで重要なのは、登記懈怠、つまり売買契約を済ませた後はさっさと登記をしろよ、という意味もある。民法の論述ではこういう趣旨を書くことも大事だね」
教授は満足そうに頷いて、イツキからマイクを回収した。
「彼女は良い解答をしてくれました。ここで重要なのは単純な悪意は許されるという点です。つまり単純でない悪意、背信的悪意は許されない……」
教授の声が再び遠くなり、わたしはイツキを見つめた。彼女はわたしの視線に気づいたのか、見つめ返してくる。
「授業、ちゃんと聞きな」
「うん……ごめん」
「いいよ、別に。分かったから」
分かったから!! かっこよ!! 分かるんだ、すげぇ……。教科書をペラペラめくってみると、たしかにそう書かれていた。レジュメにも小さく書かれている。イツキ、しっかり予習してるのかな。ちらりと彼女の教科書を見ると、綺麗にマーカーが引かれ、付箋が所々についていた。
そっか、ちゃんと勉強してるんだ。わたしとは大違いだな……。
……ちゃんと授業、聞くか。
イツキに助けられたことで切り替えることが出来、わたしの中でぐるぐるしていた泥みたいなネガティブが吹き飛んだ。別にいいや。やばくなってから考えよう。今日わたしが大学に来たのは、イツキを誘うためなんだ。
わたしはそれ以上考えることを止め、スマホをカバンに放り込んだ。
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