陰翳礼讃

ある日ネットで流れてきた動画を見て思った事がある。

 ある晴天の中の田舎町にある川、小川がちょろちょろと滑らかに流れている動画。

 私はそれを見てふと

「死にたがりに心奪われる絶景を見せたとして、それは彼らを天国へと導く道標としか思えない」と

 昔から、こう言う感覚が不思議とあるのをまた感じさせるものだったなと。

 今でもその衝動に、感覚になるのが芦雪の松鶴絵、杉戸の鶴という作品だ。

 あれは私の何かしらの細胞、神経が狂わされた。

 ずっと根強く残ってる。

 美術鑑賞をする時、足が浮遊するのも、全部見終えた後にもう一度、また目に焼き付けたい作品の所まで行って、じっくりと眺めて出口に向かうと、先程まで翳りの中で淡い人工的な光を浴びてたのが、一気に太陽の光が眼窩まで奥深く突き刺す痛みが生じる。

 とてもあの幻想的な谷崎潤一郎氏の陰翳礼讃の意味も実に分かる。

 暗闇から一気に外へ、現実が待っていて帰る時もまた、いつも通りの日々が待っていると思い気が遠のく。

 

 そのギャップも相まってやはり美しい物を見ると、私は希死念慮を起こす。

 綺麗な物、美しい物を目の前にすると人間、即ち人を狂わすとはこう言う事なんだといつも思う。

 心を惹かれるのは良いがここまで狂ってしまえばもうこっちの物だと。

 この思考でしか書けない物語を綴る事が出来るから、私にとっての美術鑑賞はドーパミンやアドレナリンが異常に分泌されて、想像も物思いにふけるのも容易くなり、筆がとても走る。

 

 私の処女作『花の行く末』の中にある

「末期の水」と言う作品も、弥勒菩薩半跏思惟像を思い綴った物だ。


あの非日常の体験が一年に約二〜三回位だと思うと、やはり祭りの花火の様にあっけなく散る感じがとても良い。


後、私は高知県の土佐に納めてある「絵金さん」も見てみたいと思ってる。あれほどまでいい意味で狂気じみた展覧の仕方は無いと。ロウソクを灯し前にして、血みどろの浮世絵を屏風に描かれて置かれてる。赤色と黒色が夕闇でもはっきりと見えるだろうな。

七月のこれから徐々に蒸し暑くなる夏時期、黄昏から翳りの夕涼みにかけて見る絵金は、通行人の汗の匂いも混じりとても思いを馳せるだろうなと。あれこそが正に陰翳礼讃なのではないか、早く見て体感して物語を書きたくなる。

 

話しは戻るがその度に命が削られていく感覚が癖になり麻痺してく。その場はもう翳りと私と美術品。

 これも作者の思うツボだとしても構わない。

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