第6話 白い犬

「キンモク!」


 遥がかがみ込んでキンモクを抱きしめようとする。

 だが、キンモクは真っ直ぐ前を向いて歯をむき出していた。


「ウ~、ワンワンワンッ!」


 横断歩道の真ん中でたたずむ少女に向かって、何度も吠えた。

 こんなに怒ったキンモクは今まで見たことがない。


「キンモク……」


 遥は目の前の少女を見る。ハッとした。

 先程とは様子がまるで違う。黒髪が静電気を帯びたように、ボワリと広がっている。


「もう少しだったのに……」


 ワンピースが影のように揺らめき、顔が青白く変わっていく。

 少女の姿が歪んでいく。

 背中が曲がり、黒髪はぼろぼろと抜け落ち、少女は不気味な老婆へと変貌した。

 遥は言葉を失った。

 自分は一体何と話をしていたのだ。


「私はねぇ、カミサマでもサマの方さ……」


 老婆がニタリと笑う。


「もう少しで、おまえを引きずり込めたのに……」


 地の底から響いてくるような声だった。


「わたしを、騙そうとしたの……? キンモクはここにいるわ」


「おまえの命は、とうの昔に尽きている……。見なぁ、信号機に青はない」


 老婆は顎をしゃくって赤だけの信号機を示した。


「車が潰れていただろう……。どうしてだと思う? 運転手は可哀想になぁ……。あの時おまえが見た信号は、本当に青だったのか……?」


 あの時見た信号――?

 何のことだろう。


「あれはおまえのせいじゃないのか?」老婆が顔を歪める。


 遥は青ざめた。あの事故のことを言っている。

 やっぱり、わたしのせい?

 青。赤……。分からない。

 胸の中で恐怖が渦を巻く。


 キンモクが大きく唸って遥の前に立ちはだかる。鋭い目でシニガミを睨む。


「おろかな犬よ! おまえごときがその娘を守れるか……!」


 老婆の腕がズルズルと伸び、鎌のような形に変化していく。

 キンモクに斬りかかる。


 キンモクは瞬時に身を伏せ、鎌の一撃をかわす。だが次の刃が鋭く横から襲い、地面を切り裂いた。さらにもう一振りが迫る。

 キンモクは攻撃を見極め右へ左へと飛びのく。遥は息をのんだ。


「キンモク、逃げて!」


 老婆は、ろくろ首のような長い両腕をしならせて、何度も鎌を振るう。

 遥の心臓はバクバクと音を立てていた。キンモクに近づこうとするも、飛び交う鎌のせいで近づけない。


 鎌はさらに鋭さを増す。キンモクは辛うじてかわし続けるが、その動きがわずかに遅れた。


「ギャン!」


 鋭い悲鳴とともに、鎌がキンモクを切り裂いた。


「いやーー!」遥の絶叫が響き渡る。


 キンモクがゆっくりと地面に崩れ落ちる。

 倒れる音が、まるで遠い別世界で鳴っているように感じた。


「キンモク! ああキンモク……!」


 遥が駆け寄る。

 震える手で抱きしめる。

 キンモクは顔を深く切られていた。

 右目から激しく出血している。

 苦しそうにうめきながらも、それでも必死に立ち上がろうとする。


「駄目、動かないで……」


 遥はキンモクの右目を必死で押さえる。


「大丈夫、絶対、大丈夫よ」耳元で何度も呼びかける。


 キンモクは、苦しげに息を吐くだけだった。

 シニガミの冷たい笑い声が響く。


「観念して渡るがいい。横断歩道を。死のやしろへと行くのだ。永遠の眠りが待っている……」


 遥は震えながら首を激しく振る。


「いやよ……。わたしはキンモクと一緒にいるわ!」シニガミを強く睨みつける。


「馬鹿な娘だ」


 振り上げた鎌が、不吉な光を帯びる。


「大丈夫。キンモク……。ずっとわたしが一緒よ。大好きだよ……」


 遥が覚悟を決めたその時、予想もしなかった出来事が起こる。


 キンモクの右目から煙が立ち昇り始めた。

 その煙が急激に一つに集まり形を作り始める。


 目の前に現れたのは、一匹の大きな白い犬だった。

 遥はただ言葉を失っていた。

 キンモクの何倍も大きく、まるで月の光をまとっているように輝いていた。


 シニガミが一歩後ずさった。しかしすぐに鎌を振りかざして白い犬に襲いかかった。

 鎌は、触れるやいなや、ドロリと溶け落ちた。


「グゥオオオー!!」


 白い犬はライオンのように吠えた。

 それはまるで地響きだった。


 轟音とともにまばゆい光が走った。

 巨大な雷がシニガミを直撃する。

 両手を空に向かって突き出し、シニガミが苦悶の叫びを上げる。

 次々と落ちる雷。その度に体を痙攣させる。

 だがその目は、最後まで遥を睨んでいた。


「死は、永遠に、逃れられない……」


 やがて、シニガミは粉々に砕け散った。

 あとには焦げた地面だけが煙を上げていた。


 遥は白い犬を見上げた。


「あ……」


 お礼を言おうとしたが、感極まって声にならなかった。

 そんな遥を見て、白い犬はかすかに微笑んだように見えた。


「キンモク……、もう大丈夫よ。白いワンちゃんが、やっつけてくれたわ」


 遥の胸に抱かれたまま、キンモクはうっすら笑った気がした。

 瞳には、今まで見たことがないような深い光が宿っていた。


 遥の頭の中にある光景が浮かんでくる。

 それは、譲渡会の会場だった。

 ケージの中から見る景色。

 次々と子犬たちが貰われていく。

 孤独。不安。


 遥には分かった。これはキンモクの記憶なのだと。

 誰も振り返らない。誰も足を止めない。

 自分は一人ぼっちだ。

 誰もいなくなった会場。

 そんな中、一人の少女が近づいてきて――。


「キンモク、あなたは、ずっとそんなことを……」


 記憶が、遥の中に染み込んでくる。

 孤独だった時間。温かな手に出会えた喜び。

 そして遥のことを、ずっと、守りたいと思っていた気持ち。


「キンモク、一緒に帰ろう。わたし達はずっと一緒よ……」


 キンモクが遥の頬を伝う涙をペロリと舐めた。

 その仕草は、いつもと変わらない。

 思わずキンモクの首筋に顔を埋める。

 温かい。懐かしい匂い。

 毎日、散歩から帰ってきた時の。

 毎晩、一緒に眠る時の。

 大切な、大切な香り。


 キンモクは少しだけ頭を傾けると遥に体重を預ける。


「キンモク……! わたしのキンモク!」


 やがて、わずかな温もりだけを残して、ふわりと煙のように消えた。


「キンモク……ッ! 行かないで……!」


 遥はグシャグシャの顔で空を見上げる。

 二匹の姿が、まるで光の粒となって昇っていく。


「あ……」


 白い犬の尻尾の付け根に、茶色くて丸い模様があった。


「コロッケ……」


 遥は最後の声を振り絞る。


「コロッケ、ありがとう! キンモクを……、キンモクを……」


 よろしくお願いします、という言葉は声にならなかった。


 いつの間にか遥の隣に、信号機の青の男が立っていた。

 幼稚園児ほどの背丈だった。


 遥は鼻をすすった。

 手を差し出して、青の男と手をつなぐ。

 二人で横断歩道の前に立つ。


 服の袖でゴシゴシと目を拭いて、前を見た。


「分かってる。わたしは、もう大丈夫……」


 だけど――。


「うう……、ひぐっ……」


 止めどもなく、涙があふれる。


 遥は泣きながら横断歩道を渡る。

 青の男は黙って遥の手を引いた。

 その手は、不思議と温かかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る