第3話 事故

 遥は小さい頃から、お母さんの思い出話を聞くのが好きだった。

 特に「コロッケ」という犬の話が大好きだった。


「真っ白い犬でね。尻尾の付け根に丸くて茶色い模様があってね、その形がコロッケに見えたの」


 コロッケは、保健所に収容されていた犬だったという。

 お母さんの父――、つまりお爺ちゃんが、保健所で殺処分を待つだけの犬を不憫に思い引き取ってきた。

 お母さんはコロッケをとても可愛がった。


 いよいよコロッケが寝たきりになった時、お母さんはもう大人だったけど、仕事の合間を縫って通い詰め、最期は、息を引き取るまで手を握り続けたという。


 その話を聞くたび遥は胸が熱くなった。

 自分もいつか誰かを守れるようになりたいと願った。


 キンモクがやってきてから、遥の生活は一変した。

 これまでは家でテレビばかり見ている遥だったが、キンモクと散歩する楽しみを知った。

 キンモクを連れていると、近所の人から「あら、かわいい子ね」と声をかけられることもある。

 遥はそれがとても誇らしく、嬉しかった。

 人と話すことはあまり得意でなかったが、キンモクのおかげで、大人の人とも少しは話せるようになった。


 学校から帰ってくると、キンモクが毎日尻尾を振って出迎えてくれる。それが何よりも嬉しかった。

 宿題をする時も、キンモクは隣でじっと鉛筆の先を見つめている。


 もちろん寝る時はいつも一緒だ。

 遥は隣で眠るキンモクの毛を撫でて、そっと毛布をかけてやる。

 その昔コロッケが使っていたお下がりの毛布だ。

 ふたりは、まるで姉と弟だった。


 大変だったのは、キンモクがお腹を壊した時だ。

 下痢が止まらず、遥とお母さんで一晩中看病した。

 次の日動物病院に連れていくと、キンモクは怖がりもせずに、まるで遥たちを安心させるように、検査にじっと耐えた。


 キンモクと出会ってから、遥の世界は少しずつ、だけど確実に広がっていった。


 そうして半年が過ぎ、暖かな春の日のこと。

 遥とキンモクはいつものコースを散歩していた。


「いい天気だね」と言うと、キンモクが嬉しそうに振り返る。


 交差点に差し掛かり、横断歩道を渡る。


「キンモク、今日のごはんはちょっと豪勢だよ。鶏のレバーを……」


 突然、右から何かが迫ってくる気配がした。

 視界の端に、猛スピードで迫ってくる車の影が映った。

 驚く間もなかった。

 目を閉じた瞬間、誰かの悲鳴が聞こえた。

 そして——。


 ふわりと宙に浮かぶ感覚がして、冷たい地面が頬に触れる。

 耳の奥でものすごい音が響いた。


 目を開けると歪んだガードレールが目に飛び込んできた。

 車が横倒しになって煙を上げている。


 足が震える。立てない。


(この車……、わたしをけようとしてぶつかったの?)


 どうしよう、自分のせいだろうか。


 人々の声が遠くなったり近くなったりする。

 沢山の人が動き回っている。


 遥はぼんやりとした意識で辺りを見回した。


 自分から少し離れた場所に、茶色い毛並みが見えた。

 遥はゆっくりと立ち上がる。


「キンモク……?」


 呟くように呼びかけると、キンモクがゆっくりと振り返った。


「キンモク……!」


 遥が声を上げた時、キンモクは一瞬だけ戸惑ったような表情を見せた。

 だがすぐに目を逸らすと、身をひるがえし逆方向へと駆けていく。


「待って! どこに行くの?」


 遥はキンモクの後を追う。

 怪我はしていないようで安心したが、事故に驚いてパニックになっているのかもしれない。


「キンモク、待って!」


 遥は走りながら名前を呼ぶ。

 いくら呼んでも、振り返る様子がない。

 追いつけない。距離がどんどん離される。遥は半泣きになっていた。


 やがて視界に商店街の入口が見えてきた。

 肺が苦しくなるほど走って、ようやく近づいた時、キンモクの姿がちょうど商店街の奥へと消えていくところだった。

 思わず手を伸ばしたが、もう追いつけなかった。


 そこは、遥がお母さんとよく訪れる商店街だった。

 息を荒げて入口まで辿り着いた時、なぜだか、ぞわりと鳥肌が立った。

 いつもの商店街だと思ったのに、不自然なほど静まり返っている。

 人が誰も歩いていない。


 頭上の看板を仰ぐ。


『◯△◇商店街』


 なぜだろう。急にグラグラとめまいがして商店街の名前がぼやける。


(名前が思い出せない……)


 遥は軽く頭を振る。


(それより、早くキンモクをつかまえないと……)


 商店街の先に目を凝らす。霧まで発生している。

 遥は深呼吸をして一歩を踏み出した。

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