第2話 写真

 朝目が覚めると、隣には幽霊になった健斗が居た。

 カーテンの隙間から漏れる朝日は外の暑さを感じさせる明るさ。気怠い寝起きの狭間で何度も瞬きしてやっと意識を浮上させる。

 横を見ればいつもの様に、俺の殆ど金髪に近い茶色の髪とピアスの付いた耳を健斗が撫でてそのまま愛おしそうに見詰められた。

「おはよう、包」

「……おはよ」

 何も変わらない朝、そんな風に錯覚してしまいそうになるが触れた手にいつもの温もりは無くて、ああやっぱりこいつが死んで幽霊になってしまったのは夢では無いのだと思い知らされる。

 アラームより早く起きてしまったのか、手探りでスマートフォンを掴み画面を確認するとやはりまだ起きるには早い時間だった。

「健斗、寝てねぇの?」

「俺さ、眠れなくて……っていうかビックリする程全く眠くなくて、夜中に実家行って来たんだ」

「そっか……」

「仏壇にじいちゃんの遺影があるんだけど、その横に俺のも増えてて。あーやっぱ俺死んじゃったかーって」

 困った顔で笑みを浮かべる健斗に何で笑えるんだよ、とそう思ったが言葉にはしない。何と声を掛けるのが正解なのか分からないからだ。

「薄々分かってたけど、実家に入る時ドア開いた音で母さんが出て来たのに俺の事見えてなかったみたいで。怖がらせただけだったし俺が何をしてもそっか、これ周りからはいわゆる心霊現象にしかならないんだって思った」

 少しだけ寂しそうな声色で語る健斗を何も言わずに抱き締めてやると背中に温度の無い腕が回される。死んで幽霊になったなんて現実叩き付けられて、健斗だって辛い筈だ。

「……俺には見えてっから」

「うん」

「見えてるし、こうやって触れる。俺は健斗がちゃんと居るって感じられんだよ」

「……包は本当にあったかいね」

 少しでも体温を分けてやりたくて、でもそんな事出来ないなんて分かり切ってるのに抱き締める腕に力を込めた。身体は冷たく、鼓動は聞こえない。生きていた頃の習慣でそうしているだけで実際は呼吸すら必要無いのかもしれなかった。

 とてもじゃないが生きているとは到底言えない存在。触れる程に嫌という程現実を突きつけられる。でも生前の、俺が良く知っている健斗の姿で、声で、仕草で……全てがこいつは紛れもなく健斗なのだと物語っていた。

「お前、どこまで出来んの?」

「簡単な事なら多分大体は……まぁ傍から見れば全部心霊現象って事になっちゃうんだけど」

「じゃあ朝飯」

「ああそっか、お腹空いた?よね。待ってて、今試しに作ってみるから」

 抱き締めていた腕を互いに解くとすぐに健斗がベッドから抜け出した。寝室から出て行く後ろ姿もいつもと何ら変わりない。透けている訳でもなければドアだってすり抜ける事無く開けている。

 俺が健斗の死を受け入れられなかったから?それとも健斗が言った様に未練が形になったから?それは分からない。ただ真実なのは今此処に居る健斗は確かに死んでいて、幽霊で、俺にしか見えないという事。

 スマートフォンを充電ケーブルから外してパジャマ替わりのハーフパンツのポケットに仕舞いベッドから降りると脱衣所にある洗面台へと向かった。洗面台の鏡を見れば我ながら酷い顔をしている。それはそうだ、恋人が死んだばかりなのだから。

 二本並んだ青と黄色の歯ブラシから黄色の物を迷いなく手に取り、隣にあった歯磨き粉のチューブからブラシ部分に塗り付ける様に中身を絞り出す。歯ブラシを咥えると満遍無く前歯も奥歯も磨いて行き最後にプラスチックのカップに蛇口から注いだ水で口を漱いだ。

 歯ブラシとプラカップを戻し前髪を掻き上げてから洗顔フォームを掌に出して泡立て、顔に塗り付ける。顔を洗っている内にリビングの方から良い匂いが漂って来て腹が鳴った。

 急いで蛇口を捻って両手で水を掬い顔に塗布した泡を洗い流す。髭は永久脱毛している為剃る必要は無い。

 フェイスタオルを手繰り寄せて水分を拭い、さっぱりした顔はほんの少しだけマシにはなった。そのままフェイスタオルを洗濯籠に放り込んでリビングへと向かう。漂う香りはベーコンの焼ける匂いだろうか。そもそも料理が出来る幽霊って何なんだと若干思いつつも横目にキッチンを覗き見ると健斗がフライパンでベーコンエッグを焼いている最中だった。

 その姿だけを見れば生きている人間と何ら変わりない。至って普通の、いつもの朝の光景だ。

 でも明確に違う事が分かる方法がある。テーブルと共にある椅子に座り、ポケットからスマートフォンを取り出す。ロックを解除しカメラアプリを開いてキッチンに居る健斗にカメラレンズを向けると此方に気付いた健斗が照れ笑いしているが画面には誰も写っては居なかった。

 真実を写すと書いて写真。ならば画面に写らない健斗は、生前と変わらず生きているかの様に振舞う健斗はやはり生者では無い。

 すぐにカメラアプリを閉じて、代わりにフォトアプリを開く。最後に撮った健斗の姿はまるで子どもみたいにすやすやと眠っている寝顔で、いつも俺よりも先に起きているこいつの寝顔というのは大層貴重なものだ。

 気が付いた時にはスマートフォンの画面に水滴が落ちていた。健斗の姿はもう二度と撮る事が叶わない。二人でふざけ合って写真を撮る事も、柄にも無くデートなんてして美しい背景と共にツーショットを撮る事も、何一つ出来ない。そう思うと涙が止まらなかった。

「包、泣かないで?ごはん出来たよ」

「泣いてねぇよ馬鹿」

「じゃあそういう事にしとこうか」

 いつの間にか傍に居た健斗に頭を撫でられ我に返り慌てて手の甲で涙を拭いスマートフォンの画面を消灯しポケットに戻す。その後すぐテーブルに一人分のベーコンエッグの皿と茶碗に盛られた白米、箸と水の入ったグラスが置かれた。

「お前の分は……」

「幽霊が食事とると思う?」

「……馬鹿野郎」

 向かい側の椅子に座り頬杖をついて笑顔で首を横に傾げて見せる健斗がこの時ばかりは恨めしく思った。死者と生者の境界線を引かれた気分だ。

「冷めない内に召し上がれ」

「いただき、ます」

 多分きっと俺はまた酷い顔をしている事だろう。それでも生きる為に両手を合わせてから箸を手に取って焼きたてのベーコンエッグを一口大に千切り頬張った。健斗だって俺が生きる事を望んでる。だからこうして幽霊になってまで現れたのだろう。

 健斗が作ってくれたベーコンエッグの味は生前作ってくれた物と殆ど変わらなかった。誰でも出来る簡単な料理だというのに胸が苦しくなる程美味しくて、また泣きそうになる。

「どう?美味しい?」

「腹立つ位うめぇよ」

「そっか、良かった」

 白米を口いっぱいに頬張ると健斗が満足した様に微笑む。しかしもう二度と健斗と味覚を共有する事も出来ない。一つずつ、着実に出来ない事が増えて行く。それが何より俺の心を苦しめた。

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