第5話

「名前は?」




聖也の問いかけに、彼女は更に戸惑い困惑した表情を浮かべた。

その証拠に長いまつ毛が小さく震え、2人の間に沈黙の時間が流れる。

何かまずい事でも言っただろうかと彼が心配しているのを他所に、彼女は手にしていたお弁当を横に置いてバッグの中をあさり始めた。

取り出したのは携帯電話…そしてそれに何かを打ち込み、その画面を聖也に見せた。

不思議に思いながらも携帯を覗くと、そこには『まりあ』という文字が…




「…これが名前?」




彼女は小さく頷きまた携帯に何かを打ち込み始めた。

そして再び見せられた画面を見て彼は衝撃を受ける……




『昨日はどうもありがとうございました。私は昔から病気で声が出ません。なので話しかけられても応えられません、ごめんなさい』


「話せないのかっ?」




そうだと言わんばかりに彼女は頷き、聖也を見つめ返した。

彼はショックだった…声が出ないだなんて誰が想像できるだろうか?昨日彼女はお礼を言わなかったんじゃない、言えなかったのだ。




「悪い、何も知らずに…」




彼女は首を横に振った。

そして荷物をまとめ小さくお辞儀をして公園を去っていく…その姿を追いかける事なく、ただ黙って見ているしかできなかった。

というのも、彼は今すごく困惑している。

惚れた相手が病気でしかも話せないとなると、どう接したらいいのかわからない。

それどころか、やっと近付けたと思ったのにむしろ壁ができてしまった。

この恋は諦めるべきなのだろうか?




「……まりあ、か…」




どうやら彼は諦めないつもりのようだ。

声が出ないからなんだというのだ、耳は聞こえているから時間はかかってもコミュニケーションはとれる…だったら問題はない。

彼女は応えられないなんて言っていたが、ちゃんと名前だって聞けたし、短い時間ではあったが現に会話は成立した。

ここなら昼間は人通りも少なく2人でゆっくりできる。

明日からは通りではなくこの公園に来よう、そう決心して聖也は家へ戻った。

あの戸惑った表情も手の仕草も全部…全部彼には魅力的に映った。

少しずつでいい……少しずつでいいから彼女との距離を縮めたかった。

なぜ彼がこんなに前向きなのか…何か複雑な事情があったのだろう、彼女の左手の薬指にはあるべきはずの指輪がはめられていなかった。

こんな事思うのは非常識なのかもしれないが、聖也にはそれが一番嬉しかったし、彼女と子供と自分の3人が並んでいる様子を思い浮かべた。




「やっぱりまだチャンスはある」




そう思うと自然と頬が緩んだ。

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