僕らはみんな生きている。

増田朋美

僕らはみんな生きている。

その日も涼しいのであるが陽射しは強くて、やはり暑いなあと思ってしまうような天気であった。今日もレッシーさんこと梅木武治さんは、水穂さんに鍼を打つため、製鉄所に行った。製鉄所に到着すると、製鉄所を管理しているジョチさんが、今日は新規で利用希望の方が見えるからといった。ちなみに製鉄所と言っても、鉄を作るところではない。居場所をなくした女性たちが、勉強や仕事をするための、部屋を貸し出す福祉施設であった。中には水穂さんのように、間借りをしている人もたまに出るが、大体の利用者は、自宅から通っていて、数時間単位で部屋を借りる人が、ほとんどであった。

レッシーさんは、ジョチさんに了解しましたと言って、水穂さんのいる四畳半へ行った。紙より白い顔をして、げっそりと痩せてしまっている水穂さんの体に、レッシーさんは、鍼を打ったり、灸を据えたり、更には肩を叩いて上げたりした。本当は大きな病院で治療すれば、水穂さんも良くなると思うのに、そういうことはできないのを、レッシーさんは知っていた。だからせめてもと思って施術は一生懸命にやった。こんなに丹精込めて施術したのは、生まれて初めてだと思うほど。

「梅木さんありがとうございました。肩までもんでいただいて、本当にすみません。気持ちが良かったです。」

水穂さんが丁寧に礼を言うと、レッシーさんは、いえ大丈夫ですとしか言うことはできなかった。

「これをお収めください。」

茶封筒の中に入っている一万円札に睨まれているような気がして、レッシーさんは、こわごわそれを受け取った。本当は、水穂さんから一万円を取り上げるなんて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「ありがとうございます。今日は新しい利用者さんが見えるそうですね。年々、ここを利用したがる方が増えているみたいですね。」

レッシーさんは水穂さんに言った。

「ええ。まあそうですね。確かに部屋を借りるだけならいいのですけど、その裏に重い事情が隠れている利用者さんが多くなってますね。」

水穂さんほど、重い問題を持っている人はいないのではないかと、レッシーさんは思ったが、それは言わないでおいた。

「なんでも、今回の方は一度は大学も出て、何でも学校へ勤務していたそうです。理想的な生き方のように見えるけど、本人にしてみたら辛いものだったのかな。」

水穂さんはそうレッシーさんに言った。

「そうですか。確かに東大卒の僕にも、学校の先生は、理想の職業のように見えるんですが、それも違うんですね。」

レッシーさんは、なんだか変だなあと言う顔で水穂さんに領収書を渡した。とりあえず、鍼の道具箱の蓋を閉めて、自分の膝の上に乗せて、製鉄所を出ようとしたところ、

「こんにちは。こちらへ面接をお願いしました、高木と申します。高木真里奈です。」

と、老女の声が聞こえてきた。高木真里奈というと、どこかで聞いたことがあるような名前と、レッシーさんは考えていたとき、

「ああはじめまして。高木さんですね。どうぞこちらへ。」

ジョチさんは二人を中へ招き入れた。レッシーさんは二人が入るのを見届けてから帰ろうかなと思っていたら、若い女性のほうがいきなり、

「あれ、う、う、梅木くんじゃない!」

と言った。

「わかるんですか、僕のこと。」

とレッシーさんが言うと、

「覚えてるわよ。いくら髪を長くして隠そうとしても、その長い耳はちゃんと覚えてます。」

と、若い女性、高木真里奈さんは言った。

「お知り合いだったんですか?」

ジョチさんが聞くと、

「ええ、彼が高校生のときに、副担任だったことがありました。そうですね、梅木武治くん。」

と、真里奈さんは教師らしくいう。

「はあ、つまり、受け持ちだったわけですか。」

と、ジョチさんが言うと、

「いえ、担任ではないんですけどね。私は、家政科の教師でしたが、ミシンを使う授業で、梅木くんはミシンの足ペダルが踏めないと言ってきたので、印象に残ってました。」

と、真里奈さんは答えた。

「ああ、そうなんですね。それは意外でした。」

ジョチさんはとりあえずそれしか言わなかった。

「梅木くんは、東大へ行って、国家試験には合格した?車椅子であっても、みんなを救いたいというゆめは叶えたのかな?あれだけ勉強して努力したんだから当然。」

「いえ、できませんでした!」

興奮してそう言っている真里奈さんに対して、レッシーさんはきっぱりといいきったのであった。

「足が悪いので、試験を受けることができませんでした。だから僕は鍼灸学校に入りなおして、鍼を打つ仕事につきました。」

真里奈さんの顔がさっと変わった。

「そんな、もったいないじゃない。東大行ったんだから、どこかで必ず採用してもらえるはずなのに。だって東大は日本一の学校よ。それさえ出せば、ちょっと無理なことだってできるんじゃないの?」

「先生、東大は水戸黄門の印籠ではありません。それは、大昔だったら通用するかもしれないけど、今はそんなことはないんです。まず初めに、学歴詐称ではないかと、疑われるのが当たり前です。この体で、東大に行ったなんて信じてもらえませんから。」

そんな馬鹿な、という顔をしている真里奈さんに、

「真里奈さん。残念ながら、彼のような例はたくさんありますよ。あなたは東京大学へ行けば何も問題なく生活できるような事を考えているようですけど、梅木さんのような不自由な方には、ありがた迷惑であることも、知っておかないとね。」

ジョチさんはしたり顔で言った。

「そうなの?だってあたしたちは、そのために指導してきたはずなのに?」

真里奈さんのほうがなんだか子供っぽく見えた。

「だから、先生がしていることは、なんの役にも立たないんです。こういう人間に取っては。」

レッシーさんがそう言うと、

「そうなの?梅木くん。」

真里奈さんは、レッシーさんに言った。

「そうなのって、先生は何人の生徒をおかしくさせてきたんですか?みんなに国立大学を目指そうとさせて、何人の生徒が洗脳されたと思っているんです?僕は幸い歩けないので、すぐに先生の言っていることは間違いだと気が付きましたけど、それに気が付かないでおとなになって、恐怖政治を子どもに強いる親になっていくんですよ。それでは、あの国家転覆を図った、宗教団体よりもっと悪いですよ。」

レッシーさんは、困った顔で言った。

「そんなこと、だって大学へ行けば誰でも幸せになれるって。」

「いいえそれはありません!先生、きちんと考え直してください。先生がしていることは、若い人を、大学進学で幸せにすると洗脳して、あの宗教団体みたいに、それしか考えさせないようにするだけです。先生は僕にいいましたよね。東大へ行けば、すごくいい地位に着くことができるから、それだけすごいものが得られる。またはこうもいいました。東大へいかない人は、仕事もしないで不幸になり、親や家族もつらい目にあい死んでいくしかないと。ですが僕は東大を出ても、就職先は決まらないで、親や家族を喜ばせることは、何もできませんでしたよ。そういうわけで、先生のしたことは間違いだったをわかったんです。だから、他の同級生たちは、本当に可哀想だなと思いましたよ。先生、どういうわけでここへ来たのかよくわかりませんが、皆さん先生みたいな人になにか言われて傷ついていますから、しっかり考えて過ごしてくださいね!よろしく頼みます。」

レッシーさんは真里奈先生に向けてそう言ったのであるが、真里奈先生は、床に崩れ落ちて泣き出してしまった。

「一体どうして、こちらを利用しようと思われたんですか?」

と、ジョチさんが聞くと、

「ある事件がきっかけで、学校を辞めてしまって、引きこもりになってしまったんです。」

と隣にいた女性が言った。

「ある事件とはなんですか?」

ジョチさんが聞くと、

「はい。実は、この子の勤めていた学校で、生徒さんが一人自殺してしまったようなんです。なんでも東大に受からなかったことが、原因だったようで。」

女性はそう答える。

「そうですね。先生は、他の新興宗教なんかもそうですけど、学校に行けば幸せになれるとか、そういうことは、散々言うくせに、もしだめだったらどうするかとか、楽しみをどう見つけるかに関しては全く教えてくれませんでした。だから、その生徒さんが自殺してしまっても、仕方ありませんよね。」

レッシーさんは大きなため息をついた。

「まさか、僕らのように、他の人と全く関わらず一人で勉強をして、できない人がいたら徹底的にバカにしろなんて、教えてないでしょうね。僕はそれが間違いであることはよく知ってますよ。どこの学校も、そういう場所になってますね。人より良い大学に入ることしか、幸せになる道はないっていいますよね。でもそれって本当は違いますよね。人って、助け合わなければ生きていけないんですよ。それを学校で教えることは絶対にしないで、上級学校への進学率ばかり考えているんですね!」

「それで、真里奈さんにお聞きしますが、あなたはどうするつもりですか?」

レッシーさんがそう言うと、ジョチさんが言った。

「ええ。とにかく人にあって、話をしないので、誰かに会えば変わってくれるかなあと思いまして。短時間でも行くところがあれば、本人も変わってくるのではないかと思うのです。」

と、隣にいた老女はそういうのであるが、

「いえ、お母様ではなくて、御本人に聞いているのです。」

ジョチさんは厳しく言った。

「いずれにしても、本人の力だけで生きていかなければならない時期と言うのは、必ずやってきますからね。そのためにどうしてもらうのかを考えていただかないと。」

「あたしは、もう行くところも何もありませんから、ここに通います。」

と、真里奈さんは言った。

「そうですか。わかりました。じゃあ、二時間程度から始めて見ますか。少し、他の利用者と話をして、自分のしでかした間違いに、早く気がつくことから始めることですね。」

ジョチさんはそう言って、お母さんにもう帰るように促した。とりあえず学校の先生をしていたということで、製鉄所の掃除などをさせればよくできるのだが、彼女、高木真里奈さんは、予想した通り、他の利用者からも嫌われた。皆、学校の先生という職業を、嫌っている女性が多いからだ。女性たちは、真里奈さんと口をきこうともせず、製鉄所には険悪な空気が流れた。ご飯を食べるときも、みんな真里奈さんとは口を聞かなかったし、彼女に、挨拶する利用者もいない。

そんな日々が続いてしまって、ジョチさんも、水穂さんもこれを何とかするにはどうしたらいいのか頭を悩ませた。また水穂さんに、鍼の施術をするため、レッシーさんが製鉄所に来訪したのであるが、その日、真里奈さんはまだ製鉄所に来ていなかった。レッシーさんは、真里奈さんはどうかと聞いたが、ジョチさんに状況を話されて、ちょっと自分が火種を作ってしまったのではないかと思ってしまった。

「失礼いたします。ちょっと大変なことが。」

そう言いながら真里奈さんがやってきた。右手には、郵便物の入った封筒が握られている。

「どうしたんです?」

とジョチさんが聞くと、

「これなんですけど。今朝、郵便で送られてきたんです。」

と真里奈さんは封を開いた。そこには、平仮名ばかりで、こう書かれていた。

「たかぎまりな先生へ。10日までに、いしゃりょうさんぜんまんを用意しろ。しなかったら、よしながこうこうをこうげきする。小森政子の息子より。」

つまり、この文書を翻訳すれば、10日までに、慰謝料を3000万円用意するように、しなかったら吉永高校を攻撃するというらしい。差出人は、小森政子という人の息子ということになっている。

「はあ。この文字を見ると、子どもの字ですね。大人が書いたものではありません。おそらく、小学校低学年くらいの子供さんの字だと思います。消印を見ると、横割郵便局となっていますから、横割の住人だと考えられますね。ただ、この文面から見ると、子どものいたずらというわけでもなさそうですね。」

ジョチさんは冷静に手紙を分析した。

「どうしよう。明日までに3000万って。」

真里奈さんはひどく慌てているが、

「いえ大丈夫です。警察に言って、調べてみることも大事ですが、まず冷静に判断することが必要です。真里奈さん、この文面から判断すると、小森政子という女性の息子が出したことになりますが、あなたの教え子に、小森政子という方はいますか?」

とジョチさんはすぐに言った。

「それが思い出せないんです。これまで、いろんな生徒さんを見てきましたから、」

「いや、言い訳をしている暇はありません。本当に、小森政子さんと言う方はいらっしゃらなかったのか、しっかり思い出してください。」

困った顔をして、思い出そうとしている真里奈さんに、ジョチさんはそういった。

「僕、知ってます。」

と、レッシーさんが言った。

「僕と同級生で、政子さんと言う方がいました。しかし、小森さんという名字ではなくて、岡島という名字でした。記憶に間違いなければ。」

「そうですか。そうなると、その方も38歳ということになりますね。それでは、小学校低学年の息子さんがいてもおかしくない年です。とにかく横割に行ってみて、小森さん、旧姓岡島さんという女性がいるかどうか、探してみましょう。」

ジョチさんは、そう言って出かける支度を始めた。水穂さんは、製鉄所に残ると言った。レッシーさんも一緒に行くと言った。二人は、すぐに障害者用のタクシーに乗り込み、出かけていってしまった。

「あたし、なんていうことをしたんでしょうか。今度は、生徒の息子さん、しかも小学校の息子さんに脅迫までされるなんて。」

と真里奈さんは、がっくりと落ち込んだ。

「本当に覚えていらっしゃらないのですか?確かに学校の先生は忙しいので、いちいち生徒さんの名前も覚えていられないというのも理解できますが。」

水穂さんが優しくそう言うと、

「水穂さんは、そうやって、私の事を肯定してくださるんですね。ありがとうございます。私は確かに、学校の先生をしていましたが、それほど偉いような人ではないのかもしれないです。」

真里奈さんはそういった。

「ええ人間ですから、誰だって過ちや間違いはするものだと思いますよ。機械ではないんですから。それでいろんなことが発生していくんじゃありませんか?」

水穂さんは真里奈さんにそう言って、

「本当に、小森政子さん、いや当時は岡島政子さんという生徒さんを、ご存じないのですか?」

と聞いてみた。

「 あまりにも従順で扱いやすい方だったので、覚えていないのかもしれません。もしかしたら、自分で勉強もするし、制服を変なふうに着ることもしないし、だから私の記憶にないのかもしれません。どうして、こういうことが思い出せないんだろう。」

真里奈さんは涙をこぼしながら言った。

「そうですか。確かに、学校の先生というのは、大変な職業かもしれないですけど、せめて生徒さん一人ひとりを覚えていられるような環境であれば、こういう事件は発生しなかったんじゃないんでしょうか。」

水穂さんはそう真里奈さんに言った。

「そうですね。一応、担任もいて、私は副担任だったんですけど、仕事が、山のように溜まってしまって、時にはいじめの仲裁をしたり、出来もしないで部活の顧問をしたり、もう学校は振り回されて、そればっかりで。確かに生徒の事を思い出している暇はありません。それは確かにそうです。そんなわけですもの、生徒さんに、印象に残るような教育なんてできるわけがありませんよね。」

真里奈さんは先生でなければわからない愚痴を言った。

「そうですね。もう少し、生徒さんに対して、深く接してあげられる教育ができると、非行に走る少年とか、薬物に走る少年などが減るのかもしれません。」

水穂さんは、真里奈さんに話をあわせた。

「この間、梅木くんにも言われましたよね。東大は、水戸黄門の印籠じゃないって。私、本気で信じてしまってました。東大に行けば誰でも幸せになれるって。でも、そうではなくて、不自由な生活を強いられている人のほうが多いのかもしれない。こうやって私に、脅迫状を送りつけてくる人だっているわけですからね。」

「お仲間ですよ。みんなそういう気持ちで生きてるんじゃないですか。人間ですし、完璧に何でもできるわけがないじゃないですか。誰だって若いときは、東大に行けば幸せになれるとか、そういう言葉通りに生きてしまうものです。でもこれで良かったじゃないですか。それで、間違いであった事を知ることができたのですから。」

と、水穂さんは、にこやかに笑った。

「そうなんですね。」

真里奈さんがそう言うと、水穂さんのスマートフォンがなった。水穂さんは、二言三言、スマートフォンで言葉を交わして、電話を切った。

「どうしたんですか?」

と、真里奈さんが聞くと、

「ええ、やはり、横割に住んでいる、小森政子さん、旧姓岡島政子さんの息子さんが書いたものだと認めてくれました。小森政子さんは、高校を卒業されて、大学へ進学されて精神がおかしくなってしまい、結婚して、一時的に回復していたそうですが、子どもさんが生まれたときからまたおかしくなってしまったそうです。息子さんは、お母様が、学校のことで何度も泣いていたのを目撃して、自分でなんとかできないかと思って、あの手紙を出したんだと認めてくれたそうですよ。」

と、水穂さんはそう言ってくれた。

「そうですか。やはり、私は、教師としてだめだったということですね。私は、なんてひどい人間だったんだろう。それでは、岡島さんだけでなく、息子さんも傷つけてしまった。それでは、行けないですよね。これから私はどうしたらいいのでしょうか?」

と、真里奈さんは水穂さんに聞いてしまった。

「ええ、仕方ないというか、人間だからこういう事をしてしまうんだと思ってくれればそれで良いと思いますよ。それもそうですけど、二度と繰り返さないと思って、生きていくのが大事なことなのではないのですか?」

水穂さんは、真里奈さんをそう言って励ました。

「結局のところ、僕らはみんな生きているってことだと思うんですけど。間違えたり、失敗したりしながらね。」


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僕らはみんな生きている。 増田朋美 @masubuchi4996

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