第一章 赤
小高い丘の家
小学四年生の六月、僕はこの地方都市に引っ越してきた。父が転勤族で小学校は五回も転校したし、ある小学校では三ヶ月も通わない事すらあった。しかし、最終的にはこの街に落ち着き、この時以来実家が変わることは無かった。
僕の家は街のはずれの方、近くには山や森も見えていて、都会と田舎を三対七に分けたような場所だった。
僕はあまりにも転校の頻度が多かったので、自分から友達を作らないようにしていた。当然、この時も直ぐに引っ越して行くとばかり考えていたので、クラスの人気者からの遊びの誘いをシカトして帰路についた。
学校から家までは歩いておよそ十五分。道は一応舗装されてはいるが、まるで赤ん坊がクレヨンで落書きしたような道の引き方であった。つまり、引越したばかりの僕は迷子になった。
あちらこちらの道を歩き回り、気付けば全く見知らぬ通りを歩いている。
道路横の竹林を抜け、石階段を上がる。
大きいが寂れた鳥居が、竹林の中を所狭しと仁王立ちしている。
その奥に見える建物(本堂?)に、ひとりの女の人が座っていた。その女の人は僕に気づく様子もなく、静かに座っている。
いや、なにか手を動かしていた。
僕は一歩近づく。何か持っている?
もう一歩、近づく。僕は鳥居にくっついて、横から顔を覗かせた。
手には、スケッチブックと筆を持っていた。
そうか、絵だ。
その女の人は絵を描いていた。
横に置かれたパレットから滑らかな色の絵の具を筆にのせ、さらさらと紙に線を引く。まるで、既に全ての動きが決まっているかのように、止まることなく描き続ける。
僕はその様を、どれくらい見ていただろうか。
竹林の中はだいぶ暗くなっていて、女の人はパレットや筆を鞄にしまい始める。僕は今更ながら思う。もしも覗いていたことが見つかってしまったら、とてつもなく恥ずかしい。ゆっくりと後ずさりする。
しかしその時、僕の肩に何かが触れた。
「うわっ!」
驚いた拍子に前へ進もうとするが、足を引っ掛けて派手に転ぶ。僕は鳥居の中に入った。
「何事ですか?」
「君、大丈夫? 驚かせるつもりはなかったんだ、ごめんよ」
二人の大人の声がする。
うつ伏せの状態で、何が何だか理解が追いつかない。
数秒経って、ようやく状況に頭が追いついて、僕は立ち上がった。僕の目の前には、さっきまで絵を描いていた女の人と、坊主頭の眼鏡をかけた男の人が居る。
「驚かせてしまったかな。本当にごめんね」
坊主の男の人は心配そうな目で僕を見る。そして、女の人が、あ、と言った。
「膝から血、出てる」
女の人は僕の右膝を指差して呟いた。
男の人もあっと慌てる。僕自身、指摘されるまで全く気づかなかった。見知らぬ場所で、見知らぬ大人ふたりに囲まれている(その時はそう感じていた)この状況から、一刻も早く脱したかった。
「い、いえ、大丈夫……です。僕は、帰りますね、失礼します」
軽く会釈して後ろを向くが、腕をぱっと掴まれた。ひっ、と内心声を出し、目には涙が滲み出た。
「流石にそのまま返す訳には行かないよ、手当しないと」
男の人は申し訳なさそうに言う。
「じゃあ、私の家近いから、この子おんぶして来てください。消毒とかありますから」
女の人がそう言うと、男の人は頷く。
「いえ結構です!」
「俺のせいで怪我してるんだから、手当はさせてくれ」
男の人は背中を向けてしゃがんだ。女の人は、乗りなよ、とでも言いたげな顔で僕を見た。
僕は渋々おんぶされることにした。神社の奥には、さらに竹林の中に道が続いている。
「本当はな、こうやって知らない大人に着いてきちゃだめなんだぞ」
僕をおんぶした男の人の前を歩く女の人は、両手をポケットに突っ込んでそう言った。
「それじゃあ、俺達も不審者みたいじゃないか」
僕は全くその通りだと思ったが、怖くて何も言えない。
「確かにそうか。けど、私たちは不審者じゃあないし……」
「それじゃあ、自己紹介?」
女の人は黙ったまま歩く。対して男の人はおんぶしながら、僕の方を見る。
「俺は
よろしく、と爽やかな笑顔を向けた。僕は、不信感しか無かった。
「ほら、お前も自己紹介」
志水が促す。女の人はこちらを向かない。
「……
そう言うと、歩みが少し速くなった。
「ごめんな。あいつ、無愛想なんだ」
小声でそう言うが、「聞こえているぞ!」と羽釜は怒鳴った。
竹林を抜けると、小高い丘にたどり着いた。その少し先に、一件の家がある。
「あそこが私の家だ」
なんだか昔話か、童話にでも出てきそうな家だった。羽釜は玄関のドアを開けて、「どうぞ」と僕らを招き入れた。
「なあ、玄関の鍵くらい閉めたらどうなんだ」
「家に盗られて困るものなんてない」
「……そういうのをやめろって言ってんだよ、俺はよ」
「…………早く入りなよ」
真っ暗な家の中に入る。何かにおいがする。
かちりと電気をつけて、その正体がわかった。
「絵が、こんなに沢山」
絵の具のにおいだ。
その部屋には、びっしりと絵があった。
床も壁も絵の具だらけで、そして絵が大量に置かれている。
「そこに座って」
羽釜が指さしたのは、絵の具まみれの椅子だった。志水が僕を下ろす。僕は座るのを躊躇うが、「もう乾いてるから服には付かないよ」と羽釜は言った。
奥の部屋に行きガサガサとものを漁る音がして、あったあったと消毒や絆創膏を持ってきた。
「で、なんでずっと私の事見てたの?」
志水が僕の足の手当をしている間に、そう問われてビクリと反応する。
ばれていた。そう思うと途端に恥ずかしくなり、顔が赤くなっていくのが自分でわかる。
「見ていて……面白いものでもなかったろう」
僕と目を合わせることなく、そう続けた。その瞳の先には、ひとつの絵。
静かな池に、一匹の白鳥が浮かんでいる。僕には、何故か悲しそうに見えるその絵に、まるで睨むかのような視線を羽釜は向けた。いや、睨んでいるのではなく、悲しんでいるのだろうか。その真意は、定かではなかった。
子供ながらに、なにか事情があるのだろうと思った。でも、一言だけと、口を開く。
「面白かった、です」
羽釜は一瞬目を丸くしたが、はあ、とため息をついて元の目に戻った。
「よし、できた。痛かっただろう、本当にごめんね」
「大丈夫です。わざわざ、ありがとうございました」
僕は立ち上がり頭を下げた。
「もう遅いから、早く帰りなさい」
羽釜がドアを開ける。僕はそのままありがとうございました、ともう一度告げて外へ出た。
でも、何故だろう。気になって、振り返る。 まだ開けたままのドアの前に、羽釜は立っている。
「また絵を……見に来ても、いい、ですか?」
何言ってんだと、僕は自分自身で思った。
無視されるか、軽くあしらわれると思った。
「……ああ、いいよ。いつでも来なよ、暇なんだ」
その時、羽釜が初めて笑うところを見た。
ちなみに、結局、家に帰るまでもう一時間かかり、親に怒られたことはここだけの秘密だ。
「あ、あの子の名前。聞き忘れちゃったなぁ」
「子供を怪我させといて茶まで飲みやがって。さっさと帰れ」
志水は出されたお茶を一口飲み込んで、ふうと息をつく。
「怪我させたのは本当に申し訳なかったな。まさかあそこまで驚くとは」
「子供はビビりなんだよ」
「けど、そんな子供に簡単に絆されてたな」
「絆されてなんかない」
この家にある絵を、人に見せる機会なんてそうそうなかった。描いているのを見せる機会は、もっとなかった。それ故に。
『面白かった、です』
あんな事を言われたのは、久しぶりだった。
志水は、白鳥の絵を見て、お茶をもう一口啜ってから言う。
「やっぱりな」
「何が?」
「あの絵のことだよ」
羽釜の静かな目が志水を射抜く。
「……お前はもう、いつ絵が描けなくなってもおかしくないんだ」
「ああ」
「描けなくなってからじゃあ、後悔したって遅いんだぞ」
「分かっている」
「分かってないさ。お前は何も分かってない。あの日から、お前は止まったままだ……」
言うな、志水。そんな事は、私がいちばんよく、分かっている。
羽釜は俯いたまま。
志水は立ち上がり、羽釜の家を後にした。
あの子供が羽釜を帰るきっかけになるような気がして、そんな淡い期待を胸に、帰路についた。
色相環のパラグラム 兎莵兔菟 @usagi-rabbit
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