第5話 指輪
さて、長くなったが、十真が指輪を渡された光景に戻る。
リビングルームにて、ヴェルナーから手渡された指輪を、十真はゆっくりと箱ごと手に取った。こういった長い経緯もあり指輪を渡すことは既に伝えていたため、彼も心構えはできていただろうが、いざ渡してみると本当に受け取ってもらえるのかという不安がどうしても心の中に居座っていた。そのため、まずはこうして受け入れてもらえて静かに胸を撫で下ろす。同時に、バランスを調整するため、片方の膝を立てた状態から、一旦両膝を立てた姿勢に変えた。本来はきちんとプロポーズが終わるまで片膝を立てている方がいいのだろうが、少ししんどくなってしまったのだ。
十真は自身の手のひらに置かれた小さな箱を見て詠嘆の溜め息を吐き、軽い笑みを零した。蓋が開けられた箱の中央にはプラチナリングが収まっており、それを見た十真が口の端を緩めて小さく笑った。
「ははっ、ほんっとに指輪だ……マジモンじゃねぇか……」
「そりゃそうでしょ。おもちゃの指輪なんて持ってこないよ」
「……高いんじゃねぇの」
「何を言うのさ。これはある意味婚約指輪なんだよ? 婚約指輪買えないくらいに困窮してるってことはないよ」
「それも、そうか」
「うん。さて、トーマ。返事は? 俺と一緒に居てくれる?」
ヴェルナーは再度片膝を立て、表情を正して問いかける。すると、十真は少し間を開けてから、照れくさそうな笑みを浮かべてこう返答した。
「もちろん、喜んで。僕はヴェルナーが許してくれるなら、ずっとあんたの傍にいるよ」
柔らかく言葉を零した十真が、明かりの元で目を細め改めて礼を述べた。いつになく嬉しそうに微笑んでおり、穏やかな雰囲気が垣間見える。
それが嬉しくてヴェルナーもつい微笑んだ。続けて、ヴェルナーは十真が手に持つ指輪を指して問いかける。
「それ、俺が嵌めてもいいかな」
「うん、じゃあ、お願いするよ」
依然として照れくさそうに眉を下げる十真は、じゃあと一呼吸置いて一旦指輪を戻してから右手を差し出してくる。これにヴェルナーはやや驚いた。手を差し出してきたことに……ではない。右手を出されたことに少し驚いたのだった。
ヴェルナーの認識では婚約指輪や結婚指輪というのは左手の薬指に通すものだったはずだ。もちろん、東欧やドイツなど地域によっては右手に着ける習慣の国もある。しかし、日本では左手が多いはずだ。
そこがどうしても気になり、恐る恐る指摘すると、十真はあぁ、と息を零してきごちなく返す。
「うーん、なんとなく婚約指輪は右につけたいなって思ってて……僕の中の勝手な考えというか。左につけるのはまだ違うかなって……」
「……ふーん? まあ、トーマがそれでいいならいいよ。じゃ、失礼して」
正直あまり納得できてはいないが、十真の中で線引きがあるのだろう。そこまできつく指摘するものではないし彼がいいならそれで良い。
ヴェルナーは、箱から指輪を取り出して、一定の緊張感と共に十真の右手の薬指に静かに装着した。プラチナリングとライトグリーンの石が彼の大きな手に輝きと彩りを添える。
十真は、それを目にして僅かに顔を緩めたあと、手をかざすように上げて指輪をじっくりと眺める。
「うぉー……はは、すごいなあ、指輪貰っちゃった……」
「どう? 気に入ってくれた?」
「うん。とっても気に入ったよ。最高の気分!」
喜色満面といった笑みを浮かべる十真の様子を見ると、ヴェルナーも指輪を贈った甲斐があるというもの。ついつい顔が緩み胸の内が温かくなる。最初は心の内にある不安から提案したものだったが、実際は単純に指輪を贈りたい、喜ぶ恋人の顔が見たかっただけなのかもしれない。
なんてことを考えながら、ついていた膝を戻して床からソファへと座り直し、手元にあった箱をローテーブルに戻す。ついでに暫し長めに片膝をついていたからか、床に着けていた箇所が少し痛くなってしまった。
多少痛みを気にするように擦っていると、それに気づいた十真が一瞬困ったように顔を曇らせる。
「あ、膝痛かった? 大丈夫か?」
「ちょっと痛かったけど大丈夫。気にしないで。すぐ収まるよ」
「それならいいけど。しかし別に片膝つかなくてもいいのに……」
「何言ってるの。プロポーズするならあのポーズが定番でしょ」
「それも……そうか」
「そうだよ。……さて、じゃあ、次はそっちかな」
「……うん、そうだね。……じゃあ、えーっと……暫しお待ちを」
「うん」
十真はソファの片隅に置いてあった袋から箱を取り出し、緊張しているのかふぅと小さく息を吐いてからソファから一段降りる。どうやらヴェルナーに倣って膝をついてくれるらしい。その光景に胸をときめかせながら、彼の言葉を待つ。
十真がケースの蓋を開ける。そこにはヴェルナーが見せたものとは異なる輝きのホワイトゴールドのリングがあった。リングの一部がウェーブのあるデザインになっており、デザインもシンプルである。
それを見せ、頬をやや赤く染めながらも真剣な顔つきでヴェルナーを見つめた彼は、力強い声を発する。
「ヴェルナー! ……僕は、ヴェルナーのことを一番愛してるし、貴方とずっと一緒にいたいと思ってる。だから、その証拠として……よかったら、指輪、受け取ってください!」
「もちろん! ありがとう、嬉しいよ。……じゃあ、折角だし、トーマも俺の指に指輪着けてよ」
「うん、分かった。いいよ」
開かれた箱がずいっと差し出され、ヴェルナーはその想いを受け入れた。続けてにこやかに左手を差し出す。十真はどうあれ、ヴェルナーは左手に指輪を着けるつもりでいた。指輪に関してはここまで来て受け取らない選択肢はないし、自分の希望を汲んだ上でこれを選んでくれたのだと思うととても嬉しいし、ついつい頬が緩む。
十真が緊張した面持ちで左手の薬指に指輪を嵌めて、手の甲に軽く唇を落とした。可愛らしい愛情表現にたまらない気持ちになる。
そしてホワイトゴールドのシンプルなリングが、ヴェルナーのふくよかな指に添えられて煌めく。ウェーブのあるデザインも相俟ってヴェルナーの手によく似合っており、ついほくほくとした気持ちになった。ふにゃふにゃと頬を緩めて目線の先にあるリングをじっと眺める。
「ふふ、嬉しいね。俺が言い出したこととはいえ、やっぱり恋人から指輪貰うって特別な体験だねえ」
「喜んで貰えて何より。こっちもありがとな、指輪、すごく嬉しいよ」
ソファに座り直した十真がうっとりした声色で話して体を凭れされる。手を伸ばして右手に着けられた指輪をまじまじと見つめており、本当に言葉通り、彼が喜ばしく感じていることを改めて認識した。体にかかる重みは決して軽くはないものの悪い気はせず、寧ろもっと彼のことを身近に感じたくて肩を寄せる。
体を寄せた際に、十真と目が合った。お互いに瞳をじぃっと見つめ合ってからどちらからともなく目を細めて唇を重ね合う。一度だけでなく二度、三度と何度も口づけをする。肩に添えていた手を頬にやると、そこに軽く十真が手を重ねてきた。手のひらの温かい温度の中に僅かに冷たい指輪の感覚が伝わってくる。そのまま貪るように口内を味わい尽くしてふと口を離し薄く瞼を開けると、十真も同じようにぼんやりと目を開けていて、蕩けた瞳と視線が合った。十真は目を細めてから更に口づけをし高と思うと、ヴェルナーの体へ手を回し抱擁する。
「『はー……最高、幸せ……』」
「……ん? 日本語? ごめん、なんて言った?」
「あ、ごめんごめん、幸せだなあって言っただけ」
一瞬聞こえた聞き取れない言語を聞き返せば、十真は慌ててドイツ語で言葉を返す。そこで出てきた『幸せ』というワードに、ヴェルナーは耳を傾けると、十真は心底満足げな声色でゆっくりと言葉を続けていく。
「恋人家に呼べて、おつまみとはいえ僕が作ったご飯も食べてくれて、指輪も交換できてさ。なんか、めっちゃいいなあって。将来どうするかってことも僕の中で見えてきたし、お互いのためにも、いい方向に向けたのかなって……」
「なるほどね、そう思ってくれたなら嬉しいや。……俺も、最初は自分の我が儘かもって思ったけど、結果的に良い方向に行ったなら、よかったのかな」
明るめの茶髪に指を通して目を細める。自分のも行動も肯定されたような気がしたことや、幸せを純粋に喜んでくれる彼のことがなんとも愛らしく思えた。
十真は、最後にもう一度ヴェルナーに軽く口づけをしてにこっと微笑む。何だろうと思っていると、ちらりと壁に掛かる時計に目を向けて『そろそろ寝るか』小さく呟いた。
彼につられてヴェルナーも時計を見やる。壁にあるそれはとうに天辺を過ぎ、それどころか深夜1時が間近になっている頃だった。
一瞬、もうそんな時間かと驚いたが、冷静になれば納得だ。ヴェルナーが日本に着いたのがおよそ18時半頃。そこから食事休憩をして十真の家に向かい、到着したのが23時前、そこから十真と酒を飲み始め近況報告や雑談に花を咲かせて更に指輪交換なんかもしていたのだから、そんな時間にもなる。そう意識したら途端に眠気が襲ってくるような、そんな感覚さえ合った。
「……いつの間にか、結構時間経ってたんだね」
呆然と呟くヴェルナーの傍から、十真が徐に立ち上がって移動しぐぐっと伸びをする。動きに合わせて呻き声も発され、続けてヴェルナーの呟きに言葉を返すように言葉を発した。
「だな。そろそろ片付けるか。んでシャワーして寝よう。明日もそんな急がなくてもいいけど、昼は予約した店に行くのだけは外せないからな」
「はーい。明日のそのお店ってどんなのが出るんだっけ」
「料亭の和食だよ。ご飯と吸い物といろんなおかずが出る予定。ついでに個室だからゆっくり食事できるよ」
「へぇ、楽しみだね。……あ、俺も片付けやるよ」
「ありがと。じゃあグラスをシンクに下げといてくれる?」
「うん、もちろん」
ローテーブルに置かれた食器やボトルを片付けながら、十真が答えを返す。ヴェルナーも十真の指示従い、使用したグラスをシンクへと運ぶ。
今回十真が予約した料亭は日本人だけでなく外国人観光客にも人気の店なのだそう。英語が話せる仲居がいるとか、英語で書かれたメニュー表があるとか。もちろん訪れる外国人観光客全員が英語を話すわけではないが、そういう対応があると助かる外国人観光客も多いだろう。
実際、ヴェルナーも英語が併記してある方が楽である。母国語はドイツ語だが英語も習得している。ドイツ語が難しいなら英語でコミュニケーションがとれると非常にありがたい。今から料亭での食事が楽しみだ。
さて、それから食器等を片付けた後は、十真に促され先に歯を磨きシャワーを浴びることにした。自身がそういったことをしている間に皿洗い等をするらしい。そんなに任せていいのかと少し気になったが、十真がいいというのだからお言葉に甘えよう。
「お湯をバスタブに入れないんだね」
「もうこんな時間だしなあ。それにあんたはシャワーのが楽だろ」
「確かに。……じゃあシャワー室借りるね」
「はーい」
その返事を耳にしながら、ヴェルナーは自身の荷物からバスタオルや寝間着、旅行用の歯ブラシ等を取り出して洗面所へ向かった。
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