第3話 懸念
それからおよそ一時間後、ワインやつまみを楽しみほろ酔い状態になったヴェルナーは、十真にひたすら愛の言葉を囁いている真っ最中であった。
ローテーブルにはカラになったワインボトルが鎮座し、並べられたいくつかの皿はオリーブオイルやドレッシングが残る程度で、すべて綺麗に完食されている。
そんな状態で、ヴェルナーはソファに座る十真の肩や腰を抱きひたすらに愛をぶつけている光景が展開されていた。
「トーマ、好きだよ、愛してるよ。ほんと、俺にとっては最高の人だよ君は。かっこいいし可愛いし、若い頃の君も可愛くて良かったけど今の君も美形で素敵だよねえ」
「そ、そりゃどうも……」
「おじいちゃんになってもかっこいいんだろうなあ君は」
「そ、そういうあんただって……」
「ん? 何?」
「……えっと、ヴェルナーも、今も昔も……かっこいいよ」
「んふー、ほんと? うれしいなぁ」
十真が耳まで赤くし、更に目線を泳がせてぎこちなく返す。ヴェルナーは、こういった彼の初々しい反応が可愛らしくて非常に好きだった。
これも、年に一度や二度しか会うことができないというのも大きな要因かもしれない。しかし、電話越しやモニター越しでも、直接でも愛しい気持ちを伝えれば十真は彼なりに言葉を返してくれる。そう思うと初々しい反応でもなんでも嬉しいのだ。
「かわいいねぇ、トーマは。かわいいよ」
「あ、ありがと」
「可愛い可愛い、よ~しよし」
「……今日のあんた、大分酔ってるな?」
ふわふわとした不思議な気持ちになっているヴェルナーは、子供をあやすように十真の頭を撫で、頬に触れる。すると呆れた様子の十真がそんなことを呟いた。そう言われて自身を顧みると、確かに普段の十真とのやりとりと比べて随分気分が高揚しており、それを惜しげもなく表に出している気がする。
「んーそうかも。やっぱり久々に会えたし、トーマの家だし、気分上がっちゃったのかな。お酒の量や度数はいつもと変わらない筈なのに、すごくふわふわした気持ちだから」
「そっか……。でも、その、明日観光できるか?」
「観光できるよ! 大丈夫! まあ、できなかったらトーマと一日いちゃいちゃするのもありかなって思ってる」
「それもありかも……。……いや、でも昼食は店予約してるから、少なくともそれには間に合うように起きような!」
「そうだった、ごめんごめん。大丈夫、ちゃんと起きるから」
「思い出してくれたならいいよ。……明日も楽しみだな」
「うん、そうだね」
ふわふわと笑っていたヴェルナーが、慌てて眉根を下げて謝罪を口にすると、十真は眉根を下げて柔らかく笑みを浮かべてそう返した。少しばかり困らせたのはこちらなのに、そんな風に優しげな笑みを浮かべる彼はなんとも可愛らしく思えてしまう。だからつい、愛おしげに思いながらじっと見つめて片手で頬をなぞった。
続けて暫く彼の頬をぺちぺちふにゃふにゃと触った後、何気ない素振りでぽつりと『キスしていい?』なんて問いかけると、その質問に十真は驚いたように短く声を漏らす。恐らく改めて聞かれると思わなかったのだろう。十真は数秒沈黙したあと、緊張した様子で小さく『いいよ』と返した。
それを受けて、ヴェルナーは少しだけ距離を詰めると両頬にそれぞれ手を添えて徐に目を閉じ唇を重ねた。十真も、静かに目を閉じてそれを受け入れる。思えば、二人きりの状況になってからこのようなわかりやすい愛情表現をしていなかった。空港ではあんなに抱擁したい気持ちに駆られていたというのに、再会してから時間が経ったからだろうか、それとも食事に夢中になっていたからだろうか。ヴェルナーにもよく分からなかったが、折角二人きりで存分に愛し合える状況なのに、なにもしないというのはもったいない気がする。
ヴェルナーは、柔く重ねた唇を少し離してから、もう一度口づけをする。途中、ワインの味をほのかに感じながらちゅ、ちゅと小さな音を響かせて更に唇長く重ね合わせ、ゆっくりと離し、火照った心持ちで彼を見上げる。
「……トーマ」
「…………ははっ、なんだよ」
「愛してるよ、トーマ」
「…………僕も、あ、愛してるよ」
普段あまりはっきりと言ってくれない十真が、照れくさそうに返してくれた。それが嬉しくてつい破顔し、もう一度口づけをしてそのまま覆い被さるように抱きつく。
その行動に十真は一瞬戸惑ったように眉根を寄せたが、嫌悪感ではなくどうやら重たかったためらしい。自分に負担のないようにソファの上で姿勢を整えてから、ヴェルナーの体を抱き寄せ、短い髪を撫でる。そんな状態で恋人に甘えているとついつい気分も開放的になるが、愛の言葉だけでなく普段極力口にしないようにしていた想いも表に出てしまう。
「トーマ、好きだよ、愛してるよ」
「うん、ありがと。僕も好きだよ。ヴェルナーのこと愛してるよ」
「……ねぇ、俺のところに来てよ。一緒に住もう。結婚はまだできないけど、パートナーシップはあるし、トーマならこっちでも充分やっていけるよ」
「あ……えっと……そう言ってくれるのは嬉しいけど……」
「……ごめん、まだ無理だよね、ごめん」
「あ、いや、こっちもごめん」
ヴェルナーの言葉に、十真は顔を曇らせて慌てて謝罪を口にする。何も、十真はヴェルナーと生活するのが嫌だと言っている訳ではない。十真だってもっと傍にいたいと思ってくれているそうだ。では何故『まだ無理』なのか。それには事情がある。
十真には何人もの甥姪がおり、彼はその子達の面倒を見なくてはならないのだそう。その子たちはそれぞれ姉二人の子供で、姉達が非常に多忙なため面倒を見るのを押しつけられているという状況なようだ。しかも月に数回というような頻度ではなく、週に何度も。いや、ほぼ毎日というべきか。
十真は、平日には仕事終わりに同じ市内にある長姉の家に向かい、甥姪の様子を見たり家事を共にこなしたり、保護者向けの連絡に目を通すことが多いという。更に週末は大阪府にある次姉の邸宅に行き、次姉の子供達の習い事の送迎などをするのだそうだ。甥姪は皆しっかりしており家事も兄弟姉妹で分担しこなしているというが、まだ学生で未成年の子も多い。それ故に定期的に様子を見に行かないと心配なのだろう。
しかも普段の家事等だけでなく、十真がいじめ問題や受験問題に対応したこともあるといい、彼の負担が多すぎるのではないかと心配になる。
ヴェルナーは、十真が甥姪の面倒を見ていること自体に文句を言う気はないが、しかし、十真が過度に負担を負う必要はないのではと考えているし、そのせいで彼自身のやりたいことが後回しになるのはいかがなものかと考えてしまうのだ。
別に何もヴェルナーは『トーマは必ず俺と一緒になりたいと思ってくれているはずだし、それを最優先すべきだ』なんてことを考えている訳ではない。ただ、甥姪のことを優先しすぎて十真本人の私生活に悪影響を及ぼしているのでは良くないと思ってしまう。そもそも、甥姪は十真の子供ではないし、その負担は本来十真が過度に負うものではない。
別に、甥姪の親である長姉夫婦や次姉夫婦がすべて負担しろと言いたいわけではない。周囲を頼ることも問題ない。ただ、限度があるだろうと言いたいだけだ。
そんなことをあれやこれや考えながら、ヴェルナーは十真に身を預ける。
「……その、別に、トーマが全部やらなきゃいけないわけじゃないからね」
「それは分かってるよ。でも、甥っ子と姪っ子のことは心配だし。……成人してる子もいるけど、大半が未成年だし」
「そっか……あれ、トーマの甥っ子と姪っ子って全部で何人いるんだっけ」
ヴェルナーの問いかけに、十真は思い出すように目線を上に逸らし人数を確認する。
「えーっと……11人だね。そのうち、近くに住んでて僕がよく様子見に行ってるのが9人。遠方にいるけどどうしても心配で気にかけてるのが1人って感じかな」
「多いねぇ。……あれ、後の1人は?」
「あぁ、その子は見た感じ何のトラブルもないし、親にすごく大事にされてるお嬢さんだから、言うほど気にかけなくても大丈夫そうっていう感じでな。こっちが知らないだけの可能性ももちろんあるけど……兄貴のところの娘さんだから、警戒されて親族の集まり以外で関わらせてくれなくて」
「へぇ……何でだろうね、邪なこと考えてるって気にしてるのかな? トーマがおかしなことするわけないじゃんか」
「そうは言っても父親だから、娘のことが心配なんだろ。……僕としてはその心配の気持ちをもう一人の方にも向けてやってほしいけども」
「……トーマの家って、すごく難しい問題をたくさん抱えてるよね」
「まぁ、ね。色々あって疲れるよ。でも、甥っ子と姪っ子のことは好きだし、兄貴と姉さん達のことも嫌にはなれないし。腹は立つけど」
「そっか。トーマは優しいね」
「そうかねえ、ただ兄貴や姉さんたちに逆らえない弱っちいだけなやつな気がするけどな」
「うーん、でも俺も姉さんや兄さんには反抗しにくい時あるし……弟ってそんなもんじゃないかな」
「んーそっかあ」
軽い口調で言葉を交わしながら、自然とお互い手を握り指を絡める。体格のいい十真のゴツゴツした手を触るのも久しぶりである。そういう感覚を改めて確かめながら、ヴェルナーは何でもない調子で十真の言葉に返答する。先ほどの返答は適当な言葉ではない。ヴェルナーも弟かつ次男の立場故に似たようなことは経験しているのだ。
そうして、真面目な空気感から落ち着いた雰囲気を経て、ヴェルナーは再度少し真剣さを帯びた言葉を呈する。
「ねえトーマ。トーマってとっても優しい人だし、君がそうやってお兄さんやお姉さん達に気遣ったり、甥っ子や姪っ子の面倒を熱心に見てるのはいいことだと思うよ。でも、それとは別にトーマはやりたいことやっていいはずだし、それに、その……いつか俺のところに来てくれる気持ちはあるん……だよね……?」
「そりゃもちろん。まだ厳しいけど、ヴェルナーと一緒に生活したいとは思ってる。僕が年取っても一緒にいたいって思ってるのは、ヴェルナーだけだよ」
「そう……それなら良かった。嬉しいよ」
十真の前向きな回答に、ヴェルナーは内心胸を撫で下ろした。ちなみに、ヴェルナーが『俺のところに来て』という言い方をしているのは、同棲するなら十真がリヒテンシュタインに移住する方が良いだろうと話し合って決めているからである。
さて、ヴェルナーは十真からの返答を受け安堵したあと『渡したいものがある』と言って一旦十真の元を離れる。十真は突然のその行動に不思議そうにしていたが思い当たったようで、なんとも恥ずかしそうな、気まずそうな顔をしている。
そして十真自身も一言断りを入れてからソファから立ち上がると、ローテーブルの位置をソファから少し離し、何かを取りに自室へと向かった。
突然なんだと思われそうであるが、実は二人は、この日のためにとあるプレゼントを用意していたのだ。タイミングは微妙かもしれないが、どうせなら一日目のうちに渡しておきたいものだからだ。
ヴェルナーは、自分の鞄の中から箱を取り出した。これが、今回の十真への贈り物であり、自分にとっても重要な契約の品である。それを見つめて、ふぅと短く息を吐いた。自分からこの状況に持って行ったのに、なんだか胸の鼓動が早くなったような気がする。
再度、己を落ち着かせるようにもう一度ゆっくり息を整えて、ヴェルナーはソファに戻り腰を下ろす。すると戻ってきていた十真がやや照れくさそうに小さな袋を片手に立っており、ヴェルナーが声をかけると我に返ったように慌ててソファへと腰を下ろした。
これから何を渡されるか理解している十真はカチコチと体を硬くしてしまっている。これもこれで可愛らしいと思うが、少し緊張をほぐしてもらいたいと思い、ゆっくりと声をかける。
「あー……トーマ、大丈夫? 緊張してる?」
「へぁ!? あ、いや、だ、大丈夫……! えっと……僕もちゃんとプレゼント用意したから……受け取ってくれると嬉しいな。……でも、その、まずは……言い出しっぺのそっちから、でも……いいかな……」
「うん、ありがとう。……じゃあ、改めて……」
声かけに肩を跳ねさせた十真だったが、そのおかげで少し気持ちがほぐれたらしい。恥ずかしそうにしながらもヴェルナーへと行動を促す。
ヴェルナーは小さく頷きソファから降りると、片方の膝をついて、先程とは打って変わって実に真剣な面持ちで小さな箱を開き、ソファに腰を下ろしたままの十真に見せる。そこには男性向けのプラチナリングがひとつ中央に収まっていた。白銀の指輪には小さなライトグリーンの宝石が埋め込まれており、非常に高価な品であることがありありと分かるだろう。
ヴェルナーが膝をついたあたりから目を丸くして明らかに動揺していた十真だったが、指輪を見せられると驚き戸惑った後に頬を幾許か赤らめる。口角も上がっているように見えて、嬉しいという気持ちが隠しきれていない様子である。
少なくともマイナス感情は見受けられない。そんな様子にヴェルナーも嬉しく思うが、ここで破顔している場合では無い。一旦気を引き締めて口を開く。
「トーマ、今はまだ正式に結婚は出来ないし、それどころか一緒に住むことも出来ない。けれども、俺は、君の事を愛してるし、共にいるなら君がいい。だから、これを……契約の品として受け取ってほしいんだ」
「……うん」
「とはいえ、これは受け取るのは強制じゃないし、絶対指に嵌めてもらわなきゃならないわけでもない。でも、受け取ってくれると……俺は、嬉しい」
「……うん、もちろん、ありがたく受け取らせてもらうよ」
明らかに喜ばしさを面に湛えている十真は、ゆっくりと返事をした。
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